第47話 隠

 

 マッキが沈静された後、それで終わりとはいかない。


 涙はマッキ病棟に運ばれ、意識混濁のまま拘束された。


 プラセボが投与されることによってヤマイはマッキ状態から抑え込まれていく。それは沸騰していた水を常温に戻すことと似ているが、膨れ上がったものを元に戻そうとするには器が耐えねばならない。


 プラセボによって鎮静が始まると、最初にやって来るのは高熱と幻覚。無理やり抑え込まれるヤマイに体が耐えかねて警鐘を鳴らし、頭の回路が正常な視界から遠ざかる。バグを起こしたような状態は暫く続き、次にやって来るのは体内からの拒否だ。


 嘔吐と吐血を繰り返して体が異物を吐き出そうとする。マッキに成り果てた体に理性を戻そうとする為にはそれ相応の時間と体力が必要なのだ。一度解き放たれた感覚を元の枠組みに戻そうとプラセボが働くが、それをヤマイと本能が嫌がって抵抗する。


 暴れ出さないように手足を繋がれた涙は、自分の状態など分かっていなかった。


 どうして繋がれているのかも、ここが何処であるかも、今が何日の何時なのかも分からなかった。


 彼女の目には世界がぼやけて映り、自分の隣にいる者が誰か分からない。


 白衣と手袋をつけて、黒い髪を結った女性。涙が「先生」と呼ぶ彼女――霧崎柘榴は、涙の痛みが少しでも和らぐことを望んで処置に当たっていた。彼女の本来の仕事は実働部隊ワイルドハントが持ち帰った材料の研究であるが、その合間を縫っての自主的奉仕である。


 涙は柘榴の行動も、彼女が霧崎柘榴であることも分からず、また檻の外にいる者が誰かも分かっていなかった。


 そこで待っているのが少女にとって最も大切な片割れでありながら、彼女は理解できないのだ。


 流海は、瞼を閉じて昏睡した涙を見る。高熱にうなされ、血を吐く片割れの体は瀕死の重傷だ。


 左足は完全に骨が砕け、右腕も骨折。傷口には硝子片や木屑が混ざり込み、しかしそれらを取り除くには今の状態の涙では処置できない。


 気絶したように眠る涙。流海は廊下から片割れを見つめ、冷たい檻に額を寄せた。


 今回の涙のマッキ症状により、パナケイアも多少の痛手を負った。建物の損壊もあるが、それによって職員の何名かが傷ついたのだ。


 しかしそんなことは流海にとっても涙にとってもどうでもいい。流海は自分の腕に巻いた包帯を見下ろしてから、パイプ椅子に腰を下ろした。


 樒や小梅達も怪我をした今回のマッキ対応。苦肉の策に身を投じた朔夜といばら、永愛は凍傷の症状があり、今も定期的な診断中である。


「あ、流海さん」


「……小夜ちゃん、伊吹君」


 エレベーターから降りてきたのは朔夜と小夜の兄妹。朔夜はロングコートに手袋、ネックウォーマーを身に纏って肌を隠し、小夜は今日も両目を包帯で巻いていた。


 灰色髪の兄妹は流海に微笑み、小夜は両手で抱えるほど大きな袋を流海に差し出した。流海は口角を上げたまま首を傾ける。


「何? これ」


「お見舞いです。涙さん早く元気になってねーと、流海さんはちょっと休んが方がいいよーの、お見舞い。霧崎さんと猫柳さんも、お休み全然してないね」


 包帯で目を隠した小夜が一生懸命な仕草で流海に袋を押し付ける。中には栄養ドリンクや簡単に口にできるお菓子等が入っており、流海の感情がささくれ立った。


 口を結んだ少年は微かに目を見開き、袋を覗いた姿勢から動かない。


「……ありがと」


 重たそうに口を開いた流海。言葉に反して今すぐ後退しそうな少年に、朔夜は涙を重ねて見た。


 この双子はどこまでも似ており、どこまでも怖がりなのだと。


 朔夜は檻の向こうで眠る涙を一瞥する。心電図は彼女の心拍が早いことを波で示し、柘榴は栄養剤と繋げた点滴を確認していた。


 朔夜の視線に気づいた柘榴。顔を上げた彼女は眉を下げて微笑み、直ぐに涙へ視線を戻していた。


「……熱も幻覚も続いてるのか」


「そうだよ。目が覚めたら血を吐くか、魘されるかって所」


 流海は差し入れをパイプ椅子に置いて俯き続ける。小夜は首を傾けながら兄の袖を引き、朔夜は妹に微笑んだ。手袋をつけた朔夜は妹の頭を撫で、ゆっくりと視線を流海に向ける。


