第62話 耐

流海君視点です。


――――――――――――


 

 ――涙に嫌われる。


 パナケイアの廊下で血を吐いた時、僕の頭にあったのはそれだけだ。


 涙を傷つける、涙を心配させる。涙に、大事な涙に、嫌われる。


 それが何よりも怖かった。


 だから咄嗟に口走った言葉は、酷く君を傷つけたんだろ。


「――ごめん、涙」


 あの時の涙の笑顔は、正しく死にそうだった。感情が壊れる音がして、涙が取り乱したと嫌でも伝わった。猫先生と柘榴先生に黙っておいて欲しいってお願いしたことも加えれば、涙は僕に幻滅したのかもしれない。


 それでもどうか僕を嫌いにならないで。僕を見放さないで。僕を置いて行かないで。僕以外の誰かの元へ――いかないで。


 これは、僕の病的な執着だ。


 * * *


 僕の世界は涙だけで成り立っている。


 涙がいるから外に出られるし、涙がいるから寂しくない。涙がいるから安心できるし、涙がいるから呼吸ができる。涙は僕にとっての酸素で、陽光で、心臓だ。


 僕と涙が双子だとお父さんやお母さんから教えられた時、幼いながらも涙が特別であることは分かった。僕と同じ時に生まれて、同じように育って、同じような見目をした、特別な家族。


 お父さんとお母さんがいなくなった後、涙はいつも僕の手を引いてくれた。泣きそうな顔で笑いながら。流海の方が怪我してるからって、流海の方が大変だからって。そんなことないって僕が伝えても、涙は苦笑するだけだ。


 涙だってたくさん怪我をして大変な目にあってきた。僕らは一方だけが大変なんてことは無い。どちらも大変なんだ。


 それでも、パナケイアも社会もそう見なかった。僕の左手には六の印数を刻んで、涙には五の印数を刻んだ。


 それは最低な識別だ。


 二卵性の双子だから見た目が似なくなっていくことは我慢した。体躯が、身長が、声が変わっても耐えられた。それでも、他人が僕らに違いを植え付けることは我慢できない。僕らを他者が変える事なんて認めない。


 僕は特殊なインクで刻まれた印数を何度も消そうとした。サイコロの丸を一つだけでも消せれば、涙と同じになれる気がしたから。


 しかし、血が出るほど手の甲を掻いても印数は消えなかった。怪我をしたのだと包帯を巻けば、涙は穏やかなフリをして笑う。だから僕は印数を引っ掻くことを諦めた。


「涙、無理して笑わなくていいよ」


「無理してないから笑わせてくれよ、流海」


 あぁ、嘘つきな涙、笑う事が苦手な涙、責任感が強い涙。僕と自分の為に怒ってくれる涙、ずっと僕の傍にいてくれる涙。僕よりも華奢で、綺麗で、強い涙。


 涙、涙、涙、僕の涙。僕だけの涙。僕だけの、特別な女の子。


 僕と涙を一緒に引き取ってくれた猫先生と柘榴先生には感謝してる。成長する僕らを見守って、支えてくれたんだから。


 それでも、二人はやっぱり親ではない。所詮は先生と生徒で、保護者と保護対象で、僕らは家族にはならない。先生達は親になることまでは望んでない。だから二人は、僕の執着の根元を知らないんだろ。


 お父さんとお母さんが居た頃は、四人で過ごす時間が沢山あった。対する今は忙しい先生達がいなくて、僕と涙だけの時間が格段に多い。その時間が僕の視野を狭くした自覚はあった。当たり前のように涙と一緒にいて、涙だけを見て、箱のような家に涙と一緒にいられるだけで良かった。


