第94話 抗
傷口を容赦なく掴まれて奥歯を噛む。
腕を後ろに引かれて痛みが広がる。
前へ進もうとしていた体は強制的に止められ、バランスを崩された。
「ぐ、ッ」
足を取られないように踏ん張ろうとするが、私を引く手は一人だけではなかった。
両腕を、襟を、腰部分を掴まれる。相手は三人だと判断した時、視界の端には黒い服がチラついた。
抑制部署、まだ残ってたか。
パナケイアにいる職員は概ね四種類。
研究に伴う治療および解剖まで行うのが研究員。柘榴先生は研究と治療が専門だった。
研究員に準ずる補佐役が道具室担当。研究員が使う道具のメンテナンスを担当しており、桜や
抑制部署に所属する抑制員はパナケイアの外で活動する。
対する警備員はパナケイアの施設を管理する奴らだった筈だ。
研究員と道具室担当は十中八九、流海が起こした事故で避難中か、巻き込まれてその場待機。警備員は樒が引き寄せている。抑制員は何人か倒したと思っていたが、まだいたか。残業代がつくことでしょう。ムカつく。
体を後方へ捻り、両腕を無理やり自由にする。見えた抑制部署員達は無表情で私を見つめ、黒い制服がアテナの戦闘員を彷彿とさせた。
白い建物の中にいる黒。その異質さが際立つようで、私はメリケンサックを握り込む。
倒せ、コイツらは敵だから。慈悲はいらない、躊躇はするな、急所はどこだ。
鳩尾は服の中に何か仕込まれてたら不足する。だから狙うなら顎がいい。
私は即座に判断し、一番近くにいる男の顎を見る。
瞬間、背後から痛みと衝撃が走り、私の目の前を星が瞬いた。
足から力が抜ける。腰後ろから全身を駆け巡った衝撃が思考を鈍らせ、気づいた時には倒れてしまっていた。
指先が痺れて、背中は痛くて、全身の傷口が開く気がする。よく分からない呼吸音が聞こえたが、それは私の喉から鳴っていた。
筋肉が痙攣して眩暈がする。頭上では電気の弾ける音がして、ぼやけた視界には黒いスタンガンが見えた。
流石に、体に電気を叩き込まれたのは初めてだった……。
どことなく他人事のような感覚がする。私の体からは力が完全に抜けてしまい、人形のように腕が掴まれた。
「視界はどうする」
「今の状況で笑う奴はいないだろ」
少し遠くなっていた聴覚が戻ってくる。指先にはまだ力が入らなくて、抵抗するにはもう少し時間がかかりそうだ。
「ならばこのまま隔離室四号へ入れるぞ」
「貴重な材料だ。コイツのマッキ症状は使える」
引きずられる足先を見て嫌になる。だからヘルスは嫌いなんだ。パナケイアは嫌いなんだ。
猫先生や柘榴先生は、どこまで知って働いていたんだろう。どんな気持ちで働いていたんだろう。
苦しくなかったですか、しんどくなかったですか。……私や流海の為に、色々なことを我慢させてしまっていたんでしょうか。
謝りたいな。二人に謝って、たくさん、たくさん、話がしたい。先生達の声が聞きたい。名前を呼んで欲しい。傍にいてほしい。
――流海じゃないと、入れられないかい?
――俺達はまだ、入れないか?
