第80話 赤

 

「……え、」


「伊吹、説明は後でちゃんとしますから」


「今、取り敢えず匿ってくれね?」


 頭の天辺から足の先までずぶ濡れの状態で、私達はインターホンを押した。急かすように何度も呼べば、慌てた顔の伊吹が玄関を開けてくれる。


 灰色の彼は目を丸くして、血の滲んでいる皇と私を交互に確認した。


 道路の方からはバイクが走り去る音がする。柊は桜を、棗は椿を迎えに行く為に。


 皇が指定したのは伊吹兄妹の家だった。


 そこは落ち着いた雰囲気のアパート。家の中には伊吹と小夜以外の気配が無い。皇によると、灰色の兄妹は二人暮らしとのことだ。


 皇は伊吹の了承を得る前に玄関に上がり込み、私は廊下で灰色を見つめた。奥からは目にアイマスクをつけた小夜も出てきて、小走りにタオルを取りに行ってくれる。


 困惑を隠せない伊吹を見て、私の脳裏には嘉音の顔がチラついた。


 ……身勝手だよな、私は、どこまでも。それが例え自分の志の為であったとしても。


「無理はしないでください。これは貴方と小夜も巻き込む行為だ。何なら皇を引っ掴んで別を当たります」


 指先に赤く大きな雫が流れていく。包帯が緩んだかな。ガーゼはどうだろう。


 せっかく柘榴先生が手当てしてくれたのに。


 私は指先を握り込み、いつも手を取ってくれる片割れがいないのだとも思い知った。


 助けに行かないと。流海をパナケイアにいさせてはいけない。連れ戻さないと。その後どうする? 柘榴先生と猫先生の体ではパナケイアを離れられない。どうしたらいい。どう選ぶことが正しい。私はどうしたい。


 流海は無事なのか。柘榴先生は間に合ったのか。猫先生はどうなった。私のこれからはどうなるんだろう。私達はどうなってしまうんだろう。


 流れるように湧き出る疑問や疑念が、私の足をすくってしまいそうな気がする。私はその柔らかい流れに溺れないよう、必死になって踏ん張って。


 やっと、希望が手に入ったと思ったのに。流海に受け入れられたのに。二人で泣いて、それでもきっと、これで大丈夫なんて思ったのに。


 どうして後から嫌なことが湧き上がる。どうして私の道はいつも不穏で溢れてしまう?