 二人っきりの世界で、涙と二人だけで、涙は僕だけを見て、僕も涙だけを見る。


 そんな二人ぼっちが好きで、大好きで、愛しくて、誰も傷つかないし傷つけない、無くすことを恐れなくていい、最高に平和な世界だったのに。


 あの、黒いペストマスクのせいで全部壊れた。


 あの日、あの時、あの瞬間。弱い僕が連れ去られたせいで全部崩した。


 目覚めた時、涙は真っ白なペストマスクを持つ実働部隊ワイルドハントに入っていた。


 動けるようになった時、涙の周りには僕の知らない人達がいた。


 涙を心配する声がする。涙を知らない声が呼ぶ。涙の腕を掴む奴がいる。涙を支える誰かがいるッ


 そんな奴らに囲まれて、涙は泣いた。仲良くなりたくない、ヤマイに巻き込みたくないって泣いた。僕の涙が、僕の可愛い涙が、僕の知らない奴らを想って、染まって、泣いたんだ。


 あぁ――ふざけんなよ。


 奥歯を噛んで、体を渦巻く棘だらけの感情を我慢する。涙は僕ではない誰かを想って、それでも僕に縋りついた。


 涙の中に僕ではない誰かが入り込む。線引きを守っていた先生達とは違う。教師と生徒ではない誰か、僕らを邪魔する子どもが入り込む。


 そんなの、僕は許さない。


 涙を傷つける奴は許さない。


 涙につらい思いをさせる奴は誰であろうと許容しない。


 誰にも笑ってもらえないあの子を、これ以上傷つけるだなんて我慢できない。


「涙さんと、お話が出来たらなって……思ったんです」


「それはやめて欲しいな」


 優しい声で涙を心配する朝凪いばら。彼女は嫌い。涙に初めて実働部隊ワイルドハントを教えて、同行して、ずっと涙を気にかけてるって聞いた。優しい子なのだと涙が言っていた。だから僕は嫌悪する。涙の袖を掴むお前なんて、認めない。


「僕と涙は二人で一人だ。半身を無くしたら呼吸なんて出来ない。だったら行きつく先も一緒だよ。僕が死んだら涙も死ぬ。涙が死んだら僕も死ぬ。だから僕達は死ぬことを恐れないだけだ」


「……待って、何言ってるの? それ、おかしいでしょ」


 朝凪さんを守るように立つ竜胆永愛。彼も嫌い。でもまだ見逃せる。彼は涙に近づき過ぎてないから。朝凪いばらと同じように心配はしてるけど、涙以上に大切なものが明確にいるから節度がある。僕と涙の関係に口出すならやっぱり許せないけど。


 涙はいつか、この二人を選ぶのかと不安になった。昔みたいに優しい涙が表に出てきたら、二人の手を振りほどけなくなるのかなって。


「……これ以上私達を気にかけないでください。放っておいてください。流海には私がいればいい。私にも流海だけがいれば、それでいい」


 だから、涙が僕だけいればいいって示してくれた時は満たされた。心身共に優越感と安心感に包まれる。僕もだよって嬉しくなるけど、笑えば涙が怪我をするから我慢したのに。


 涙の視線を奪う奴がいる。


 涙が僕だけを見ることを許さない奴がいるんだ。


「空穂、俺にはお前が「弟だけいればいい」って言い聞かせてるようにしか聞こえない」


 伊吹朔夜。僕と涙を引き裂く、一番大きくて、邪魔な奴。


 嫌い、嫌い、僕はお前を許容できない。僕は誰よりも伊吹朔夜という男を嫌悪する。


 涙の腕を掴む手も、涙を見る灰色の目も、涙を心配して怒る声も、涙に優しくしようとする態度も、全部、全部、虫唾が走る。


 僕がアテナに連れて行かれなければ涙は実働部隊ワイルドハントに入らなかった。そうすれば朝凪さんとも、竜胆君とも、伊吹君とも出会わなかった。涙の世界には僕だけで、僕らは二人ぼっちでいられたのに。


 結局は、弱い僕が悪い。僕が弱いから、僕が朧に背中を取られたから。僕がきちんと動けていたら、今は大きく違ったのに。


 雪が降った日、涙はいつもより穏やかだった。僕の手を引く竜胆君と伊吹君は何がなんでも絡んでくる心構えで、正直鬱陶しいと思ったけど。涙が雪を眺めてたから、空気を壊したくなくて我慢した。たぶん居心地が悪いと感じてたのはバレてたけど気にしない。


