第49話 雪

 

 七つの揺れる蝋燭は、傷だらけの涙の喉を締め付ける。


 ダイニングテーブルに置かれるケーキと、それを待っていた幼い涙と流海がいる。


 それは夢を覚まさせる鍵だとも知らないで。


 温かかった最後の灯だとも思わないで。


 体の芯から震える涙は初めて強く願っていた。諦めずに願ってしまった。


(あぁ、やめてくれ。頼むからやめてくれ)


 涙の思いとは裏腹に、少女の夢は進んでいく。視界が滲もうとも、呼吸が早くなっても、夢が消えるタイミングにはまだ至っていない。


 気づけば涙はリビングに立っていた。夢との隔離が終わり、夢の一部として家の中にいる。


「誕生日おめでとう、涙、流海」


 笑う楓と共に蝋燭が揺れる。手を繋いでいる幼い双子は、目を輝かせて揺れる炎を見つめていた。


「誕生日おめでとう、可愛い涙、可愛い流海」


 琉貴が二人の頬を撫でてから部屋の電気を消す。暗闇を温かな蝋燭の火だけが照らしていた。


 傷だらけの少女は自分の頬に触れる。そこに残っていない温もりに胸を掻き毟りながら。


 少女は駆け出した。血だらけの足で走り出し、一向に近づかない家族の風景に飛び込もうとして。


 彼女は夢の一部で、あやふやで、四人が囲ったダイニングテーブルに近づくことなど許されないのに。


(やめて、やめて、お願いだからやめてくれッ!)


 涙の手が伸びる。傷だらけで、傷跡だらけになった腕を。


 ハッピーバースデーの歌を楓と琉貴が歌い終わる。両親の声が幼い二人に温かく降り注ぐ。幼い涙と流海は手を繋ぎ、顔を寄せ合って息を吸った。


(待って、やめて、駄目だ駄目だッ、その蝋燭を消したら、消したらッ)