 伊吹兄妹に背中を向けている流海。彼は横目に涙を一瞥し、不意にその場を離れてしまった。


「あれ、流海さーん」


 小夜は流海の背に声を掛けるが、少年は振り返らない。急ぎ足の彼に朔夜は違和感を覚え、首を傾けた小夜から離れた。


「お兄ちゃん?」


「あぁ、ちょっと待っててな」


 朔夜は小夜の頭を撫でて笑ってやる。少女は口角を思いっきり上げ、可愛らしくおさげを揺らして頷いた。


 妹から離れた朔夜は流海を探す。双子の片割れは廊下の角に向かっており、朔夜はすぐさま追いかけた。


「おい流海、何か気に障った……って、」


 角を曲がった朔夜は流海を見失う。頭を掻いた少年は直ぐ近くにあるトイレに気づき、少しだけ考えた。


「……考えすぎか」


 朔夜の感じた言い知れない不安感。それを少年は杞憂だと思い直したが、足は小夜の元へ戻らなかった。


 閉じられたトイレの入り口。朔夜は何の気なしに視線を下に向け、背筋を悪寒が駆け抜けた。


 一滴だけ。


 押し開きの扉の下、床との境に着いた――血痕。


 弾かれるように朔夜は扉を開ける。


 視界に飛び込んだのは、入り口横の洗面台にもたれかかっている流海の姿だ。


「流海!」


 駆け寄った朔夜は見る。口を押えた流海の顔から血の気が引き、指の間から血が零れている姿を。


 灰色の少年は頭が一瞬真っ白になる。しかしそれは瞬きの間で、彼は即座に理解してしまった。


 ――アテナの毒に犯された少年


 それが流海だ。


 その少年が今日まで、何も無い筈がなかった。


 ただ見せなかっただけで、口先だけで「問題ない」と言い続けただけで――本当に問題がない筈なかったのに。


 流海の特技は隠遁することであると同時に、感情すらも隠すこと。社会から離れ、その身を隠すことが彼は上手い。そして同等に本音を隠すことだって彼は長けている。隠すことが流海の生きる術だったから。