 あの日落ち着かなかった僕は、急に吐きそうになったから涙から離れた。トイレに駆け込んで、後を追いかけてきたのは伊吹君だ。吐く血の量が増えて、口の中に気持ち悪い鉄の味がして、関節が震えて眩暈がする。


「流海ッ」


「ッ……へいき」


 背中を摩ってくれるのは涙とは違う人。僕が一番嫌悪してるのに、伊吹君が涙を見ない時間があるならばと苛立ちを飲み込んだ。


 アテナの毒は僕の体をゆっくり蝕んでいる。それは実感していた。体はいつもどことなく怠く、頭痛の頻度が上がってる。食欲もそこまで湧かないし、夜中に吐きそうになって目覚めることだって増えた。


 猫先生と柘榴先生は知っていた。パナケイアに何回も抗議した姿も見たし、二人は何も悪くないのに僕に謝るばかりした。


「猫先生、柘榴先生……涙にだけは、言わないでね」


 色の悪い顔で笑う二人に僕は頭を下げた。どうしても、涙にだけは気づかれたくなかった。涙にこれ以上の責任を負わせたくなくて、心配させたくなくて、僕に向けてくれる笑顔を悲しそうにさせたくないから。


 隠せると思った。涙と二人になる時間が減ってるからこそ、今の僕の体調は悟られない。涙と離れることで隠し事を上手く通せると思ったんだ。


「それで、涙は何を隠してるの?」


 それでも僕は我儘だから、涙の隠し事は知りたかった。涙のことを知りたかった。知らない涙なんて居て欲しくなかった。


 あの雪の日、涙が連れて行かれた屋上のことが知りたかった。涙は黒いペストマスク達と一体何を話したのか、僕は知りたくて堪らなかったんだよ。


「なんのことかな」


 微笑む涙は教えてくれなかった。胸が締め付けらられる思いはしたけど、これはお互い様だ。僕だって涙に何も教えないのだから。


 二人きりの病室で、僕は今までの中で一番涙を遠くに感じた。


 分かったのは、僕の為の隠し事ってことだけ。


 それくらい分かる。これは自意識過剰とか傲慢ではなくて、確定事項。今まで一緒に居たから理解できた事実だ。


 お互いがお互いに隠しているのは、同じような思考に辿りついたから。けど、涙が何を考えて、何を隠しているのかは分からなかった。


 隠して隠して、気づかれた時にどうなるかなんて僕は考えていなかった。どうやっても知られたくないと思っていたから。涙にだけは、涙にだけは絶対にって、思ってしまってたから。


