第50話 連

 

 ……よく分からない心地がする。


 モヤモヤするような、イジイジするような……ポカポカするような。


 今の心境を正しく表す効果音が見つからない。軽く胸の中心を掻いても感情が変わるわけでもなく、私は雪のちらつく空を見上げていた。


 瞼が何だか腫れぼったい。それはきっと、たくさん泣いてしまったから。


 足が上手く動かせない。それはまだ、きちんと骨が治っていないから。


 指先が時折痙攣する。それは未だ、体が万全の状態ではないから。


 マッキとなって鎮静され、目覚めた私の視界は酷く静かだった。


 柘榴先生から療養中の話は聞いた。幻覚や高熱に長らくうなされていたと。そして、全ての副作用の症状が引いた時、私は忽然と目覚めなくなったのだとか。


 意識を戻さず丸一日。眠りに眠り続けた私の元には朝凪達が足を運び、流海は泣き出しそうな顔で目覚めを待っていたらしい。


「……心配させたなぁ」


 私の膝に頭を置いた流海を見下ろす。流海は目を閉じて体を横たえ、私の腹部に顔を埋めていた。私はベッドに腰かけ、ギプスをつけた足は重たく揺れた。


 どこかでデジャブを感じながら流海の黒髪に指を通す。腰を目いっぱい抱き締めて離さない片割れは、最近よく泣いた。


 私を見つめていると思ったら急に泣く。手を繋いでいても泣く。抱き締めても泣く。額に口づけすれば鼻を鳴らしながら縋ってくるから、私の心は愛おしさで満たされていた。どちらが泣き虫か分からないね、と。


 それでも、マッキになる前とは少しだけ違う。


 胸の中に落ちる染みを怖がらなくなった。滲みに対する恐れが減ってしまった。それに流海は気づいてしまったのだろう。


「大好きだよ、流海」


 片割れの柔らかい耳たぶを指でもてあそぶ。それから流海の頬から首筋を撫でて、肩から腕を追っていく。私に縋る右手に触れれば緩くほどけたから、私は温かな手を取った。


 流海の手の甲に唇を落とす。掌の次に敏感だと言われる唇で片割れの温度を感じれば、やはり私の心は満ち満ちた。


 マッキ療養階から入院者用の個室に移っている為、誰も咎める者などいない。私は何度も流海の手の甲や指の関節、爪にも唇を寄せ、そこに家族がいる事を確認した。


「……崩れないよ、いなくならない、壊れない。ここにいる、大丈夫……大丈夫」


 目を閉じて浮かぶのは血だらけになった両親の姿。二人は私達の上に倒れ込んで、こと切れた。


 記憶の脚色があったかもしれない。曖昧な部分を過剰に修正した夢だったかもしれない。


 それでも、あの夢の光景は私の中に色濃く残っている。


 目を閉じれば不安になって、もしも流海まで失っていたらと怖くなる。


 ――笑って欲しいなぁ、涙、流海


 ――お父さん達に、二人の笑顔をくれないかな?


 お母さんとお父さんの笑顔を思い出す。瞼の裏に浮かんだ笑顔が尊いから、私は流海の手にキスをし続けた。


 点滴しているメディシンが少しだけ揺れる。それは無償提供されていないと予想して、私は流海を見下ろした。


「起きてるだろ、流海」


 流海の薬指を口に含んで噛みついてやる。爪の生え際を少し超えた、第一関節まで。そうすれば流海は瞼を上げるから、私は口角を上げた。


 黒い瞳が私を見る。片割れは、一見すれば無表情であった。しかし黒い瞳は喜色を孕んでいるようにしか見えないから、私は顎から軽く力を抜いた。


「涙はえっちだ」


「流海には負ける」


「ありゃぁ」


「小悪魔くんと呼んであげよう」


「涙限定のね」


「やだ嬉しい」


 下前歯と唇に指が乗った状態で開口する。そのまま顔も手も動かさなければ、流海は予想した通り指をより奥へ入れてきた。だから口を閉じる。流海は薬指で私の頬を内側から押し、かと思えば舌に指を乗せた。


