第48話 夢

 

(――あぁ、これは夢なんだな)


 涙は自覚した。自分が夢を見ているのだと。


 病院の入院着だけを纏った裸足の自分が、いる筈のない場所に立っている事から。


 木製の柔らかな色味の室内。そこはリビングだ。今の家ではない。涙と流海が生まれ育った家――彼らが両親と過ごした家。


 涙はダイニングテーブルを撫でて目を伏せる。


 そうすれば彼女の足元を瓜二つの顔をした子ども達が走り過ぎ、少女の胸が締め付けられた。


「お父さん!」


 それは少年特有の高い声であった。あどけなさを残した――流海の声だった。


「お母さん」


 それは少女特有の高い声であった。今よりも幼さを宿した――涙の声だった。


 振り返れば、抱き上げられた小さな双子と、笑っている大人の姿があった。


 涙と流海にとって大切だった人。温かかった人。優しかった人――かけがえのない人。


「流海」


 黒い短髪。丸く柔らかな目元と低く静かな声。


 それは二人の父の声。


「涙」


 少し癖のある肩口までの黒い髪。利発そうな目元と包み込むような声。


 それは二人の母の声。


 涙の視界が歪み、朦朧もうろうとした意識のせいで呼吸が苦しくなった。彼女がせてしゃがんでも彼らが視線を向けることなく、四人は四人のうちで笑っている。


 しゃがみ込んだ涙の周囲は徐々に薄暗くなっていった。温かな家を外側から覗き込むような、不可思議な立ち位置へと変わっていく。


 これは夢だから。


 これは少女の記憶が見せる思い出だから。


 涙は耳に残った笑い声に奥歯を噛み、静かに胸を掻き毟った。


(……最低な夢だな)


 * * *


 涙と流海が育ったのは街中から離れた場所だった。自然が多く、利便性は悪いが人が少なく静かな所。柘榴と蓮と住んでいる場所とは正反対であり、窓からは林や田んぼの見えるのんびりとした地域だ。


 交通量の少ない道路脇に建てられた明るい木造の家。二階建ての家屋に住んでいる流海と涙は、家で一番太い柱の前に立っていた。


 窓からは陽光が射し込み、部屋の中を温かく染めている。


「お父さん、ぼくの背、るいより高くなった?」


 柱を背にしているのは幼い流海だ。あどけない顔立ちは中性的で、小さな右手は涙と繋いでいる。頬を少し染めて真剣な顔をしている流海は、片割れよりも背が高くなることをご所望らしい。