扉越しに拒絶した日が蘇る。
私の眉間に皺が寄り、先生達と手を繋ぎたくて……堪らなくなった。
「他に侵入している
「伊吹朔夜は隔離室行きにする。あのヤマイも印数六でマッキ誘発実験に使用できるだろ」
「残り三人は印数四以下だ。処理するとして、今晩起こったパナケイアの騒動は三人のヤマイが起こした事項として抑制する」
嫌な話が聞こえる。嫌な会話が耳につく。
私の瞼の裏に朝凪達が浮かんだ。
伊吹、お前のヤマイ使えるってよ。その手袋外して捨てちまえばいいよ。
よかったな樒、皇、思う存分暴れ回れよ。何やっても正当防衛だ。
竜胆、やられる前にやるんだな。お前は損する奴にしては芯が固すぎる。
朝凪、君には逃げて欲しいんだけど、きっと無理だろうね。
「まさかここまで実験を早めることになるとはな」
「それだけ、今の
「だが最優先は空穂流海だ。アテナの空気を吸った貴重な検体を無駄には出来ない」
息が、詰まる。
喉に感情が溜まって、鳩尾が気持ち悪くなって、目頭が熱くなる。
動け、私。動けよ、体。
指先が痙攣する。体を引きずられるのとは逆方向へ動かそうと力を入れる。そうすれば腕にスタンガンが押し当てられ、目の前に星が散った。
「ぁ、ぐッ」
脂汗が滲み出て、腕を握られる力が強まる。
駄目だ負けるな。意識を飛ばすな。抗え、藻掻け、耐えろよ私。
「まだ気絶しないのか」
「だが意識は朦朧としている。今のうちに」
動かない体では何もできない。それでも意思だけはと踏ん張っていれば、目の前に迫っていた角から足が見えた。
床に投げられた人がいる。
それは、私の大事な安堵の象徴。
倒れた流海は、抑制部署の奴らに鎖を握られていた。
首と両手足には千切れた鎖がぶら下がっている。五カ所に黒い枷がつけられ、流海は小さく呻いていた。流海の傍にいる抑制部署の奴らは笑うことなく、一人がスタンガンを握っている。
私が呼びかけたから? 私が呼ばなければ、流海は掴まらなかった?
不安に駆り立てられて、動かない体に苛立ちが募る。
抑制員の一人が流海の鎖を持った。首と繋がった鎖だ。
力の入らない流海は目を瞑り、脱力したまま頭を上げさせられた。
「空穂流海は確保した。隔離室五号に連れて行けばいいか」
「そうだな。殺すなよ」
「コイツの体内はアテナの毒が深く侵食している。作戦筆頭のヤマイだからな、バイタルも常に確認しておけ」
「空穂涙と共に動かせばヤマイの相乗効果が得られる。コイツらは二人で動かすぞ」
勝手な話をしてる奴らがいる。まぁ、私と流海がセットなのは正解だけどな。お前らには使わせねぇよ。
流海の瞼が震えて、微かに目が開くと分かる。
私は自分の顔に集中し、痙攣しそうになりながらも口角を上げた。
笑わない片割れに、私は笑って無事を示す。
流海の頬や腕からは血が流れ、千切れた鎖の先が揺れた。
あぁ、流海、流海、私の流海。
「る、か……」
渇きそうな舌を動かして、小さく小さく片割れを呼ぶ。流海は口の端に力を入れて、指先が床を掻いていた。
「るぃ……るい」
黒い瞳と視線が合う。流海の顔は、笑わない。
片割れの鎖は引かれ、私の体も引きずられる。
けれどもここで終わってなどやらない。負けてなんてやらない。道具になどならない。
悲観するなよ、自分。
相手は私達を尊重しない。
相手は私達を愛さない。
ならば私も尊重しないし愛せない。
だから、私が想うのは流海だけでいい。
この場にいるそれ以外なんて、みんな、みんな、壊してしまえよ害悪らしくッ!!
笑って体に力を込めた私は、腹の底から声を上げた。
「流海!!」
目が合ったのは私と同じ黒い瞳。
私の前だけでは笑わない君へ。
一緒に事故を受け続けた君へ。
信じているから、信頼しているから、だからどうか、私と共に悪くあろう。
私達の正義の元に、害を振り撒く悪になろう。
見開かれた片割れの目に、私は思い切り笑顔を向けた。
「――笑えッ」
私を掴む手が震える。抑制員達が何か言うけど、私の耳には届かない。
大の大人に私の腕力も体格も勝てないから、だから、だから、だからと願って。
奥歯を噛み締めた流海は、私に左手を突き出した。
「涙!!」
流海の首の鎖が引かれる。それでも流海は私を見続けて、甲高い金属音が響いた。
私の足が浮いて、持ち上げられそうになって、それより早く流海の声がする。
顔を歪めた片割れは、力の限り、喉を傷めて、叫ぶんだ。
「――笑わないでッ!!」
それを、君が願うから。
怪我した君が望むから。
私は奥歯を噛み締めて、笑顔を落とす。
右手に力を込めて、差し出して。
倒されてなるものか、いいようにされてなるものか。
笑顔を落とした私の前で、流海が――笑った。
働け、発病しろ、全てを壊してきたんだから。
壊して、壊して、全部壊して、私と流海の道になれ!!