 どうして、普通の幸せがこんなにも遠いんだ。


「もう、十分巻き込まれてる」


 雨で張り付いた前髪を手袋をした手に分けられる。握っていた手はタオルで包まれて、灰色のおさげが揺れていた。


「涙さん、入って。外は寒いよ」


 小夜は私の手を引いて、伊吹に後頭部を撫でられる。


 私の両目からは熱い雫が流れたが、それは雨雫だと自分に言い訳をした。


「おい、しょぼくれてんなよ包帯乱用機」


 皇は勝手知ったる態度で脱衣所から現れる。男は血のついたシャツを引っ張り、私の応急手当セットを指さした。


「まずはお得意の手当て、頼むわ」


 あぁ……そっか、そうだ、そうだよな。止まってる時間だって惜しいのだ。


 動けよ体、働け頭。


 私は小夜から受け取ったタオルで顔を拭き、皇と共に脱衣所を借りた。


 シャツを脱いだ男の背中や脇腹には深い切り傷が出来ている。


 それは、猫先生がつけた傷。


 深く息を吐いた私は、両手で勢いよく包帯を伸ばした。


「ではご要望にお応えし、これより荒治療を始めます」


「待て待て待て誰がんなようぼ、あああああぁぁぁいってぇなッ!!?」


「だまらっしゃい」


 * * *


「はー……やっぱ経験が違うのな。素人がこんな綺麗に包帯巻けるか普通」


 皇は包帯を撫でながら髪を拭いており、私は小さくクシャミしてしまう。流石に冷えたか。流海も先生達も冷えてるよな、きっと。


 血だらけを思い出して胸を掻く。一度深呼吸をして、心臓を落ち着ける。


 私は唇を軽く噛んで、応急手当セットを確認した。少し濡れた物もあるが基本的には無事でよかった。


 中身を整えていれば、奥底から理性決壊薬と緩和薬が微かに覗く。


 あぁ、これ、見られたら駄目だな。


 これは大事な明日の一歩。柘榴先生に見せるんだ。それ以外の奴には見せない、知らせない、渡さない。


 私はガーゼや包帯で薬を挟み、奥底に隠したままにした。


 鞄を閉じれば皇に肩を叩かれ、私は黙って振り返る。


「ん、」


「はい?」


「今度は俺が巻いてやるよ。包帯寄越しな」


「ふざけるのも大概にした方がいいと思いますね。自分でするので退出してください」


「安心しろよ。相方の着替えや買い物で女の体型なんか見慣れてる」


「樒と私は別ものですが?」


 皇の赤い目を見つめて断固拒否する。男は強請ねだるように手を出したまま私を見下ろし、こんな茶番をしている時間は無駄だと苛立ちが募った。


 コイツはいつも本気か冗談か分からない境を歩いてやがる。だから苛立って、苛立って、無駄な揶揄からかいを交えてくる姿に辟易した。


 でもそうだ。だからコイツの本心はいつも分からない。皇樒は、自分を見せずに相手を引っ掻き回すのが上手いのだ。


 私は路地裏で倒れていた先生達を思い出して、皇の言葉も蘇った。


 ……そうか、コイツ、そういうことか。


 癪だが納得してしまう。気に喰わないけど悟ってしまう。今までコイツが廊下で会うたびに軽口を叩いたり、大学で私を捕まえた意味が分からなかったが、つまりはそういうことか。