 涙は流海の特性を知っていたが、それでも気づけずにいた。これだけは知られてはならないと流海が隠して閉じ込めた事柄は、たとえ片割れである涙にも見抜けなかった。


 朔夜の額が一気に熱くなる。彼の頭には柘榴を呼ぶことや検査と言う単語が回り、慌ただしくきびすを返した。


「まッ、そこにいろ! 直ぐに霧崎さん達、を、ッ」


 切羽詰まった朔夜の腕が流海に掴まれる。それを灰色の少年が理解した時、彼は背中を壁に叩きつけられていた。


 度重なる驚きに朔夜の視界が発光する。彼の目は自分の首を前腕部で押さえつける流海に向いた。


 口を押さえる手を離した流海。その手には血が溜まっており――吐血したことが明らかだ。


 黒髪の少年は洗面台に血液を捨て、手の甲で口元を雑に拭う。その目は決して朔夜の顔を見ず、朔夜も笑う事は出来なかった。


「ぃわないで」


 たんが絡まったような声で流海が呟く。


 朔夜は直ぐに返事を浮かべることが出来ず、流海の手はより少年の首を押さえつけた。


「誰にも言わないで」


 今度は明瞭に聞こえてくる流海の声。


 朔夜は唇を一瞬噛み、自分が思う正論を口にした。


「でもお前、それ、黙ってちゃいけねぇことだろ」


「うるさい……」


「退院した後からか? もっと前からか?」


「うるさい」


「ッ、誰かこのこと知ってるのか。霧崎さんは、猫柳さんは? お前、このことちゃんと空穂に――」


 涙のことを口にした瞬間、朔夜の気道が流海によって押さえつけられる。一気に呼吸を妨げられた少年は気力で意識を保ち、震える流海の姿を確認した。


 吊り上がった黒い瞳。


 今にも朔夜の首を折りそうな流海は、灰色の毛先を見つめていた。


「涙に言ったら、ぶっ殺すッ」


 激しい怒気を目に浮かべた流海。


 朔夜の腕には鳥肌が立ち、双子の片割れは奥歯を噛み締める。血で汚れた顎や歯が余計に少年の空気を鬼気迫るものにし、朔夜の返事は「yes」しか許さなかった。


 灰色の彼の頬を冷や汗が流れる。彼は流海の血で汚れた右手を確認し、たっぷりと間を取ってから目を伏せた。


「……分かった、言わない」


 その返事によって流海は腕から力を抜く。気道が開いた朔夜は軽く咳き込み、血だらけの洗面台の蛇口を捻った流海を見た。


 流海は掌を洗って口周りをゆすぐ。透明な水は直ぐに赤茶に染まり、少年は洗面台についた血痕を指先で洗っていた。


 一人黙々と、手慣れた動作で処理する流海。その姿に朔夜は聞かずにはいられなかった。


「……いつからだ、それ」


 流海の目は自分の手元を見つめ続ける。


 冷水は流海の指を濡らし、感覚をあやふやにした。


「……実働部隊ワイルドハントに入る、少し前」


 彼の答えに朔夜は愕然とする。その頃ならば流海は定期的な検査をパナケイアで行っていた。実働部隊ワイルドハントに入る前ならば退院日だって決まっていなかった筈だ。


 それでもパナケイアの検査は終えられている。流海は退院している。


 朔夜の心臓は激しく脈打ち、指先を震えさせた感情に頭が煮立った。


「パナケイアは、知っててお前を退院させたのか」


 震える朔夜の声に流海は鏡を見る。鏡に映る朔夜の手は固く握り締められているから、流海は嫌気がさしてしまうのだ。


 人のことを自分のことのように怒る朔夜に。どうしてそこまで優しくあれるのかと疑問を抱きながら。


(……嫌になるね、涙)


 流海は眠る片割れを想って目を伏せる。蛇口を捻って水を止めた少年は、上着のポケットからハンカチを取り出した。水で冷えた指先はハンカチで拭いても直ぐには温まらない。


「ヘルスにうつったり、影響がある訳ではないって結論が出たみたいだからね」


 鏡に向かって流海が笑う。朔夜は熱くなる額のまま顔を俯かせ、自分のすぐ前に流海の爪先が見えたことに驚いた。


 流海の指先が朔夜の口角を上げる。肌と肌が触れあってしまう。


 朔夜はすぐさま後退したが、時既に遅く。


 凍った流海の指先を見る。薄く氷の張った自分の口角を触る。


 流海は氷の張った指先を見下ろし、脱力するように笑い続けた。


「……嫌になるよねぇ、ヤマイって、本当」


「流海、ッそのくらいならすぐ手当すれば大丈夫だから、だから、悪い俺、動転して、俺、俺は、」


「いいよ、触ったのは僕の方だ」


 明らかな動揺を見せる朔夜を流海は笑う。いつもの朔夜は周りをよく見てヤマイに対応する側だ。誤ってヤマイを発症しないよう常に肌を隠し、見えるのは顔だけに努めている。彼の顔に触れる者などいないと確信があったからこそ、虚をつかれた灰色の少年は動揺を隠せなかった。


 一気に自分達と同じ子どもの姿を見せる朔夜。その姿に、片手の平で指先を包んだ流海は目を伏せていた。


「ほら、笑ってよ伊吹君。そうしないと僕は君の顔を見て喋れない」


 体温が戻り始めた流海の手。指先の氷も激しいものでは無かった為、直ぐに温もりが返ってきた。


 流海は両人差し指で自分の口角を上げる。伏せられ続ける瞼は朔夜の爪先を見つめ、その笑顔は酷く歪だ。


 沸騰していた朔夜の感情が一気に冷え込む。次に彼を満たしたのは泣き出したくなるような感情だからこそ、彼は口角に力を入れた。


 引き上げられた口角。痙攣した頬。それでも、朔夜の顔は笑みの定義を守っている。


 流海はその空気に気づいて顔を上げ、口角から指先を離していた。


 自然体で微笑む流海と、今にも剥がれそうな笑顔の朔夜。


「約束だよ、伊吹君。涙にだけは……この場で見たことを言わないで」


 朔夜の目を見て言い聞かせる流海。


 大切だからこそ隠し事をして、しかし自分に涙が隠し事をすることは許さないと言う我儘ぶり。それを朔夜は知っていて、流海の優しさはやはり歪んでいると思い直してしまった。