「お父さん! ッお母さん!!」


 木霊こだまする涙の声は届かない。夢も記憶も書き換えられない。


 双子が蝋燭を吹き消して、その火と共に両親の笑顔が見えなくなる様を、少女は凝視していた。


「「おめでとう――大好きだよ」」


 走る少女の目から泪が溢れる。踏み込んだ景色が、家が、崩れていく。


 聞こえたのは家の柱にヒビが入る音。


 小さな涙と流海は目を見開いてお互いを抱きしめ、楓と琉貴の表情が強張こわばった。


 ケーキの甘い香りと共に、涙と流海が抱き締められる。


 暗かった二人の視界はより黒さを増して、体中に痛みが走った。


 子ども達の意識が飛んでいたのは一瞬だったのか、一時間以上だったのか。


 幼い涙は自分の手を握り締める流海に気が付き、身動きの取れない状況で視線を動かした。


 生温い液体が涙の上から流れてきている。震える体が警鐘を鳴らしている。


「るい……る、ぃ……」


 震えて上擦った流海の声がする。涙は喉を鳴らしながら呼吸をし、固く手を握ってくる流海を離さなかった。


「ぃる……? るい……そこに、いる……?」


「いる、よ。いる、ぃるよ……るか」


 涙の手が流海を固く繋ぎとめる。流海は必死になって涙の手を握り締める。


 高校生の涙は見下ろしていた。初めて近づくことが出来たその場所へ。壊れた机を踏み越えて、潰れたケーキの甘さを思って、泣きじゃくっている幼い双子を見下ろした。


 小さな流海の上では楓の背中や首に家の瓦礫が刺さっている。流海は父親の血液で濡れていき、楓の黒い瞳は既に光りを失っていた。


 幼い涙の上では琉貴の頭が割れている。折れた骨は皮膚を破り、灰色の瞳からはやはり光りが失われていた。


 立ち尽くす涙は両親に触れられない。


 幼い双子は必死になってお互いを呼び合い、自分の上に倒れている両親を見ることが出来なかった。いや、気づいているからこそ見られなかったのだ。


 いつもならば楓も琉貴も双子のことを直ぐに心配してくれるから。名前を呼んで、無事を確認し、大丈夫だと笑ってくれるから。


 賢い双子は気づいていた。自分達の体を濡らすものが何なのか、重たい両親がどうして動いてくれないのか。


「あ……あぁ……あぁぁ……」


 立ち尽くす涙の目から大粒の泪が溢れ出る。とめどなく零れる雫は少女の頬を濡らし、膝から力が抜けていった。


 まざまざと叩きつけられた事実の中に少女はいる。温かな夢の外側に居た筈なのに、火が消える時には内側に引きずり込まれて。


 誕生日ケーキの蝋燭を吹き消すまで、辺りが暗くなるその瞬間まで、楓も琉貴も――満面の笑みを浮かべていた。


(……ごめんなさい)


「君は笑いかけられると事故に遭うみたいだね」


 周囲が一気に白紙になる。染み一つない病院の一室になる。


 助け出された先に、楓と琉貴の姿はなかった。涙はパナケイアの第三十九支部で目を覚まし、それまで生まれ育った家とは真逆の無機質な部屋に一人だった。


「とても危険なヤマイだね。ヘルスを巻き込む確率が高い」


