第2話 日
私は「笑顔を向けられると事故に遭うヤマイ」を患っている。
笑顔と言っても微笑みから満面の笑みまで幅は様々だが、総称して「笑顔」と言われるものを向けられると事故に遭うのだ。
口角が上がって目尻が下がっている表情を見れば蛍光灯が砕ける。微笑まれれば
程度は笑顔によって変わるが、事故に遭うことに変わりはない。そのせいで応急手当は上手くなったし、大抵の痛みや怪我で喚くことも泣くこともない。
向けられたらと言ってはいるが、正確には自分に「笑顔が向けられている」と認知するか、笑っている奴と目が合ったら発症する。今自分に向かって笑われてるなって言うのは感覚で分かるのだが、そう感じた時点で既にアウトだ。
そのため基本的に人とは目を合わせないし認知もしない。景色の如くやり過ごして誰も私に笑いかけないと思っておけばいいのだ。
そう心掛けはするが、先日の養護教諭は目が合ってしまったし、男達は認知したお陰で怪我したけどな。自分の感情抑制能力の低さに反吐が出る。
――ヤマイを患うのに前兆はない。
気づけば患い、最初は自分が何のヤマイかすら判別できない。だからこそヤマイ専門の研究機関であるパナケイアにヤマイだと思われる者は連れて行かれ、発症条件などを検査される。
私がヤマイを患ったのは七歳の頃だが、残念ながら検査の時は思い出したくないな。
学校からの帰り道。人と触れる程ではないが動きがとれない電車の中。扉の窓越しに見る夕焼けは毒々しく、肩や足に巻いた包帯も頭に貼ったガーゼも慣れたものだ。
「ねぇ、〈ペストマスクさん〉って知ってる?」
電車の中で思い切り会話する奴の気がしれない。
声を潜める奴はまだ周りのことを考えてるとは思うが、響く程の声で笑ったりする奴は自分中心で世界を回しているつもりなのだろう。
私とは違う高校の制服を視界に入れる。赤いチェックスカートが可愛いとかどこかで聞いた気がするが、私は紺に白いラインが入った自分のスカートの方が好きだな。赤なんて派手で嫌だ。
女子達の声に若干の苛立ちを覚えながら手の甲を摩る。頬にも数枚の絆創膏を貼っている私に集まる奇異の目線が嫌でも分かった。鬱陶しいから全員の目玉が潰れればいいと思う。
「なにそれ?」
「都市伝説だよ、都市伝説。ペストマスクを付けた変な奴が路地裏に現れて、逃げないと食べられるんだって」
「えぇ~、嫌だこっわ!」
「食べられるんだっけ? 私が聞いたのは捕まえてどこかの実験施設でモルモットにするってやつだったよ」
「あれ、マジ?」
「ちょっと、みんな適当じゃん」
笑い声がする。反射的に腕が震えた。
違う、私を笑ったわけではない。会話での笑いだ。気にするな自意識過剰。
何も起こらなかったことを確認すれば、ちょうど電車がホームに入ったところだった。さっさと降りたい。
目の前の扉が開いたので足を踏み出すと、後ろにいた乗客に先を越された。それは構わないが、降りる瞬間に人の肩に当たっていくのはどうなんだ。駅のゴミ箱で殴打したらお前の肩を砕けるかな。ゴミ箱の重さってどれ位なんだろう。
苛立ちながら背広を着た男の背中を見送る。降りる人波に乗って歩けば乗車したい奴らが障害になって頬が痙攣した。電車で通う距離の高校なんか選ばなければよかった。毎日嫌気がさす。
苛立ちながら改札を通って道の端を歩く。怪我に視線を向けられている気がしたが、左の手袋が「なんでもない」ことを示していることだろう。
ふとスカートのポケットで揺れたスマホを開けば、弟から連絡が入っていた。
〈今日、
「へぇ」
道の脇に立ち止まって返信を打つ。そうすれば歩きながらスマホを見ていた女の人にぶつかった。ふざけんな。こっちは動いてもねぇぞその目は飾りか。