 そんな片割れと柱を見比べるのは、幼き日の涙だった。


「まだ高くなってないよ、いっしょ、きっといっしょ。ね、お父さん」


 流海と瓜二つの見た目をした涙。あどけなく中性的な顔立ちは鏡写しのようで、微かな違いと言えば表情の豊かさだ。


 自分の成長に期待する流海は目を輝かせ、口角は緩んでいる。対する涙は無表情のまま、空いている手で父の袖を引いた。


「そうだなぁ、どうだろう」


 二人の前に膝を着いている父親――空穂うつほかえでは、定規と鉛筆を持って苦笑する。彼の左手の甲には印数一が刻まれていた。


 楓は黒い短髪と柔らかな目元をしており、そこには成長した流海の面影がある。


「んー……跳ねてちゃ測れないよ、流海」


「はぁい」


 跳ねていた流海を、楓は低く包み込むような声で止める。流海はきちんと踵を柱に合わせ、楓は丸い頭に定規を当てて線を引いた。


 目を輝かせる流海と口をもごつかせる涙は場所を交代し、少女は大人しく定規を頭に乗せた。物静かな雰囲気ながらも、少女からも背が伸びていることへの期待感が溢れている。


「……のびてる?」


「伸びてるよ。ほら、涙も流海も同じ背だ」


「「ほんとだぁ」」


 手を繋いだまま跳ねる流海と、軽く踵を浮かせたり付けたりを繰り返す涙。流海の感情表現が素直である分、涙は全てが控えめであった。


 楓は微笑みながら小さな二人を見つめ、指先は柱に刻んだ跡を撫でている。


「やっぱりまだいっしょだった」


「ぼく、るいよりおっきくなるもん」


「私、るかを見上げるのいやだなぁ」


「えー……じゃあ、まだしばらくは同じ背でいてあげる」


「ありがとー」


 両手を繋いでくるくると回る双子。そのまま勢いがついてしまった二人は甲高く笑いながらじゃれ合い、そこで初めて涙にも満面の笑みが浮かんだ。


 楓は柱に刻んだ線に涙と流海の名前を書き、立ち上がった足には双子が勢いよくしがみついた。


「お父さん」


「おとーさん」


「「あーそぼ」」


「あぁ、何して遊ぼうか」


 楓は笑って双子を抱き上げる。流海と涙は父親の首に小さな腕を回し、「鬼ごっこがしたい」とはしゃいでいた。


 ――入院着を纏い、傷だらけの涙は三人の姿を見つめている。


 ――高校生の少女の周りは仄暗い。一定範囲が日陰になったような状態であり、近づいても近づいても三人との距離が縮まることは無かった。


 ――陽光に照らされていた夢が薄らいでいく。その代わりと言わんばかりに隣から柔らかなランプの光りが零れ始め、涙は視線を移動させた。


 ――傷だらけの涙は声を拾う。ベッドに腰かけて、夜に溶けるような三人の声を。


「お母さん、お母さん、」


「今日もねる前に、」


「「絵本よんでくれる?」」


 涙が濃紺、流海が薄青のパジャマを着ている時間。双子が並んで眠れる大きさのベッドには双子と母親――空穂うつほ琉貴るきが座っている。


 黒い肩口までの髪と、利発そうな灰色の瞳。涙自身は思わないが、流海から見れば涙には琉貴の面影があった。


 双子は母を両脇から挟む位置に座り、返事をうかがっている。琉貴は二人が可愛くて仕方がないという笑みを浮かべ、肩口からは黒い毛先が滑り落ちた。


「もちろん、今日は何を読んで欲しい?」


 母の返事に、双子の顔は晴れたように明るくなる。いそいそとベッドから下りた二人は小走りに本棚の前に行き、真剣な顔で絵本を選び始めた。並んでいるのは全て「めでたしめでたし」で終わる本である。


「これは昨日よんだね」


「うん、これはその前」


「今日はこれの気分……じゃないね」


「うん。こっちがいいな」


「さんせい」


 顔を寄せ合って絵本を選ぶ双子。琉貴は可愛い我が子の背を見つめ、細められた目元は愛おしそうに染まっている。滑らかな黒髪に琉貴は指を通し、その左手には印数二が刻まれいてた。


 空穂琉貴――傷口が移動するヤマイ


 彼女は怪我をしたと思った場所とは違う場所に傷が出来る。右手の先を怪我したと思えば左足首へ、太腿を怪我したと思えば右頬に。難儀なヤマイに彼女は気を使い、どんな場所へ怪我が移っても手当て出来るだけの知識があった。


