第93話 辻
パナケイアって、何で作られたんだろう。
アテナに行く方法なんてどうやって見つけたんだろう。
……私達が持ってる砂時計って、一体なんだ?
知らなかった地下を走りながら考える。天井や壁に入ったヒビは徐々に深くなり、廊下には瓦礫が転がっていた。時折体が揺れる感覚があるが、揺れの元が近づくことは未だない。
走って気づくが、地下の造りも地上と同じでカタカナのロをしていた。色々な部屋があるようだが、扉はどれもIDカードがなければ開かないらしい。恐らく流海はもう外へ出ているのだろうけれども。
もしも私と流海の気が合い過ぎて同じ方向へ走っていたら、出会えるものも出会えないというやつではなかろうか。
この地下がどれほどの強度かも分からない以上、長居するのは危険だ。生き埋めは苦し過ぎる。窓が無いぶん閉塞感も強く、上下左右が純白のせいで嫌な不安感が
白は嫌いだ。
だからこそ、
今のヤマイとヘルスがぐちゃぐちゃなように、アレスとアテナが混沌としているように、良いも悪いも、正義も悪も、すべて混ざって壊れてしまえばいい。
私はメリケンサックを握り締め、周囲に視線を回す。進行方向には壁の崩れた部屋が見え、中に入れるようだった。もしかしたらを考えた頭は足に力を込めさせ、私は急停止した。
息を整えながら壊れた扉を確認する。外部からの力で折れたような状態だが、これは恐らく流海のヤマイのせいだ。……少しだけ、血が付いてる。
付いていたであろう部屋名のプレートは瓦礫の下敷きになっていた。私は血痕を指先で拭い、プレートを引っ張り出す。
「……隔離室、三号」
歪んだ文字に吐き気を覚える。私は電気の点滅する室内を確認し、微かに呻き声を聞いた。
外れた照明器具や、ヒビの入った壁から崩れた瓦礫の山。室内はやはり白一色であり、爆発事故を錯覚させる惨事だ。物という物は何もなく、本来あったと分かるのは一つだけ。
入り口から正面。壁に繋がった鎖が目に入る。本数は五本。その壁にもヒビが入っており、鎖の先は千切れていた。
胸糞悪さに視界が狭くなる。
私は、踏めば呻き声が出る瓦礫を歩いて鎖に近づいた。
聞こえた呻きは流海の声ではない。
流海を傷つける悪の声だ。
だから私は踏み躙れる。何も思わず足蹴に出来る。
鎖の先を手に取れば、静かに苛立ちが沸騰した。
「マッキ誘発実験とは何ですか」
思わず問いが零れ落ちる。
床に密着していない瓦礫に足を置く。
間からは数人の手足らしきものが見えたが、誰にも瓦礫を退ける力は残っていないようだ。哀れだな。
「どうしてパナケイアなんて創ったんですか」
足に力を込める。微かに埃と破片が舞い落ちた。
「何故アテナの存在を知ったんですか」
呻き声に震えが混じる。
悪いが、私に慈悲はない。
私達を害悪だという奴らに慈悲など無い。
「答えろ、ヘルス」
見えていた指先の一つが痙攣する。
私の耳には濁った声が入ってきた。
あぁ、不快。答えろと言ったが不快である。
痰の絡んだ声は苦しいと分かる低さで喋り出した。
「ぉれたちは……ヤマイの、せぃで、もどされな、ぃ、んだ……なら、とりもどす、しか、ないだろ。おまえ、た、ちを、そ、の、役に、つかって……な、にが、わるぃ……」
「……あ?」
私の喉から訝しんだ声が出る。
ヘルスの言葉を理解できないから。
ヘルスが何を言っているのか分からないから。
戻されないって何処に。取り戻すって何をだよ。ヤマイのせい? 私達がいるから戻されない?