その人は会釈だけして歩き去ったので、彼女が自動ドアにぶつかればいいと念を送っておいた。いや、自動ドアなんて生温いから電柱にぶつかって鼻が折れたらいいな。
私は頭の中で鼻血を出す女を想像し、スマホをスカートに入れ直した。
――私には双子の弟がいる。
小さい頃は見分けがつかない程そっくりだったのに、成長と共に体つきも変わるので残念ながら見分けが付けられるようになった。面白くない。大変面白くない。
現在同じなのは黒い短髪と左耳の上部にあるホクロくらいかな。高校卒業したらお祝いに耳のホクロ付近にピアスを開けようって約束している。ヘリックスと呼ばれる部分だから穴を開けるのは痛いと聞くんだよな。開けるけどな。
通りにあるショーウィンドーに映った自分を一瞥する。いるのは黒い短髪の包帯だらけの女子高生だ。可愛げもくそもない。基本的に機嫌が悪くて無表情なので目つきも悪く見える。弟の丸くはっきりとした目元はとても可愛いと思うんだがな。私は彼の片割れだが、そこら辺の子より弟は可愛いと言ってやろう。
柊に弟の可愛さを自慢したことがあったが、開始一分ほどで「黙れブラコン」と言われたな。苛ついたのでヘッドロック決めてやったわクソ野郎。
弟もヤマイ持ちである為、人と会えない生活を送っているが。
手を握れば鈍く痛んだが無視できる。
見慣れた住宅街に入れば、正方形に窓をつけたような家が見えてきた。三角屋根の住宅街の中ではなかなか目を引くがここが我が家だ。
「ただいまー」
脱力しながら玄関でローファーを脱ぐ。そうすれば階段の上から聞きなれた声がした。
「おかえりー」
「
「部屋戻るからいいよー」
顔を合わせず確認し合う。それは既に習慣であり、着替えなどをした後に弟の部屋に行くのは日課なのだ。
〈るか〉
手作りのボードがかかった扉をノックする。私の部屋にも〈るい〉のボードを掛けているが、作ったのいつだっけな。一緒に作った記憶がある。
「晩御飯はシチューで良い?」
「良いよ、ありがとう」
扉越しに会話をする。相手に見えない癖に私は頷き、台所に向かった。
シチューとサラダを作っていれば玄関が開く音がする。閉めている扉がノックされ、低い声が確認して来た。
「帰った。いるのは
「そうですよ、おかえりなさい」
返事をすれば一拍置いて扉が開く。
入ってくるのは大柄な焦げ茶の短髪男。見慣れた彼は私と流海の保護者だ。太いヘアバンドで前髪を上げている彼は、スーパーのセールとかに行くと自然と道が出来る程度に顔つきが悪い。昔は流海がよく泣いてたっけ。
「今日は先に流海と夕飯だったな」
「はい。顔体操しといてくださいね、猫先生」
カレンダーを確認した猫先生こと、
無表情の彼がこちらを向く。私は息を吐き、猫先生は自分の頬を指さしていた。
「怪我はもういいのか」
「動けないわけではないので」
「無理はするなよ」
「分かってます」
頭を柔く撫でられる。見上げた猫先生は無表情のままで、一重とヘアバンドのせいで瞼が重たそうなのはいつものことだ。
「事故現場は無事修復されたよ」
「それなら良かったです。怪我された方はいませんでしたよね?」
「お前以外はな」
「なら良いんです」
「涙」
猫先生の声が
――猫先生はパナケイアで働いている。
この地域を統括しているパナケイアの支部職員であり、担当は「抑制部署」だとか何とか言ってたな。詳しくは企業秘密らしいのでよく知らない。詮索する気もないので聞かないけどな。
彼の左手には手袋がつけられており、猫先生自身もヤマイ持ちだ。
彼のヤマイは――雨に当たった皮膚が刃に変わるヤマイ。
お陰で猫先生は雨が降ったり梅雨の時期になるとリモートで仕事をするし、外出する時は通り雨に備えて常に折り畳み傘を持っている。年中長袖を着ているのもヤマイ対策である。
長袖を捲った先生は私の傷を見ているようだった。