「大丈夫だよ、流海」


 だからあの日、涙の何かが変わったのは僕のせいだ。


「もう、足は止めない」


 僕はいつも涙の足を引っ張ってる。痛感して、嫌になって、僕と涙は離れていくばかりした。


 僕はまた、涙に何かを背負わせた。それでも君が教えてくれることはないんだ。大丈夫だって笑って、何でもないって抱き締めるばかりなんだよね。


 僕は涙の周りにいる奴らが嫌いだ。涙の腕を引いて、涙の優しさに気づく奴らに鋭い感情ばかり芽生えてくる。


 けれども、やっぱりどうして、僕は昔から変わらない。二人ぼっちになったあの日から、涙とだけ手を繋ぎ始めたあの頃から、僕は僕が一番嫌い。


 無力で、守らせて、涙に責任ばかり感じさせる僕が嫌い。涙に心配させる僕が嫌い。


 だから強くなりたくて、これ以上涙一人に頑張らせたくないから実働部隊ワイルドハントに入ったのに。涙の為にメディシンを渡せるようになったのに。


 僕は結局、今日も家でメディシンを打ったんだ。涙が取って来た材料で、涙がくれたメディシンを。情けなくも、僕は涙にばかり無理させる。


「オープンキャンパス、行くんだ」


「まぁ、図書館にだけはちょっと興味あるから。探索したら帰って来るよ」


 笑って僕の頭を撫でてくれた涙。それだけで顔がふやけそうになったから、無表情を維持するのも難しいとしみじみ思った。


 涙の手を握って、指を絡める。涙は楽しそうに握り返してくれたから、僕の中から泥みたいに重たい感情が零れた。


 どれだけ怪我が増えても綺麗な涙。利発そうな目元や僕にだけ笑ってくれる顔を見て、僕は君を――ぐちゃぐちゃにしたい感情に襲われる。


 ぐちゃぐちゃにして、ぐちゃぐちゃにして……僕だけのものになればいいのに。


「気を付けていってらっしゃい」


「いってきます」


 笑う涙を見て汚れた感情が溜まっていく。元から溢れていた感情の重さが増していく。それを日々実感しながら、僕は涙に手を振った。


 一人家に残る事こそ僕の日常。僕は閉じた玄関から目を逸らして、無駄に「よし、」なんて呟いた。


 だいたい家事は出来るけど、料理だけは一人でしないように固く言われてる。自分でも酷いものしか作れない自覚があるので、台所は基本的に立ち入らない。


 しかし、そんな時に限ってお客さんが来るのだからため息が出た。


 インターホンが鳴ってドアモニターを慎重に確認する。相手の顔が見えない位置しか確認できないのに意味はあるのかと思うけど、備えあれば憂いなしだ。


「……えぇ」


 頬が引き攣る。このまま居留守を使おうかと思ったけど、玄関に居るのは――竜胆君と伊吹君だから。


 ここで居留守を使っても後日聞かれたら面倒くさい。嘘を突き通す自信はあるけど、それはそれで辻褄合わせに体力を使うし。


 僕は渋々、本当に渋々玄関を開けた。


「……こんにちは」


「……そんな邪険な目で笑うなよ、怖ぇから」


「は、ははは……こ、こんにちは流海君」


 震える口角を上げる伊吹君と、眉を下げて笑ってる竜胆君。僕は開けた玄関に凭れながら、二人の首元に視線を下げた。相手の笑顔が維持されるよう僕自身も微笑みながら。


「どうしたの? 今日、何か呼び出しとかあったっけ?」


「いや、ただ見舞いに来ただけだ。流海の」


 一瞬こめかみが痙攣する。お見舞いとかは誰も頼んでないし、涙以外に気にかけられても嬉しくないのが本音だ。ヤマイの発症リスクも上がるんだよ。


 嫌な要素しかないけど、わざわざ休日に足を運んだってことは、それだけ相手は労力を使ったって事。涙だったらこういう時、無下にはしないんだろうな。僕の片割れは何かと言っても律儀だし、明らかな厚意を拒絶する性格はしてないから。


 傍から見れば僕は笑顔で涙は無表情だから、僕の方が丸い性格をしてると思われてる。そう周りの視線が言ってる。


 けど、残念ながらそれは的外れ。自分で言うのも何だけど、僕は涙以外に優しくできる余裕や慈悲はない。


「へぇ……ありがと。大丈夫だよ、元気だから」


「……お前、今一人か?」


「だったら何」


「ちょっと話があるから入れてくれねぇか」


「不躾過ぎない?」


 呆れて空笑いしてしまう。伊吹君は何とか笑顔を保っているけど、元々笑うような性格の人ではないんだろ。さっさと帰れよ。


 彼の隣にいる竜胆君は冷や汗かきっぱなし。彼はいつも気苦労の耐えなさそうな立ち位置にいるよな、不憫そう。同情はしないけど。


「お前の姉さん、最近おかしくないか」


 伊吹君の言葉に頬が痙攣する。僕は努めて笑顔を浮かべて、伊吹君から竜胆君に視線を向けた。彼の目も僕を真っ直ぐ見つめて、困ったように笑ってる。もう一度伊吹君を見れば、彼はなんとか笑顔を保とうと必死だった。


 あぁ、本当に……嫌いだな。


 僕が唯一断れない話題を提供するだなんて。


 僕の基準は、どこを取っても涙なんだ。


 大きく息を吐いた僕は、体を少しだけずらした。


「どうぞ」


「あぁ、ありがとうな」


「ぉ、お邪魔します」


 僕は二人を家に通し、涙が戻る前には帰らせようと決めて扉を閉めた。

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