「……そのまま噛み砕いても良いよ」


 流海が私の歯に指を押し付ける。微笑みながら片割れを観察していれば、片割れの唇は愛しい願望を吐いていた。


「僕は涙と一つになりたい」


 起き上がった流海が中指でも私の唇に触れる。口を開いて指を招き入れれば、片割れは中指と薬指で私の舌をつついた。


「そうすれば、涙はどこにも行かないし……誰にも取られないもんね」


 流海が私から抜いた薬指を強く噛む。指の付け根には濃い歯型が残り、私はその跡を見つめていた。


「私が流海の傍を離れるって?」


「そうだよ」


「流海以外に私が取られるって?」


「そうさ」


 流海が薬指で私の唇を撫でる。口を開けて歯型のついた指を迎え入れれば、流海は歯を噛み合わせる仕草をした。


 細い流海の指が口の中で主張する。彼がつけた歯型に重ねろと訴える。


 君がそれで安心するなら、片割れの不安がそれで薄れるなら、家族の泪をそれで止められるなら。


 私は流海の指の付け根を噛んでやる。顎の力を調整して、傷つけないように、それでも跡が深く残るように。


「……これが消えなければいいのに」


 流海の左手が私の服を握り締める。右の薬指は未だ引き抜かれず、私は目元を細めた自覚があった。上げ続けている口角は自然だと思う。


 私は答えるように流海の指を再度噛み締めて、片割れだけを見つめるように努めていた。


 ――夢にしないでください


 そこで、不意に私は顎から力を抜いてしまう。


 脳裏に浮かんだ朝凪に驚いて、胸が締め付けられて――安堵してしまったから。


 流海の眉がしかめられる。


 私は笑ったまま流海の指を再度噛んだが、時既に遅し。


 指を引き抜いた片割れは、犬歯を剥き出しにして口を開けた。


 二人の唾液で濡れた指が、私の手をベッドに押しつける。万全の体勢ではないから腕の力を抜けば、ベッドに自然と倒れ込んだ。


 覆い被さってきた流海は酷く不安そうで、不満そうで、泣き出しそうな顔で私の耳に齧りつく。


 耳たぶが引き千切られるかと一瞬思ったが、直ぐにホクロがある位置を齧られた。


 流海と一緒にピアスを開けようと約束した場所。上側の軟骨を片割れは噛み、ベッドがうるさく軋んだ。


 不安定で不安げな弟よ、そんなに恐れなくても、私の不動の一番は君であるのに。


 点滴スタンドが揺れている。このメディシンは流海の為に使えば良いと切に願うが、その言葉は彼をより傷つけるのだとも知っていた。


 そこでノックの音が響く。最近よく聞く、先生達とは違う確認の音。


 返事をするか迷う間に扉は開き、私はノックの意味を問いたくなった。


「流海、空穂、入る……」


 そこに立っていたのはペストマスクをつけた伊吹と小夜。仲良く手を繋いでいる兄妹の後ろからは、同じくペストマスクをつけた朝凪と竜胆が覗いた。


 私は顎を上げ、逆さまの状態で四人を見る。流海は決して顔を上げないまま、私の左耳を齧り取りそうだった。


「涙さんと流海さんは、今日も仲良し~」


 小夜が何やら拍手をする。


 彼女の兄は、勢いよく私達の頭を叩いてきたけどな。


 病室には伊吹の叱責が木霊こだました。


「節度!!」


 ――倫理!!


 ……これも何だかデジャブな気がした。人は違うけどな。


 * * *


「知り合いが双子の片割れを好き過ぎる件について」


「普通では?」


「はっ倒すぞ」


 流海と剥がされて早数分。伊吹は体全体でため息をつき、私は流海の頭を撫でていた。べったりと私に抱き着いている片割れは、次の甘噛み対象を右耳に変えたらしい。伊吹が即座に流海の頭を叩くから、私は顔を歪めてしまうのだ。何やってる貴様。


「流海をそんなに叩かないでくれますか」


「痛い……」


「ほら、可哀想に」


「なぁ、これ俺がおかしいのか? 止めてる俺が間違ってんのか? マジで? 俺の倫理狂ってる?」


「俺達には答えかねるかなぁ……」


「仲良しなのは良いことだと思う~!」


 ペストマスクをずらすことなく話す伊吹達。桜が薄い物を試作してくれたとか。見た目はアテナに付けていくものと大差ない。それが私や流海の為であると聞けば、やはり背中がむず痒くなって駄目だった。


 彼らの会話を聞きながら流海の頭を撫でていれば、小夜は車椅子を組み立てていた。朝凪は肩をすくめながら小夜の頭を撫でている。


「涙さん、良かったら今日も散歩に行きませんか? 雪は少し積もってますけど、雪かきとかして中庭の道は通れるので」


「涙さんも流海さんも一緒に、雪兎つーくろ!」


「あぁ……分かりました」


 私は流海から手を離したが、可愛い片割れは私を離さなかった。


 流海は耳から口を離して首筋に頭を押し付けてくる。大きな猫のような仕草に胸を締め付けられていれば、竜胆がネックウォーマーを持って近づいて来た。


「はい、流海君も防寒しようねー」


「お前ら細いんだから着込めよ。コートどこだコート」


 壁にかけてある流海のコートを持って伊吹が近づいてくる。竜胆と伊吹に引っ張られた片割れはコートだけでなく耳当てもつけられ、ネックウォーマーの上からマフラーを巻かれていた。雪だるまだな。可愛い。