意味が分からない。本当にヘルスの考えは分からない。
肩を落として嘆息しかけた時、私の頭には嘉音の言葉が回った。
――朝陽、夕陽、俺はいいから向こうの四人を殺そう。少しずつでも世界を浄化していくべきだ
それは、今となっては昔の言葉。嘉音のペストマスクに指をかけた日の会話。
世界の浄化。嘉音達の正義はヤマイを殺すこと。ヤマイを殺せば世界が浄化される……
どうしてアテナに生きる嘉音達がアレスを浄化するんだ。今まで何も思ってこなかったが、そもそも
――アテナから戦闘員が送り込まれるのと、アレスから材料を採りに赴いたの。先に始めたのはどちらですか?
朝凪と初めて話した日、あの子はどう教えてくれた? 先に戦いの口火を切ったのは、狼煙を上げたのは、アレスではなく、
――……アテナです
歯車が噛み合いそうになる。
知ってしまいそうになる。
それは今知るべきことではないだろうに、私の思考は止まらない。
嘉音は言っていた。路地裏で、七ヶ条を語った男は言ったのだ。
――君達ヤマイの故郷は、アテナだよ
ヤマイの故郷がアテナだとして、ヘルスはどうなるんだ。ヘルスはどこから来た。元々アレスにいて、そこにヤマイが放り込まれた? それならヘルスがヤマイを嫌悪する道理も通るが、足元のヘルスが吐いた言葉の辻褄が合わない。
ヘルスはヤマイをマッキにしようとしてる。しかし、それはきっと私の仮説とは少し違う。
こいつらは私達を殺すと同時に、利用する為にマッキにしようとしているのだとしたら。
アテナから追い出された中に、ヘルスも含まれるのだとしたら。
ヤマイだけでなく、ヘルスの故郷もアテナだとしたら。
美しく汚れないアテナから、汚く醜いアレスへ追い出されたのならば。
違う、これだとズレる。今度は
奪うではなく取り戻す。奪うは自分の手元にないけれど、取り戻すは元々自分の手にあったものを、ということだから……?
アテナとアレス。
綺麗と汚い。
白と黒。
善と悪。
七ヶ条で清らかさを保とうとする世界と、七ヶ条など守れない者達が生きる世界。
砂時計を逆さにすれば、二つの世界は繋がってしまう。
違う、逆さにすることで――混ざれるんだ。
「元々、一つだったから」
下敷きになっっている指が大きく痙攣する。
私はヘルスの挙動を見逃さず、笑いが込み上げてきた。稚拙な仮説があまりにも馬鹿らしくて。
ろ過するように、
それが、アテナの清らかさの理由。眩暈がするほど美しい理由。
汚れをすべて取り除いて、アレスと名付けた容器に閉じ込めたから。
自分達は清らかな者だけを残し、アテナと名付けた容器の中にいるから。
そんな奴らがアレスを浄化してどうする。今さら浄化して、再び一つに戻りたいとでも?
ヘルスは自分達を切り捨てた世界に戻りたくて、ヤマイを物にしたのだと?
あぁ、おかしな話だ。馬鹿な仮定だ。哀れで哀れで、反吐が出る。
「……ヤマイ、が、ヤマイ、さぇ、いなければ……ヘルスは、ぁの、せかぃに、アテ、ナに、もどれ、る……んだ」
血だらけの手に、瓦礫に乗せていない方の足首を掴まれる。私は上がっていた口角を剥ぎ落とし、弱々しい掌を払いのけた。
「擦り付けるなよ。七ヶ条を守れないお前達だって、アテナでは呼吸も出来ないだろ」
アテナが故郷だなんて私にとってはどうでもいい。あんな毒の世界に戻りたいとも思わない。長居すれば命に関わる世界など欲しくない。
そんな私とは裏腹に。
パナケイアにいるヘルス達がヤマイに向けるのが、嫌悪ではなく憎悪だったなら。嫉妬であり憤りであったならば。
「相容れませんよね、私達は」
硬い瓦礫に体重をかける。
やはり私に、慈悲は生まれなかった。
「……一番楽な死に方って、何だと思いますか」
マッキになること。
毒で肌を溶かされること。
薙刀で斬られること。
銃で撃ち抜かれること。
……瓦礫の下敷きになること?