「涙が怪我をした。それだけで何もよくないだろ」
鍋の中で出来上がっていくシチューを混ぜる。
頭にゆっくりと血が上る感覚がして、私は火を止めた。
「あの時、絡んできた人達の顔を見たのは失敗でした。頭にきたのでヤマイを見せた方が早いと思ったのは軽率だったと思ってます」
「違う涙、俺はお前を責めてるわけじゃない」
「なら先生が怒ってるのは私が怪我をしたことですか。それなら諦めた方がいいかと。私のヤマイはそういう風に出来てます」
猫先生の目を見れば理解はできる。先生が心配しているのは怪我をした自分を心配しない私だ。ヤマイのせいだと諦めて、自分の怪我をどうでもいいように言った私は投げやりに見えるのだろうか。
残念ながら私はなにかを悲観したりする性格はしていない。起こることは起こる。怪我をしたら治るまで待つ。それでいい。なるようになるのが摂理だ。
「悲観はしません。怪我は治るって分かっていますし。だから心配しなくていいですよ」
「……そうか」
息をついた猫先生はお玉とお皿を取ってくれたので、私はリビングを出て階段を上がった。可愛げのない性格をしていると自覚しながら。
流海の部屋の前で止まる。包帯を巻いた自分の手を見下ろせば、全てどうでもよくなるような気分だった。
「流海、晩御飯出来たよ」
「はーい、ありがと。猫先生はもう帰ってる?」
「帰ってるよ。柘榴先生はまだ」
「了解」
流海の返事を聞きながら自室に入る。机に課題を広げれば自然とため息が零れた。
この家にあるルールは三つ。
一つは部屋に入る時、必ずノックをして誰が中にいるか確認すること。
一つは流海と私が同じ部屋にいる場合、猫先生と柘榴先生は入室しないこと。
一つは流海と私が順々に食事をとること。
他にも気を付けた方がいいことはそこそこにあるが、この三つは基本だ。
流海は印数六の認定をされている。
彼のヤマイは――笑顔以外を向けられると事故に遭うヤマイ。
流海は基本的に人と会えばヤマイを発症する。だってそうだろ、笑顔がデフォルトの人間なんてそういない。社交辞令の笑顔だっていつ剥がれるか分からない。
もしも常に笑顔の奴がいた場合、それは裏が見えない変人か、何かから自分を防衛している心配性かってところではないだろうか。
そして残念ながら流海はそんな存在とは出会っていない。出会える確証だってこの先ない。
ならばすることは一つだけ。
人との関わりを必要最低限に留めて、触れあう相手も決めておく。それは流海の防衛になると同時に周りを巻き込まない為の配慮だ。
目の前に先日の男共が浮かんで胸糞悪くなる。あいつらが既に投稿していた別のヤマイ持ちの人の動画は探し出し、サイト主とパナケイアに通報して終結した。
シャーペンの芯が折れる。解いていた数式が潰れる。私は黙ってノートを見つめ、歪んだ文字を力いっぱい消しておいた。
課題を終わらせればちょうど扉がノックされる。視線を向ければ流海の穏やかな声がした。
「涙、シチュー美味しかった。次どうぞ」
「はーい」
隣の部屋に流海が入る音を聞いてから廊下に出る。
リビングには両頬をつまんで伸ばしている猫先生がいて、台所には細身の女性が立っていた。
黒い髪を一つに束ねた彼女。白い肌と耳につけた大きめのピアスがよく似合う人。黒目のハイライトは本人
彼女は柘榴先生もとい、
ヘルスの彼女はパナケイアの研究員をしており、常に隈があるのは心配な所だ。柊の怪我もそうだが、パナケイアはブラックな職場としか思えない。嫌いなんだよな。
無表情の柘榴先生はシチューをよそってくれていた。
「ただいま涙、晩御飯ありがとうね」
「おかえりなさい柘榴先生、美味しいといいんですけど」
「大丈夫だ、美味かった」
「なら良かったです、猫先生。で、いつまで顔体操してるんですか」