 私は重たく息を吐き、皇に釘を刺しておいた。


「似てないでしょ。血の繋がりはありませんから」


「……あ?」


 皇の眉尻が痙攣する。私は男の上がりかけた口角から視線を外し、嫌に人間らしい彼に呆れてしまった。


 ――マジで年の差が潰れねぇかなって考えた時もあった


 雨降る中で呟いた金髪は、きっと心の螺子でも緩んでいたんだろう。だからぽとり、ぽつりと言葉を零して、落ち着いた頃に餌にされるのだ。


「感傷に浸って赤裸々に吐露すれば、そうなりますよね」


「いや何のはな、」


「柘榴先生」


 口に出して皇の反応を観察する。男は今日一番、眉間に皺を寄せた。


 黙った男は半歩後ずさり、額を押さえ、天を仰ぎ、深く深く息を吐く。


「……あれは、あれだ。冗談」


「あの場面で冗談を言うなんて最低ですね」


「猫柳さん半殺しにしたの怒ってんの?」


「怒らないと思いますか?」


「いや怒るわな。そうだなそうだな、そうだよな」


「猫先生に話をすり替えようとしてますね。より怒りますよ」


「あー……お前いますぐ記憶喪失になってくんね?」


「無理でしょ」


 やっぱり嫌いだな、この男。


 お前が猫先生を殺しかけたのは正当防衛であると、頭では分かってるよ。


 きっとお前が行かなければ柘榴先生は死んでたし、猫先生だって永らえてはいなかった。


 皇が走ったから今に繋がった。柘榴先生も猫先生も、生きているかもしれないという消えそうな希望を持っている。


 それでもやっぱり、私は感謝よりも不甲斐なさや憤りといった感情の方が先行してしまうんだよ。


 何様だと言われようとも、自分のことを棚に上げてしまっても。私は私の大切だけを想ってしまうから。


 雨の染みた傷に痛みを覚える。ズキズキと、ズキズキと。


 私は柘榴先生が巻いてくれた包帯を触り、嫌味を込めて呟いた。


「分かりにくいんだか、分かりやすいんだか」


「あーあーうるせーじゃーな俺疲れたから寝るわー」


 頭を掻きながら皇は洗面台の鏡に腕を捻じ込む。逃げたな。


 半ば呆れて息を吐けば、男の体は鏡に吸い込まれ、代わりに華奢な少女が降り立った。サイズの合っていない服から覗く包帯はどこか扇情的で、金色の髪は湿っている。


 皇のヤマイである少女――樒は、私の前で口を真横に引き伸ばした。大笑いするのを堪えるような、意地悪な表情だ。


「るーいーちゃーん! こりゃまたヒッドい状況になったねぇ。今にも高笑いしてやりたいけどこれ以上怪我するのは痛いから我慢してやろうじゃねぇか。にしても君はとことん樒と合わねぇよなぁ何でかなー。そういう星の元なのかね!」


「起き抜けにうるさいですよ、樒。勝手に零したのはそっちでしょ」


「淡くて苦い感情を揶揄からかってくれるなよぉ。意地悪だなぁ」


 樒は私の周りを愉快そうに舞う。相も変わらず、顔は笑っていないのに空気は満面の笑みを浮かべている訳の分からない奴だ。


 しかしながら、そう言った訳の分からなさが皇樒の個性だと私は判断している。その為お淑やかにこられるよりはしっくりきていた。決して落ち着くとかではないけどな。この口調はやはり皇の顔あってのものだ。樒のような儚げ美人の口調が崩れると凶悪さが増している。


 私は左肩の包帯をほどき、朧に斬られた部分を襟を引っ張ることで確認する。雨の染みたガーゼは歪んで変色し、残念ながら不衛生だ。


 樒は私に背を向ける気配がないので、私の方が背を向けることにする。そうすれば彼女は私の前に回り込んでくるので、時間の浪費に頭痛を覚えた。


「樒、私にちょっかいをかける暇があるなら貴方が見聞きした事について説明してください。もしくは淡い感情について暴露するか」


「はっはーそうきたか涙ちゃん。まぁいいか。面白い。今日の報告は全員揃った時の方が手間がないから後回しな。気になる話はCMの後でってやつだ。違うか、まぁいい! だから淡い過去を暴露をしてやろー! いやぁ愉快痛快甘くてにがぁい昔話!! って、こら樒、頭の中で騒がない」


 樒に背を向けてシャツを脱ぎ、包帯を巻き直す。彼女は背後で側頭部を叩いている様子だ。頭の中で皇が騒いでいるとは、傍から見ればおかしなものだな。流海と先生達に報告して話のタネにしたい所。


 思って、四人で食卓を囲んだことなんて無かったと気づいてしまう。


 考えて、両親よりも先生達と居る時間の方が長くなっていたと気づいてしまう。


 七年と、十年。


 温かさは違ったけれど、温かみが同じだったわけではないけれど、私達の間に引かれた線が消えることなどなかったけれど。


 もしかしたら……名前を呼んでくれた回数も、先生達の方が多くなってしまったのかな。


 私は肩にガーゼを貼りつけて、上から包帯をきつく締めた。


 背後で騒ぐ樒が、中学以降パナケイアの保護観察下にあったと思い出しながら。


 肩越しに視線が合った赤い瞳は、玩具を見つけた子どものように細められた。


「あっら~思い出した? そうそう、そこが始まりさ。私と樒が霧崎さんに会ったのはぁ、パナケイアの中庭が最初でした!」


 そこからあれよあれよと語られる、皇の青い泡沫物語。


 柘榴先生に手当てしてもらったのが始まりで、思春期特有の自棄を起こせば止めてくれて。そしたらコロッと落ちちゃって。


 かと思えば柘榴先生には養子が二人もいると聞き、しかも猫先生と一緒に育てているとも聞き、そりゃもう荒れに荒れての破天荒。


 猫先生を見る度に突っかかるし、柘榴先生にはどんな顔したらいいのか分からないから避けまくるし。二人が結婚してると思ったら付き合ってすらないと知って怒髪天。


 若かりし猫先生に喧嘩吹っ掛けたら意味も分かっていない先生に逆砕され、その手当てをしてくれるのは柘榴先生だけでって、落ち着けよ中高時代の皇君よ。


 親には放任されてパナケイアには知らぬ所で監視されて、猫先生には勝てないし柘榴先生には手が届かないし。こじらせてひねくれて現在の大学生「皇樒」が爆誕したと。


 そんな拗らせ野郎の仕事を邪魔したのは拗れる原因の一端であった養子共、つまり私と流海である。流海がアテナに連れ込まれて、泣いてる柘榴先生を見て初めて知ったとなればそりゃ大変。


