貴方が笑わない世界がいい
藍ねず
序章
第1話 常
――この世界には「ヤマイ」を持つ者達がいる。
ヤマイとはそれ即ち周囲にも自分にも害悪を振り撒く事象。制御出来ないという特典がつけられた事柄。
世界が始まった頃からヤマイの存在は確認され、
治療法は未確立。緩和方法などの研究は世界的研究機関「パナケイア」が一括しており、ヤマイは
印数はヤマイの危険度を示し、象徴はサイコロ。刻まれた数字が大きいほど周囲への影響が大きいヤマイと認定。
「ヤマイを持つ者とそうでないヘルスは、適切な距離や理解を持って生活を送る必要がある」
教科書を朗読する同級生にやる気は感じられない。当てられたから教科書を読み、理解をする気はないような雰囲気だ。
窓際の一番後ろの席で教科書を見ていた私は、指ぬき手袋をつけた左手に視線を移動させた。
* * *
世界は不平等だ。
果てしなく不平等だ。
この世界にいる二種類の人間がそれを大いに表している。
一つはヘルス。健常者、ヤマイを持たない存在、人口の大多数を統べる者。言い方は色々とあるが、つまりは普通と呼ばれる一般人だ。
一つはヤマイ。患った者、存在自体が害悪、圧倒的少数の欠損者。こちらも言い方は多くあるが、言ってしまえば腫れ物である。
社会の腫れ物が私達であり、ヤマイとは事象だ。だからこそ治療法は確立されないまま、私達は日々ヤマイを発症させないように努めている。
「
爽やかな秋の日。やっと夏の暑さが引き始めた頃。保健委員として保健室の掃除をしていれば養護教諭に話題を振られた。
養護教諭は三十代に入ったばかり程のおだやかな女性だ。机に向かっている彼女の口角は上がっているようだが、それが私に向いていないことを確認する。
「そうですね」
当たり障りない返答をしながら机を拭いた布を洗面台で洗う。少しだけ水が冷たく感じ始めた。これからもっと冷たくなっていくんだろうな。鬱陶しい。
ため息を堪えてテラスに歩けば、先生はローラー付きの椅子を回してこちらを向いた。
その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「空穂さんが毎日元気そうで、先生嬉しいわ」
貴方ぜったい馬鹿だろ。
思っても時既に遅く――頭上で照明器具が破裂する音が響いた。
甲高い音がする。
同時に手の甲や頬に痛みが走り、足元には白い破片が散らばった。
先生の顔から笑みが消える様を見る。
私は視線を移動させ、足元にある破片と赤いものを視界に入れた。
切れた右手の甲から流れる血液。頬を走るのは痺れる痛み。空気に触れればそれらは疼き、自然と口からはため息が出た。
「先生、絆創膏が欲しいです。ここの片づけは私がします」
茫然とした先生を見ないまま言葉を吐く。彼女は気づいたように慌てて立ち上がり、私は照明の破片を踏まないように心掛けた。
笑うなって言ってあるのに。説明したんだから理解しろよ。貴方の頭は空っぽなのかしらって、先生に対して敬意がないな。いや敬意なんて抱けねぇよ。
ハンカチで手の甲や頬を拭きつつ絆創膏を貰う。適当に貼り付けて直ぐに破片の掃除に取り掛かる間、先生の顔は真っ青になっていた。
気味が悪いと言いたいか。
奇遇だね。私にとっては、私に笑いかけるあんたの方が気味悪いよ。
反吐が出そうな苛立ちを肺の中に留めておく。同時に、頭の中では養護教諭の顔をパイプ椅子で殴りつけて潰しておいた。
「失礼します」
「あ、
保健室に入って来たのは銀髪に青い瞳を持ったスーツ姿の男。眼鏡をかけた目元に微かに皺があり、
見知った同級生の顔を一瞥してから照明器具の破片を片付け終わる。床についた血も拭き終わったので大丈夫だろう。
「あ、ありがとう空穂さん。あとは先生がやっておくから」
「ありがとうございます。ゴミ出しと事務室への報告は私が行きますね」
「手伝うぞ、空穂」
「助かります、柊。ならゴミをお願いします」
「あぁ」
養護教諭に頭を下げて保健室を後にする。頬や右手の甲に貼った絆創膏が既に鬱陶しい。スカートの端が若干ほつれたし、イライラするな本当に。
隣を歩く
彼のヤマイは周囲に殆ど影響を与えない。柊本人にだけ被害があるヤマイであり、今日の彼の姿こそ症状である。
柊葉介――起床時に体の年齢が変わるヤマイ。