 そこに涙を心配する者などいなかった。涙のヤマイを危惧する者がいたとしても、それはヘルスと自分達の為の防衛であった。


 何も分からない涙に施されたヤマイ特定の為の実験。そうしなければヘルスの安全は守られないという大義名分を掲げて、涙は事故に遭い続けた。


「お母さんと、お父さんは?」


 それでもきっと、そこに両親のぬくもりがあれば少女は耐えられたのだ。優しい声で名前を呼んで、自分の手を握り締めてもらえれば。「痛いね」とただ一言共感して、頭を撫でてもらえれば良かったのに。


「亡くなったよ」


「……なく、なった?」


「あぁ、君達のヤマイに巻き込まれてね」


 世界は無慈悲に少女を傷つける。


 その無慈悲さは彼女の弟にも向かい、涙の中では無くならない罪悪感と激しい憤怒が巻き起こった。


 小さな涙が見たのは傷だらけになった流海の姿。痛々しい片割れには笑わなければいけないのだと少女は知って、必死になって口角を上げている。


 左手の甲に刻まれた印数五。そこに大粒の泪を落とした涙は、それでも流海に笑いに行った。


 不安そうに泣きじゃくる流海を抱きしめて、傷だらけの子ども達は冷たい病室に閉じ込められる。


「るい、るいはどこにも行かないで、るいだけは、ぼくのそばにいてぇ……」


「いる、絶対はなれないよ、るか。約束する、ずっと、ずっと……いっしょだよ」


 白いベッドの上で抱きしめあった双子を、成長した涙は見つめている。ベッドの脇に立ち尽くしている。彼女達の周りをパナケイアの研究員やクラスメイト達が歩き去っていき、双子の泪は止まっていなかった。


 大きくなった少女は気づいている。この頃から、自分は流海を手放せなくなってしまったと。何をするにも、どんなに離れても、結局は流海の傍が一番安心して、どこまでも一緒にいたいと執着してしまった。


 それは流海も一緒である。彼にこびりついた楓の血液の重たさや恐怖、両親の喪失に、周囲には笑顔しかなくなるという大きすぎる環境の変化。それらは確実に少年を蝕んで、最も近い存在である涙に依存した。


 執着して、依存して、お互いがいなくては呼吸ができない双子達。


 泪を拭わない涙は、幼い自分達の手を引いた十年前の柘榴と蓮を見た。流海は自分としか手を繋いでいなかったとそこで初めて思い出す。


「……新しい、お母さんと、お父さん?」


 幼い涙は聞いていた。自分の手を握る柘榴に向かって。顔を俯かせて歩く流海を心配しながら。


 柘榴と蓮は顔を見合わせると、静かに首を横に振った。


「いいや……私達は、君達のお母さんにも、お父さんにもならないよ」


「涙と流海のご両親は、楓さんと琉貴さんだけだからな。俺達のことは……先生とでも呼んでくれ」


 目元を伏せた柘榴と蓮。その答えを涙が望んでいないとも知らずに。流海の期待を裏切ったとも気づかずに。


 泪が流れ続ける涙は、顔を覆わずにはいられなかった。


(違う、違うよ先生……私も流海も、安心できる人が……お父さんと、お母さんが、欲しかったんだ)