 それを無垢な涙と流海は知らない。琉貴も教える気など更々なく、絵本を持った子ども達をベッドに入れた。


 琉貴は双子の間に入り、ベッドスタンドの明かりだけに満たされた室内で絵本を開く。


 涙と流海は母の裾を握り、静かに眠気を誘う声に安心した。


 絵本を読んでもらうと、いつも先に眠るのは流海である。琉貴はそれをよく知っており、涙は最後まで聞きたいと睡魔と戦う性格をしているとも分かっていた。


 琉貴は早々に寝息を立て始めた流海を笑う。反対側では閉じる瞼を必死に開けていようと努力する涙がいる為、母は絵本を読み続けてやった。


「――は、幸せに暮らしました。めでたしめでたし……おしまい」


 琉貴は静かに絵本を閉じる。涙を見れば満足したように瞼を閉じ始めており、琉貴は小さな瞼を撫でてやった。


「おやすみ、涙」


「ぉやすみ……なさぃ」


 眠たさを主張する挨拶を残して涙は寝息を立て始める。


 琉貴は可笑しそうに双子の頭を撫で、その姿を楓が覗きに来た。母も父も静かに双子を見下ろし、顔を見合わせて笑ってしまう。


 ――涙はその日の事を、何となく覚えていた。眠りたい気持ちと母のお話を聞いていたい気持ちがせめぎ合い、最後まで聞き終わって安心した記憶。もう少しで深い眠りに入りそうな時、自分達を見下ろす空気が二人になったと少女は思っていたのだ。