一度眠りについたら最後、次に目覚めた時には身体年齢が変化するのが柊のヤマイだ。振れ幅は下が二歳、上は七十三歳まで経験済みだとか。
柊とは入学した日に初めて会ったが、あの時は五歳だったな。印数に気づかなければ「迷子?」と聞くところだった。危ない。このことは墓場まで持っていく情報である。
「柊、今日は一体おいくつなんですか?」
「四十三」
「イケおじですね」
「皺やシミが少ないことが救いだ」
ため息をつく男はどこからどう見ても高校生には見えない。制服を着ずにスーツ姿なのは本人の希望だと記憶している。
「それで、お前はまた養護の先生が笑ったのか」
「そうですよ。あの顔潰したくなりますよね」
「頭の中だけにしてくれ」
「頭の中では既に潰しました」
「お前……」
頭を振る柊を横目に見ておく。彼はため息を吐きながらゴミ袋を持ち直し、私は左の手袋を触っていた。
柊はネクタイを緩めて細いブリッジの眼鏡を上げる。背後には「仕方がない」と言う文字が浮かんでいる気がするから私の苛立ちは増えていくのだ。
「ヘルスがヤマイを理解できる筈がないだろ」
「当事者ではありませんもんね」
「それでいて、お前の場合はヤマイの質が悪い」
「喧嘩を売られたと受け取れば良いのでしょか?」
「断じて違う」
横目に柊を見上げる。彼は首を横に振り、スーツの袖の隙間からは包帯が見え隠れした。それに気づいた私は素直な疑問を投げかける。
「柊は確か、パナケイアでバイトしてましたよね。どうして怪我を?」
「ただの雑務の結果だ」
柊は私の額を手の甲で小突き、そのままゴミ捨て場の方へと歩いて行った。
私はため息を飲み込んで事務室に向かう。そこにいた事務員の人は私を見ると、ただ一言だけ呟いて立ち上がった。
「またかい」
殴り倒したい。
率直に浮かんだ苛立ちを再び肺の中に押し留める。呆れた態度を隠しもしない事務員には「保健室の蛍光灯」とだけ伝えておいた。
横を過ぎていく事務員の足を蹴りたくなったが、残念ながら良い子なので我慢する。蹴られて
絆創膏を貼った頬を掻いて教室に帰る。すれ違う生徒や教師の顔を見ないように前だけ向いて。
笑い声がするたびに奥歯を噛む自分がいる。
養護教諭が笑っていたのは私の怪我が減ったことを喜んでだった。わざわざその笑顔をこちらに向けてくれなくても良いではないかと思うが、彼女の笑顔を見たのは自分なのだ。一番浅はかなのは私である。
自分に苛立っているとそこで自覚する。苛立つと疲れるので嫌なのだが。牛乳飲んでカルシウム摂取しようかな。いや、落ち着くとは思えないからやめよう。これ以上身長を伸ばしたくないし。
思案しながら教室に残していた鞄を掴む。机の中から筆箱などを出していれば、掃除に行く前には入っていなかったファイルがあることに気が付いた。
黒く中が見えないファイルを見下ろして口を結ぶ。
〈
吐き気がする。
私はファイルを鞄に突っ込み、苛立ったまま帰路に着いた。
――ヤマイの研究をし、一目でヤマイだと分かるように印数をつけるルールを提示した機関「パナケイア」
三か月に一度、ヤマイはパナケイアの地域支部に赴いて症状確認をされる義務がある。怠れば罰則がある為、こうして書類が学校や勤め先を通して渡されるのだ。
大嫌いな定期健診の書類を渡されて、傷が余計に熱を孕む気がした。
腕時計を確認して駅に向かえば、時折左手の甲にサイコロの印をつけられた人とすれ違う。
その目の数は大概が一や二、たまに三がいる程度。四以上はヘルスへの害が大きいと言う危険認定だ。
「おねーさん」
不意に進行方向に男が立つ。斜め下に視線を向けていたので顔は見ていない。体格や声から男だと判断し、人数は三人だと頭が勝手に弾き出した。
鬱陶しいぞ。
頭に沸々と血が集まっていくのが感じられる。
少しでも視線を上げたら男達の顔が見えるな。コイツらを意識しても良いことは起こらないって分かる。景色の如くやり過ごすしかない。
何事もないと頭の中で唱えて進行方向をずらしたら、相手も目の前に移動した。進行が害される。
あ、駄目だキレそう。
私は、自分のこめかみに青筋が浮かんだ気がした。
「おねーさん綺麗な顔してるねー。背も高いし目立つねー。しかも左手に手袋なんかしてさ、自分は危険なヤマイですって言ってるのと一緒だよね?」
お前の舌、千切れねぇかな。
脳内で男達の顔を想像し、ペンチで舌を引き千切る所を想像する。気持ち悪いな。舌の処理に困るし得策ではない。