「眠るように死ねたら良いですよね」
呟いて、私は鎖を放り投げる。床とぶつかった金属は低い音を木霊させ、呻き声が引き攣った。
私は歩いて来た瓦礫に乗る。呻き声は深く大きくなり、私の不快感は増すばかりだ。
「一番苦しい死に方って何だと思いますか」
溺死、出血死、幻覚死、中毒死、ショック死……圧死?
私は足に体重をかけて、軋んだ瓦礫と上がる呻き声を雑音にした。
「私、貴方達のことが大嫌いなんですよ」
床に赤黒い液体が広がっていく。瓦礫のヒビが深くなり、瓦礫ではない何かが折れる音もした。
「嫌いな奴を救えるほど優しくない。嫌いな奴の為に身を粉に出来るほど、人間できてないんです」
深く低い音が響く。呻き声が大きくなり、誰かが聞けば悲鳴だという音量に達した。
「害悪共が」
腹の底から吐き捨てて、足を退ける。
瓦礫の下からは荒い呼吸が聞こえて、私は壊れた扉から廊下に出た。
「殺しませんよ。それでは貴方達と同じ立場へ成り下がる」
まぁ、その瓦礫から出られるかは知らねぇけどな。
私はヘルスの声も、今は不要な仮説も切り捨てて、廊下の先に赤を見つける。駆け寄ればそれは血痕であり、点々と前に続いていた。
これはきっと、流海の血だ。
直感的に思って、自分と同じ方向に流海も向かったのだと気づく。
私は体勢を低くして駆け出し、流海に電話をするか悩んだ。
もしもどこかに隠れていて、私の着信のせいで気づかれるようなことがあれば元も子もない。どうすれば流海に私がここまで来ていると伝わる。恐らく私の呼び声は届いてない。
待てよ、流海はどうしてあれほど良いタイミングで事故を起こしたんだ。あの子の事だから故意に無表情を見たのだろうが、それにしても私の体が空いている良いタイミングだった。
私は自分の行動を思い出して、金髪が脳裏をチラついた。
「あぁ、なるほどな」
私は廊下に取り付けられた赤い非常ボタンを見つける。
迷いなくボタンを殴った私は、地下に響き渡る警報に耳を傷めつつあった。
「樒が役に立ったわけだ」
鳴り響く緊急装置音が反響して鼓膜を攻撃してくる。
しかし、そんな煩わしさが発生しようとも、私は流海に伝えることを望んだのだ。
ここにいるよ、流海。
来たよ、地下まで来た。
会おうよ、大事な大事な片割れ君。
警鐘が私達が来た印になる。流海が走る為の知らせになる。
私は手の甲に着いたボタンの破片を振るい、進行方向からした重たい音に駆け出した。
壁に微かに亀裂が入る。きっと今の音ならば、起こった事故は照明器具の落下だろう。
「流海ッ!!」
声を張り上げて、届け、届けと願ってしまう。
肺いっぱいに空気を吸って、腹の底から吐き出して。
帰ろう流海、帰ろうよ。
柘榴先生と猫先生を見つけて、帰ろうよ。
「――!!」
音がする。
私が探していた声がする。
跳ねた心臓のままに駆ける私は、愛しい声を拾い上げた。
「涙ッ!!」
「流海!!」
姿はまだ見えないけど、その角を曲がった先に片割れがいると知る。声は近くなっており、私は体の痛みも忘れていた。
しかし、忘れてはいけないこともある。
流海に知らせが届いたということは、他の職員にも知らせは共有されたことになるから。
角を曲がりかけた瞬間、私の背中に無数の手と圧迫感が押し寄せた。
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