 ――これは彼女の夢である。起きていない、見ていない時のことは彼女の想像も混ざっているかもしれないが、涙はこの夢を記憶だと思っていたかった。


 ――彼女の周りでは温かで柔らかい夢が浮かんでは消えていく。涙の心に残った記憶が夢を描いていく。


 低い音でマグカップが割れた。手伝いをしていた涙の手から零れ落ちたのだ。


 驚いた涙は床に散らばる破片と、目の前にしゃがんだ琉貴を見つめている。


「涙、大丈夫?」


 琉貴は娘の顔を覗き込む。涙は鳩尾の部分を握り締めて口を結び、見開いたままの両目からは大粒の泪が零れ始めた。


「……ごめんなさい」


 小さな声で謝る涙。琉貴はゆっくりと瞬きをし、握り締められた涙の手に触れた。


「良いよ。次はもっと気を付けようね」


「……ぅん」


 涙は泣きながら首を縦に振る。母はそんな娘の姿に苦笑してしまい、破片を踏まないように涙を抱き上げた。少女は泣き声を堪えながら母の服にしがみついている。


「大丈夫だよ、涙、大丈夫。お手伝いありがとう。驚いちゃったね」


「……お母さん、けが、してない?」


「してないよ。涙は? 怪我してない?」


「して、ない」


「良かったぁ」


 笑う琉貴と目を擦る涙。声を聞きつけた楓と流海は掃除機と箒、塵取りを持っており、流海は泣いている片割れに驚いた。


「二人とも大丈夫か?」


「うん。涙が驚いて泣いちゃったけど」


「そっかそっか」


「るい、るい……痛い?」


「るか……」


 鳩尾の前を握って流海が涙を見上げる。大粒の泪を零し続ける涙を見た流海は、なぜだか自分の視界まで滲んでしまった。


「あ、楓」


「ん? ……あっちゃぁ……」


「るい、痛い? 泣いてる、だい、じょうぶ……?」


「痛くないよ、るか、痛くない、痛くない、けどぉ……」


 涙につられて泣き出してしまう流海。それを見て涙の泪も止まらなくなり、双子は揃って泣き出した。


 琉貴は眉を下げて笑い、楓も困った顔で流海を抱き上げる。苦笑する両親はそれぞれ抱いた子どもの背中を撫で、しゃくりあげる双子がお互いを見えるようにしてやった。


 涙と流海はお互いの手を差し出し、泪に濡れた掌を繋ぐ。鼻を鳴らして泣いてしまう二人に両親は困りつつ、それでも可愛くて仕方ないと言う気持ちは隠せていなかった。


「涙も流海も優しくって可愛いくて、お父さんは二人が大好きだよ」


「「……ほんとぉ……?」」


「もちろん」


「お母さんだってそうだよ。優しい涙も、可愛い流海も大好きだ」


 琉貴は一定のリズムで涙の背中を撫でる。母の体温から感じる安堵に涙は泪を止め、鼻の頭を赤くしながら視線を上げた。


 琉貴も楓も微笑んで、染まった双子の鼻先を軽く叩く。


「だから笑って欲しいなぁ、涙、流海」


「お父さん達に、二人の笑顔をくれないかな?」


 涙と流海は鼻を啜りながら顔を見合わせる。それから恥ずかしそうに微笑むから、両親は額を寄せて笑ったのだ。


 ――涙は体の横で拳を握る。一緒に壊したマグカップの破片を集めた記憶は、悲しく不甲斐なくても大切な記憶だった。


 ――それでも、大切だからこそ見ていると苦しくなる。息苦しくて堪らなくなる。


 ――涙は拳で自分の太腿を叩き、ソファに座っている夢に視線を向けた。近づきたいと足が動く。間近で見たくないと頭が叫ぶ。ちぐはぐな感情と動作は噛み合わないまま、涙は夢を見続けた。


 ソファに座っている涙と流海。その間には二人の父親が腰を下ろし、膝に置いた紙にペンを滑らせていた。


 穏やかに微笑む楓は、紙に綴った文字を見つめている。穏やかに凪いだ、黒い目だ。


 〈嫌い〉


 その文字はゆっくりと歪み、形を変え、画数が減り、意味を変える。


 〈好き〉


「「変わったぁ」」


「あぁ、そうだよ」


 空穂楓――記した感情表現が逆転するヤマイ


 彼が〈嬉しい〉と書けば〈悲しい〉になり、〈泣きたい〉と書けば〈笑いたい〉になり、〈好き〉と書けば〈嫌い〉になる。


 楓は歪んで反対の意味になった文字を撫で、その腕には幼い双子が抱き着いていた。


「これ、ぼく達もできる?」


「いいや、これはお父さんしかできない」


「へぇ、凄いねー」


「ねー」


 まだヤマイについて上手く理解していない流海と涙。その目を見た楓は穏やかに目を細め、愛おしそうに子ども達の頭を撫でていた。


「でもこれは困った事に、ラブレターが書けないんだ」


「らぶ、」


「れたー」


「そ、二人もよく書いてくれるだろ? お父さんやお母さんに大好き―って」


「「うん」」


「それがお父さんは出来ないんだ」


 節くれだった楓の指は涙と流海の額を撫でる。その顔は始終穏やかで、流海はペンを取っていた。


「でも、きらいって書いたら好きになるよね?」


 拙い文字が紙に綴られる。流海が書いた〈きらい〉は歪むことなくそこにあり、楓は眉を下げて笑っていた。


「そうだけどなぁ……それはしたくないんだ」


「「なんでー?」」


「さぁ、なんでだろうな」


「私も知りたいなぁ、楓君」


 ソファの背もたれ越しに夫と子ども達を覗き込む琉貴。楓は首をのけ反らせながら妻を見上げ、困ったように笑って見せた。


「……どうしても?」


「どうしても」


 琉貴の口角は意地悪く上がり、子ども達も父親に抱き着いている。楓は暫し口を閉じた後、諦めたように肩を竦めていた。


「だって、嫌じゃないか。〈嫌い〉と書いて〈好き〉だと伝えるなんて。それなら俺は、直接好きだと口にするよ」


 琉貴の灰色の瞳が楓を見つめている。楓の顔は徐々に赤くなっていき、睨めっこに負けるように背中を丸めていった。子ども達は父の顔を覗き込み、不思議そうに首を傾けている。


「おとーさんは、」


「お顔が、」


「「まっかっかー」」


「可愛いねぇ、楓くーん」


「……んー」


 三人揃って楓を笑う。流海は満面の笑みを浮かべ、涙ははにかむように口角を上げて。耳の先まで赤くなっている楓は顔を覆っており、琉貴は彼の頭を後ろから撫でていた。


 ――涙は胸の中心を掻いてしまう。血が付いた指先は息苦しそうに喉に伸び、浅くなる呼吸を必死になだめようとしていた。


 ――薄暗闇に立つ少女は、遠くにある温かな思い出が消えていくのを見る。暗くなり、暗くなり、暗くなって、最後の火が灯る。


 ――振り返った涙が見たのは誕生日ケーキ。


 ――そこには、七つの蝋燭が立てられていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る