 傷だらけの涙が奥歯を噛み締める。膝をついている少女は頭を抱え、あの頃のように大粒の泪が止まらない。


(先生なんて、遠いから。教卓や机を挟んだ向こう側の人になるから……本物じゃなくていいから、それでも、それでもね……)


「……そっかぁ」


 小さな涙は俯いて、頷いた。流海は唇を噛み締めて、涙の背中に顔を埋めた。


 蹲る涙の周りを子ども達が駆けていく。涙と流海を遠ざけて、嫌悪して、嫌いだと口にしながら去っていく。


 転校初日に涙も流海も事故を起こした。それにクラスメイトが巻き込まれ、怪我をさせ、保護者が呼び出される事態になった。


 心配で怒る相手側の両親も、怖がって泣き止まないクラスメイトも、双子の心を傷つけた。


 周囲の言葉や態度は幼い心をめった刺しにし、切り刻んで捨てていく。


「お母さん……ごめんなさい」


 背中合わせで泣いている双子。呼んでも誰も返事をしない。傷だらけの腕で目元を摩り、二人ぼっちで泣いていた。柘榴と蓮だけは良い大人ではあったが、それで涙と流海の心が満たされるかと言われればそれは否だ。


 引き取った理由も話さずに、楓と琉貴が二人にしていたような親としての面はなく、保護者として加護する姿。


 それが不安だと双子は言えなかった。我儘を言えば離れて行ってしまうかもしれないから、恐ろしくて、恐ろしくて、耐えきれなかった。


「お父さん、ごめんなさい……」


 自分のヤマイで親を死なせたと分かっている涙。分かっているからこそ、何度も頭の中で再生してしまった。


 楓が少女を責める声を、琉貴が娘を「嫌いだ」と言う声を。


 そんなことを今まで一度も言われたことは無いのに、幼い想像力は少女を一層傷つける。


「嫌いに、ならないでぇ……」


 涙の傷だらけの腕が幼い自分に伸びる。抱き締めてほしくて、嫌いにならないでほしくて、許してほしくて苦しくて。堪らない感情が涙の中に溜まっていく。


「嫌いにならないよ」


 そう言ってくれたのは流海だけだった。小さな腕で少女を抱き締めて、縋るように目を伏せて。


 流海が幼い片割れを抱き締める。その時間だけは許された気がしたのだと、成長した少女は思っていた。


 目の前から幼い双子が消えていく。


 涙はそこで振り返り、窓硝子が砕ける音を聞いた。


 夢と記憶が混ざり合って、彼女の心を痛めつける。


 足元に倒されたのは、永愛である。


 殴られているのは、いばらである。


 必死の形相で駆けているのは、朔夜である。


 樒達を困惑させているのは、流海を傷つけているのは――涙である。


 マッキになった時の記憶が涙はあやふやである。それでも多くを壊し、多くを傷つけたことは体が覚えている。


 いばらに肘鉄を入れ、永愛を蹴り飛ばして、小梅に不安そうな顔をさせて、葉介の自信を壊して。


 涙は全て覚えている。朧気ながらも記憶している。


 泪が溢れて止まない少女は、目を閉じて崩れ落ちた。


 自分の周りにいた優しい人。それでも、マッキになって傷つけた相手がその後も傍にいてくれる筈がないと。


「流海、流海、私の流海」


 繰り返しては溺れていく。誰もいない暗闇で、少女は一人むせび泣く。


 誰かを傷つけたい訳では無かった。ヤマイを患いたい訳では無かった。人殺しになんて、なりたくなかったのに。


 顔を覆って涙は泣く。一人ぼっちで泣いている。


 これが夢だと知りながら、あやふやな空間の中で繰り返す。


「誰もいない、誰も私を待ってない。私なんて、私なんて、あぁ、私なんてッ」


 傷付けるだけの力を持って、その力で優しかった人達を傷つけたのだと知って。


 涙はどこにも戻れないと思った。


「涙ちゃんも流海君も嫌いだよ」


「嫌なヤマイよね、ほんと」


「どっか転校してくれねぇかな」


「行事の時とか困りますよね、あの子達」


「危ない」


「怖いよ」


「なんで生きてるの?」


 涙の周りでは誰も笑わない。冷たい言葉が雨のように降り注ぎ、彼女が覚えている唯一の温かい家族の記憶すらも凍らせてしまおうとする。


「好きでこんなヤマイになったわけじゃないッ」


 喉を傷めて叫ぶ涙。浮かぶ声に実体は無いのに、彼女の頭の中で回り続けて傷付ける。


「お前達にとって、私なんてどうでもいいんだろ。死ねばいいんだろ。怪我したって、構わないんだろッ!」


 だから涙も思っている。ヘルスなんて勝手に怪我して勝手に死ねばいいと。優しくない者達など何処かで勝手に傷つけばいいと。


 それでも、彼女の中には優しい人を傷つけた記憶が多すぎる。記憶は涙を締め付けて、目覚めた先には誰もいないと囁いた。


「流海、流海……るかぁ……」


 片割れだけがきっといる。片割れだけが、流海だけは涙を待ってくれている。


 声を振り払って走り出した涙は、ただ流海だけを想った。


 誰もいないと決めつけて、流海だけはいてくれると希望を持って。二人だけの世界に戻るだけだと言い聞かせて。


 そうしなければ、目覚めた先で耐えられないから。夢の中にいることも、夢が覚めることも恐れてしまうから。


 だから彼女は走った。暗闇の中、誰かが自分を呼んでいる気がして。何となく右手が温かい気もして。


(きっと、流海が私を呼んでる。私の手を引いてくれてる)