周囲の通行人は私と男達を避けていく。誰も声をかける者はいない。
指先が痙攣し、顔の前に突き付けられたスマートフォンのカメラを私は凝視した。
「俺ら珍しいヤマイの人達を撮影してネットに上げてるんだけど、どう? お姉さんのヤマイも載せて良い? 良いよね?」
「どういうヤマイか晒しとけば見てくれた人達も理解してくれるし?」
「俺ら超やさしーでしょー、人助けだよ人助け」
笑う声がする。
耳障りな笑い声だ。
人の沸騰している血液に薪をくべるような行為だ。
私のこめかみで、血管が切れた気がした。
顔を上げて男達の笑顔を見る。
それは私に向けられている。
笑顔が私に向いている。
私はそう認知した。
――瞬間。
頭上から音がする。
誰かの悲鳴が聞こえたが雑音だ。
私は向けられていたスマホが落ちる様子を視界に入れながら――降り注いだ鉄パイプの雨を避けなかった。
地面のコンクリートが砕ける音がする。
情けない悲鳴が聞こえてくる。
車の急ブレーキが聞こえる。
私の肩を、頭部を、太ももを、鉄パイプが殴打して傷つける。
それでも私は倒れることをせず、男達が尻もちをつく無様な姿を見下ろした。
埃と共に金属特有の甲高い音が
悲鳴や喧騒が波のように押し寄せて苛立つ、苛立つ、苛立つ。
全て鬱陶しいぞ。
転がった鉄パイプを跨いで男達の前に立つ。
顔面蒼白の彼らの前で左手の手袋を外せば、黒いそれは血を吸って重たくなっていた。
左目の上から水滴が流れる。汗かと思ったが拭えば赤かった。
肩が焼けるように熱い。しかし残念ながら熱いも痛いも慣れっこだ。我慢できる。
足を若干引きずった気がしたが無視をしよう。これから家に帰るのだから足が痛いと少しでも思ったら面倒くさくなる。
私は外した手袋を握り締め、刻まれた印を男達の眼前に突き付けた。
「私の印数は五です。症状は――笑顔を向けられると事故に遭うヤマイ」
熱い足を上げて転がっていたスマホを踏み砕く。
ローファーの裏で画面を踏みにじり、すり潰し、足を上げた。
「貴方達は何も知らずにヤマイを発症させましたね。それが拡散で人助けだと主張されるおつもりですか。そんな言葉は寝言でも許されませんね」
もう一度スマホを踏み潰す。そうすれば名前も知らない男達は青い顔のまま肩を跳ねさせた。
周囲を一瞥して私以外に怪我人がいないことを確認する。叫んでいた奴らは勝手に野次馬へ転身し、スマホを構えるか話をするかで湧いていた。
うぜぇな消えろよ鬱陶しい。
「一歩間違えれば私のヤマイは周りを巻き込みます。だから印数が四以上の人達は手袋をつけて「近づくな」と示しているんです」
「ぁ……ッ……」
「その足りない脳みそと配慮に叩き込んでください。手袋つけたヤマイには気安く絡むなと」
目の前の奴らが弱くお互いを確認する。
私は三回目になるスマホを踏み潰す行為をし、足元にはガラクタが出来上がった。
「巻き込まれたくないなら――二度と私に関わらないでくださいね」
サイレンの音が近づいてくる。
鬱陶しい、鬱陶しい、鬱陶しい。
私は手袋を付け直し、座り込んだままの男達を通り過ぎた。
コンクリートに血が落ちていく。このまま通りを歩けば人目につくな。
苛立ったまま路地裏に入り込み、暗がりの中で
クソが、クソが、クソがッ
誰もいないから口調が砕ける。
浮かぶ言葉がそのまま口から溢れでる。
「うぜぇうぜぇ、あぁうぜぇッ」
建物の壁を背に頭に触る。そうすれば貫くような痛みが走るから余計に苛立ち、体の奥から熱い感情が沸き上がってきた。
壁を殴りつければ肩に痛みが走り、サイレンの音が通り過ぎていく。
応急手当用の道具を鞄から取り出すが、三人から向けられた笑顔によって発症した事故だ。一人で手当て出来る範囲に収まっていないと直ぐに理解できた。
だから私はスマホを操作した。血で濡れた指先では反応が鈍く、よりイライラしたけどな。ふざけんなマジで。
なんとか電話をかけた相手は「直ぐに向かう」と返事をくれて、私は息を吐き出した。
建物の隙間から空を見上げる。
橙色と紫色に染まったそこは酷く遠くて、肌寒さに自然と身震いした。
あぁ、イライラする、本当に。
「私に、笑いかけんじゃねぇよ」
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