 流海は朔夜を置いて廊下に出て行く。


 残された朔夜は暫し立ち尽くし、自分の顔に笑みが張り付いていると不意に気づいてしまった。


 隣の鏡を見れば、下手糞に笑っている自分が映る。


 その中途半端で、まるで嫌々笑ったような顔に朔夜は殺意を覚えた。


 手袋をつけた手が鏡を勢いよく殴り砕く。


 硝子片がその場に散らばり、朔夜は片手で自分の顔を覆っていた。


 抱いたのは自分に対する嫌悪。こんな笑顔では、流海が自分を信頼してくれる筈がないと悟りながら。


 嫌々笑う者の傍に誰が居たがる。流海を見る涙は、いつも心底嬉しそうに微笑んでいたではないか。その笑顔が自分は出来ていない。彼の周りは誰も出来ていない。


「そりゃ……心を開いてくれる訳、ねぇよなぁ」


 朔夜は洗面台に両手をついて項垂うなだれる。


 脳裏にこびりついた自分の歪な笑顔。流海の周りにいた者達もまた、笑顔の中に歪さを混ぜていたのだろう。それに囲まれ続けた流海は一体どんな気持ちだったのかと、朔夜は想像すら出来ない。


 ……椅子に座って待っていた小夜の元に帰った流海。少女は嬉しそうに口角を上げ、何事も無かったように流海も微笑んだ。


「流海さん、おかえりなさーい。お兄ちゃんは?」


「ただいま。トイレに行ってるよ、きっと直ぐ戻って来る」


 笑う流海は小夜から直ぐに視線を逸らす。少女は「そっかぁ」と笑い続け、流海の空気が嫌に凪いでいることに気づいていた。


 小夜は瞬きをしてはいけない。しかし人間が生活する上で瞬きをしないなど不可能であり、出来る措置としては目を常に閉じ続けるか、瞼を切り取るかの二択である。


 もちろん小夜は前者を選んだ。真っ暗な視界で周囲の空気や音に耳をそばだて、理解し、感じ取り、笑っている。


 彼女がもしも目を開いてしまったら、正しく害を呼ぶ。その時視界の中心にあるものから微かに見えている範囲までが、瞼を閉じた瞬間に凍り付く。


 小夜は包帯を両手で撫で、兄の足音がまだ帰って来ないことを分かっていた。


 流海は檻の向こうで眠る涙を見る。


 目覚めたら、きっと誰もいなくなるのだと嘆いていた片割れを見つめる。


 それが涙と流海にとっての普通である。傷つけられるかもしれないと察した周囲がその場に留まりたがるなどとは思っていない。誰もが涙と流海を置いて行く。


 人の感情は、見えないからこそ恐ろしいのだ。


 流海の視線が柘榴に向かう。涙の様子を観察する彼女が一体何を考えているかなど、この十年で流海は一度たりとも分からなかった。いや、分かりたくなかったと言うのが正しいだろう。


 泣いていた片割れを流海は想う。想って想って、溢れる愛情でその名を呼ぶ。


「……怖いよね、涙」


 優しい人を傷付けてしまったら、怖がらせてしまったら、死なせてしまったら――嫌われてしまったら。


「耐えられないよね」


 見えない本心に怯えて、近づきすぎて傷付くのは自分達だと知っている。


 謝りたいと願っても、どれだけ「ごめんなさい」を繰り返しても許されない感情を流海は知っている。その感情に首を絞められ続けてじれてしまった涙を見てきたから。


 少年は涙を守りたいと願い続ける。


 彼女を傷つける者は許さない。


 彼女を自分から奪おうとする者も許容しない。


 大切なものは自分の腕の中に閉まっておくのが賢明だと、少年は信じて疑わない。


「誰にもあげない、誰にも割り込ませない」


 流海は涙を見つめて、自分自身にも気づかない。


 捻じ曲がって、捻じ切れてしまったのは――涙だけではないのだと。


 少年の瞳には光りの宿らない黒が浮かび、愛しい片割れだけを見つめていた。


「涙、涙――僕の涙」


 心の底から滲み出る言葉を彼は口にしない。喉の奥に閉じ込めて、バラバラな感情をどうにか繋ぎとめようと努力する。その時点で既に崩れていると分からないまま、複雑な感情を持て余す。


 彼は背後のエレベーターが到着した音を聞いても振り返らない。


 降りてきたのは、自分達にお節介を焼き続ける二人だと知りながら。


「……流海君」


「涙さんは、どうですか?」


 手当てをしている永愛といばら。二人は流海が振り向く動作をしたことに気が付き、顔に笑みを浮かべて見せた。


 彼らの声は涙に届かない。


 眠り続ける涙は――無くしてしまった夢を見続けているのだから。


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