 拗れて捻じれた皇は、実働部隊ワイルドハントに入った私と流海の存在が気に喰わないし、だから馬なんて合わないし、でも柘榴先生の元で育ったようなものだから所作とか言動の節々に先生を重ねちゃってクソがと思って今日こんにちへ。


 初めて猫先生に勝った今日は、あまりにも苦くて苦くて堪らない、と。


「って、語れば語るだけ樒かっわいそ~ってなっちゃうんだけど、私にしてみれば押せよヘタレ野郎だから笑い話にしちゃうよね~。溜めるより吐いた方が楽だってこった!」


「……へぇ」


「樒って拗らせすぎてて大変ったらないよ。なーんで既成事実つくっちゃわないの? 養子がいるからなに? 猫柳さんがいるからなに? 欲しいものは手酷く奪っちゃっても良いに私は賛成派なんだけど、そこは樒と意見が合わないんだよねぇ。そういう所も含めて私にとって樒は大事なんだけど!」


「皇に理性の一片があってよかったですよ」


「やっだぁそんなこと言っちゃうなら爪の先で傷を抉っちゃうぞ!」


 巻き直した包帯やガーゼを後ろから触られ、鳥肌が立つ。樒は言葉通り指先に力を入れたので、私は気持ちの籠っていない「すみません」を口にした。


「ちゃんと謝れるのは偉いぞぉ少女、そーいうの大事! やっぱ霧崎さんと猫柳さんが育てただけあるよねぇ。ま、それが樒の癇に障ってるんだけどなぁ。涙ちゃんと流海君のことそんな好きくないのに時々霧崎さんや猫柳さんの影見ちゃうからさぁ、結局嫌いになりきれなくてムシャクシャして情緒ジェットコースターよほんと!」


 情緒ジェットコースター、ねぇ。


 いつも意地悪く顔を歪めた皇を思い出す。彼はあの赤い目で、私をどう写していたのか。流海をどう見ていたのか。


 柘榴先生の養子が私と流海だと知った時、アイツはどんな感情だったのか。揺らいだ私が謝罪した時、アイツは何を思ったのだろうか。


 私が想像したって無意味だけど、こうして他人の知らない面を知るというのは落ち着かない。


 樒を引きはがしてシャツを着れば、そこで初めて脱衣所の扉がノックされた。


「涙さーん、樒さーん、大丈夫?」


「小夜」


「はぁい小夜ちゃん、大丈夫よ」


 間延びした小夜の声に対し、お淑やかにシフトチェンジした樒が出る。その変わりように私は脱力し、扉の前に立っていた伊吹兄妹を視界に入れた。


「あ、樒さん女の人バージョンになってる~」


「えぇ。そうだ小夜ちゃん、服貸してくれる? たぶん私なら着られるから」


「はーい」


 小夜は樒を連れて自室へ向かい、伊吹は私に服を渡してくれた。あぁ……。


「空穂は小夜のだとサイズが違い過ぎるだろ」


「ありがとうございます」


 冷えた自分を見下ろして、有難く服を受け取る。伊吹は少しの沈黙を挟み、再び私の前髪を分けていた。何も言わないこの男に、私は少しだけ閉塞感を覚えてしまう。


 だから、喘ぐように悩んでいた伊吹の姿を浮かべたのだ。


「伊吹」


「……なんだよ」


「残念ながら、貴方のゴールを決める時は直ぐにきてしまったようですよ」


 灰色の瞳に言葉をかける。


 伊吹は静かに息を詰めて、私は薬を入れた鞄を撫でていた。

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