 泣いて、泣いて、泣き続ける涙の視界がぼやけていく。


 暗闇がぼやけて、少しだけ白が混じる。


 瞬きをするごとにその白は強くなり、大きくなり、涙は必死になって駆け抜けた。


「――涙さん!」


 涙の意識が戻る。


 一気に瞼が開眼する。


 少女の視界に映ったのは、白い天井だけではない。


 無表情の片割れ、だけではない。


 涙の周りには――ペストマスクを被ったいばら達がいた。


 いばらが涙の二の腕を掴み、彼女と反対側には永愛と朔夜がいる。三人ともペストマスクをつけており、朔夜の少し後ろにいる小さなペストマスクは小夜である。


 涙は足元にも視線を向ける。そこにはペストマスクをつけた蓮と、狐面をつけた柘榴がいた。蓮は肩から見て分かるほどに息を吐き、柘榴は静かに口元を覆う。


 涙は浅い呼吸を繰り返していた。彼女の目元を流れた滴は耳に入り込み、右手を握り締めていたのは流海であった。


 唯一顔が見える流海。目に泪の膜を張っている片割れは、脱力するように涙の胸元へ顔を寄せた。


「……な……に、なんで……」


「涙、熱が下がって、症状が落ち着いた後……目覚めなくなっちゃって……急に泣き出したから、心配してたんだ」


 涙はゆっくりと流海の手を握り締める。


 少女の視線はいばら達に向かい、再び問いかけた。


「……なんで、ここに、貴方達が……」


 いる筈が無いのに、と涙は言えない。


 いばら達が自分の傍に目覚めた先でいる筈無いのだと頭が叫ぶ。


 泪を滲ませる涙は、顔を上げた流海の腕に縋りついた。


「……夢が、まだ、覚めないんだ。やさしい夢が……あったかい、夢がさぁ……」


 大粒の泪を零して涙は泣く。ある筈のない温かさが、目覚めた先に並んでいたから。これもきっと夢の続きなのだと。


 流海は穏やかな眼差しで涙の背中に手を回そうとする。いつも通り、二人だけの世界に戻したくて。これ以上、愛しい片割れが泣いてしまわないように。


 けれども、それを許したくない者達がいる。


 少女と、少年と――友達になりたいと言った者達が。


 流海の腕を掴んだ朔夜。


 永愛も後ろから流海の肩を掴み、涙を抱き締めたのは――いばらであった。


 点滴が揺れて固く冷たい音が響く。


 目を見開いた涙は、自分を抱き締めた温かさに泣き続けた。


「夢にしないでください」


 いばらが涙を抱き締める。


 ペストマスクの下で、泣きながら笑っている。


 涙の指先は痙攣し、胸が痛いほどに締め付けられた。


「涙さんが起きるの、みんなで待ってたんですから」


 いばらは固く涙を抱き締める。


 涙は震えて、震えて、震えた息を吐いてしまう。


 流海の腕が震える。朔夜は静かに少年の手を握り、永愛が肩を撫でる。


 どうか彼らが再び殻に籠らないように。


 どうか自分達がいなくなる等と、不安がらないように。


「ここにいますよ、私達」


 いばらの声が溶けてしまう。


 涙に滲んで、広がっていく。


 泪で濡れた涙は、固く握りしめた手を解いていく。


 流海の腕は震え、柘榴と蓮はマスクの下で目を見開いていた。


 涙の指先がいばらに触れる。浅い呼吸を繰り返しながら、恐れるように――それでも、縋りつくように。


 いばらの肩が震える。


 涙の呼吸も震える。


 いばらは涙を抱き締める力を強め、涙もいばらを抱き締め返す。


 強く強く、いばらを苦しくするほど、涙は抱き縋る。泣き縋る。


「……どこにも……ぃか、ないでぇ……」


 いばらの目が見開かれる。


 それは初めての願望だから。


 いつもいつも離れようとしていた涙が、初めて縋ってくれたから。


 いばらはベッドの縁に腰かけて、涙を力強く抱き締め続けた。


「勿論です――おはようございます、涙さん」


 ペストマスクの下でいばらは笑う。


 小夜は二人を見比べ、腕を広げてベッドに乗り上げた。


「涙ちゃん大変って聞いたけど!? あ! 起きてる! 起きてる!? 起きてるー!!」


「……起きてる」


 鉄格子を超えてやって来たのは雲雀と鶯。到着したエレベーターからは小梅と葉介も降りて来る。


 涙は泣いた。泣きながらいばらに縋り続けた。この気持ちが、この安堵が、どうか消えてしまわぬように。


 流海は奥歯を噛み締めた。拳を握って、目を見開いて。両脇に立つ永愛と朔夜は仮面の下から顔を見合わせてしまう。


 雲雀は小夜といばらも含めて涙を抱き締め、ペストマスクの下で笑っている。その声を聞いても涙がヤマイを発症することはなく、発症条件はヤマイが悪化する前まで戻っていた。


 鶯は流海の顔を覗き込み、後ろから抱き締めておいた。固まる流海は黙って涙を見つめ続け、鶯は双子の少年の頭を撫でてみる。


 その温かさが流海を溶かすには、まだ時間はかかりそうだ。


「猫柳……私達は、何か間違えていたのかな」


 子ども達から距離を取った柘榴。彼女は蓮にだけ聞こえる声で問いかけ、青年は微かに目を伏せた。


「……考え続けよう。俺達が引いてきた一線が、正しかったかどうか。少なくとも俺達は正しいと思っていたんだから」


 蓮は窓の外に視線を向ける。暗かった空からは真白の雪がちらつき始めたが、それでも病室の中は温かかったのだ。


 ――その日、眠りから覚めた涙は二人ぼっちではなかった。


 いなくなると思っていた者は誰しもそこにいた。涙の元に足を運んでいた。


 だから涙は縋りついた。無くすとばかり思っていた少女の空想が打ち砕かれたから。優しく滲んで、溶けてしまったから。


 最後には、やはり少女は片割れの手を握り締めたけれど。


 この日、この時、この瞬間。


 涙を傷つけていた空想は――空想のまま、消え失せた。

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