壁に亀裂が入る。
扉が勢いよく外れて倒れてくる。
亀裂の入った天井から照明器具と瓦礫が落ちてくる。
私と流海を離した抑制部署の連中は、声を上げながら事故に巻き込まれた。
私達の体が自由になる。痺れた体に鞭を打つ。
下は向くな、前だけ向け。
よく見ろ。よく理解しろ。よく観察しろ。
私は扉に腕をぶつけ、流海が破片で手の甲を切る。
そうすれば、私達は事故を躱せる。最小限の怪我で事足りる。
例え体がまだ上手く動かなくても、無理やり歯車を回せ。
誰が事故に巻き込まれたとしても、瓦礫を踏んで、危険な場所に取り残そう。
私と流海はどちらともなく手を繋ぎ、流海が来た道を駆け出した。
足が覚束なくてスピードは出ない。二人揃って息切れし、何度も転びそうになりながら、繋いだ手だけは離さなかった。
流海に繋がった鎖同士がぶつかって、金属音が耳に着く。
私達はただ直線の廊下を駆け抜けて、外れていた一つの扉に飛び込んだ。
電気の点滅している室内には資料や研究道具が転がっており、私は流海と物陰に蹲る。
お互いの顔を見られないまま、体を寄せ合って、手を握り締めて。
耳元で流海の心音がする。早く大きな音に私は勝手に安心してしまい、流海は私の頭に手を置いてくれた。
私は流海の腰に手を回し、冷えた体を密着させる。互いの体温を混ぜるような行為に自然と呼吸が落ち着いていき、冷たい鎖が微かに触れた。
「……迎えに来たよ、片割れ君」
「ありがとう……片割れちゃん」
流海の胸に顔を埋めて笑ってしまう。流海は私の背中にも手を回し、呼吸が落ち着いた頃に声を聞かせてくれた。
「聞こえたよ、警報。だから僕も動けたんだ」
「あれは樒のせいさ。警備員を引き付けてくれてる。あと、伊吹と竜胆が先生達を探してくれてるよ」
「そっか……この服はどっちの? 竜胆君? 伊吹君?」
流海が私の着ている服の襟を引っ張る。私は自分の格好を見下ろし、そういえば伊吹から服を借りていたのだと思い出した。
「伊吹だよ。流海と別れた後、伊吹兄妹の家に
「へぇ」
笑って流海を見上げる。無表情の流海は目を少しだけ細めて、首筋に顔を埋めてきた。嫉妬でしょうか、大変可愛らしい満点。
私は自然と笑みが零れ続けて、流海の背中を一定の速度で叩き続けた。
「嫉妬しちゃう流海君はかぁわいーいなぁ」
「……肩幅合ってない服着てる涙もかぁわいーいんだけどさぁー」
ご不満そうな流海が首筋に噛みついてくる。私はくすぐったさに顔を綻ばせ、流海の頭を両手で撫でた。
その時、指先に首輪と鎖が触れる。私は思わず動きを止めて、ゆっくりと鎖を伝った。
「鍵は?」
「見つけてない。ヤマイのお陰で千切れたってだけだから」
「探そうか」
「手間だからいいよ。どうにかすれば壊せるだろうし」
顔を上げた流海の瞳を覗き込む。そこには微笑んだ私が映っており、流海は背中を丸めた。
目を閉じれば、瞼に流海の唇が触れる。冷たく柔らかい感触に息を吐けば、体の力も戻って来る気がした。
「教えて、涙。この後どうする気?」
間近に流海の目を見る。睫毛が触れ合いそうな距離にいる片割れに安堵して、私は自分の呼吸を取り戻したのだと実感した。
膝を着いて流海を見下ろす体勢を取る。流海は黙って瞼を下ろし、私は片割れの瞼に唇を寄せた。
ここにいるよ、大丈夫。私の半身はここにいる。触れ合える、温度がある。怪我をしているが、怪我してこその私達だ。
私は流海の頬を両手で挟み、歪だと分かる笑みを浮かべていた。
「何も変わらないよ。流海を治す、流海と幸せになる。その為には先生達を取り戻す必要がある、二人を見つけないといけない。それが私の目的で、正義になる。誰に何と言われても」
流海が私の背中に指をかけて引き寄せられる。私達は、廊下を駆け抜けた大人の足音にも気づいていた。
潜めた声で話をしよう。大人も世界もどうでもいいから、私達だけの幸せの為に正義を成そう。
「なら、壊さないといけないね」
私の考えを流海が口にする。
私は無言で微笑を浮かべ続け、流海は喉に口づけをくれた。
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