「もう少しだけ……」
顔から手を離した猫先生。真顔の彼は息を吐き、麦茶を飲み干していた。
無表情の柘榴先生と向かい合わせでシチューを食べる。彼女も猫先生も基本口数は多くないのでリビングは静かだ。私も会話がそこまで好きな質ではないので気にしない。
これが私達の普通なのだから。
「後で怪我の具合を診させてもらうよ」
「はい」
呟くように会話する。
綺麗な真顔でいてくれる柘榴先生は、グラスに口をつけていた。
* * *
――私達は家族ではない。
親を事故で亡くした私と流海を引き取ってくれたのが猫先生と柘榴先生だと言うだけだ。そして猫先生と柘榴先生は結婚していないし恋人でもない。
変な関係であるだろうが、これが私達なのだから放っておいてほしい。
猫先生と柘榴先生は、ヤマイへの対処が出来なかった私と流海を保護してくれた「先生」なのだ。
ヤマイに治療方法はないが、発症させないように配慮できる場合はするに越したことはない。
研究員の柘榴先生はヤマイの治療法を毎日探しているのだとか。猫先生同様に企業秘密らしいので多くは語られないが、彼女の不健康そうな顔立ちがその大変さを感じさせる。
流海は基本人と会えないので家で通信制の高校に通っている。家にいる間「家事はするよ!」と意気込んでおり、洗濯と掃除は完璧だ。料理をさせたらよく分からない物体が出てくるが、流海が頑張って作ったと言うだけで満点である。完食したらその後の記憶が吹き飛んだが悔いはない。
流海の願いによって現在の料理当番は私だ。彼は柘榴先生と休みの日に修行中だとか。私と修行するとお互いの表情筋が死ぬからやめた方がいい。猫先生はサバイバル料理しか出来ないから修行を辞退してたっけ。なんでサバイバル料理できるんだよ。
「涙、傷は痛む?」
「別に」
「無理しないで」
「私はいつでも自然体さ」
「嘘つきだなぁ」
流海の部屋で彼と背中合わせに座っておく。お互いの顔を見ないように、表情が
こうして二人、背中合わせでいる時が一番落ち着く。双子の
私の表情筋は死んでいるとよく言われ、相反するように流海は良く笑う子だ。この子の笑顔なんて私は暫く拝んでないし、これから先も拝めることはないのだろうけど。
背中越しに感じる流海の体温は、今日も心地よくそこにあった。
「僕以外にずっと敬語で疲れない?」
「疲れるけど、敬語の方が仲良くならなくていい」
「涙は強いなぁ」
「流海には負けるね」
「僕は弱いよ」
「弱い奴がこんな所に引きこもれるかよ」
流海の後頭部に頭を預ける。そうすれば笑い声が聞こえて、私は反射的に肩に力を入れた。
これは勝手に漏れた流海の一人笑いだ。私への笑いではない。私に笑顔は向いていない。
言い聞かせて自分を
流海は私の手を握ってくれた。だから私も握り返せば、時計の秒針の音だけが部屋に響く。
「散歩にでも出ようか」
提案する。人が少なくなる夜へ。表情が見えなくなる暗闇へ行こうと。
「良いね、先生達に許可もらおうか」
「そうだね。話してくるよ」
「お願いね」
立ち上がりかけた所で流海の手に力が入った。握られる温度が熱くなる。繋いだ手を離せない。私の手にも力が入る。
いつもそうだ。流海は言葉より行動で示す。手に力を込めたのは、今すぐには離れて欲しくないと言う合図だと察することが出来た。
だから私は座り直す。流海も沈黙を続け、しかし先に口を開いたのも彼なのだ。
「ヤマイって、いつか治るものなのかな」
それは何度も繰り返してきた問い。
私は目を伏せて、抱きたくない希望を叩き折った。
「治らないよ、こんなもの」
治るなら、どんな方法でだって試してやるさ。
そんな本音は踏み潰した。
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