「……これ、僕のネックウォーマーと違う。ていうか僕はマフラー派。これ誰の」


「俺のだよ。俺は体温低いし、基本寒くねぇから。耳当ては永愛のな。おら、帽子も被っとけ、帽子」


「手袋持ってる? あ、コートのポケットか」


「ちょっとぉ……」


 灰色の髪を揺らす伊吹が流海のマフラーを後ろで結ぶ。竜胆は喜々とした空気で流海に手袋を嵌めさせ、片割れの目は居心地が悪そうに下を向いた。


 竜胆は流海の右薬指にある歯型については問いかけない。それは私達に慣れてきたのだろうと観察し、私は私で車椅子に乗り移った。小夜が支えてくれた車椅子は寒い道でも通れるタイヤとなっており、肩には上着がかけられる。


「涙さんもあったかくしましょう。外、思っている以上に寒いですから」


「私のマフラー貸してあげる~」


「……ありがとうございます」


 上着に右腕だけ通して、左腕は点滴の管と繋がっている。その腕と膝に朝凪がひざ掛けを乗せてくれて、首は小夜と私のマフラーによってぐるぐる巻きにされた。


 大きく柔らかな膝掛を掌で撫でる。その温かさと気持ちよさに目を細めてしまえば、私の頭にも毛糸の帽子が被せられた。


「……この帽子はどこから」


「小梅さんの手編みだよ~。道具作りとかで疲れた時、息抜きでお裁縫するんだって」


 小夜が両手を挙げて教えてくれる。私は流海とお揃いの帽子の縁を撫でて、自分は桜に何か返せるだろうかと思案した。


 そうしている間に小夜はマフラーを結び、車椅子を押してくれる。朝凪は点滴スタンドを持って隣を歩くから、私は真っ白な病室から廊下へと出るのだ。


 扉を超えた先はまだ室内のため温かい。それでも病室よりは気温が低く、私は気づかれない程度に身震いした。


 朝凪の灰色のケープコートが揺れる。それは私と街で出会った時、汚れてしまったものだった筈。


 コートから伸びた朝凪の手は私の肩を上着越しに撫でてくれた。そこから滲むように広がる温度が私の呼吸を震わせて、体内にも温かさが溶けた気がした。


「コート、よく似合ってます」


 言葉を選んで伝えてみる。エレベーターのボタンを押した朝凪から驚いた空気が伝わる気がして、私は彼女のくちばしを見つめていた。


 少しだけ不安になり、視線を逸らそうかと考える。


 しかし、それより早く朝凪が私の肩を撫でてくれたから。


 私は安心してしまうのだ。


「ありがとうございます。涙さんのお陰ですよ?」


 朝凪の声が弾んでいる気がする。私はコートの裾に視線を落とし、マフラーに口元を埋めておいた。


 引きずられるように歩く流海を視界に入れる。片割れは完全に目しか出ていないようなコーディネートをされ、伊吹と竜胆からは満足感が溢れている気がした。


 六人でエレベーターに乗り込む。その間、私の感情はやはりおかしい気がした。


 モヤモヤするような、イジイジするような、ポカポカするような。


 朝凪達を横目に見上げて、直ぐに回数表示に視線を移す。自分の周りにある騒がしさや体を包む温かさが、他人事ではないのだと知りながら。


 私は背中を撫で続けるむず痒さに、いつか慣れるのだろうか。


 到着したエレベーターから一番に下りていく竜胆と伊吹。二人に手を取られている流海は否応なしに引きずり下ろされ、私達も後に続いた。


「小夜、よければ自分で車椅子を操作していきますよ。何も初めてではないので」


「良いんですよ~、私が押したいからぁ、押してるの!」


 段差に気を使いながら小夜が進んでくれる。私の口からは「……そうですか」と素っ気ない言葉しか漏れず、やはりマフラーに顔を埋めてしまった。


 中庭に続く扉が開く。


 そこからは一気に寒風が入り込み、外には白銀の世界が広がっていた。


「あ、涙ちゃんと流海君! 来たねー来たね! 来てくれたねー!」


「……雪」


 無邪気な空気で中庭にいるペストマスクが二人。跳ねまわる棗と、遮光性の上着を雪だらけにしている椿。二人の周りには大小様々な雪だるまや雪兎が作られており、棗のものだと思われる足跡も大いについていた。


 胸の中心が再びむず痒くなってしまう。視線は引きずられて歩く流海に向かった。


 私が抱く感情は流海と違っているのだろうと思って。私が感じている事柄が、流海を不安にさせているのだろうと思って。


 難しいね、流海。凄く難しい。もどかしくもあるし、不安もあるし、まずは目先の目標を達成しないといけないと切迫感も付き纏う。


 流海のメディシンを私が貰っていい筈が無いのに。


 あの子は平気なふりをしているだけかもしれないのに。


 私が気づかせてもらえていないだけかもしれないのに。


 メディシンを作ろう。流海の毒を治す薬を作ろう。その為に駆け回ろう。


 心ばかりが先へ行こうとして、しかし体は動かせない。


 そんな息苦しさを抱えた私を、小夜は銀世界へ押し出した。


「遊ぼう涙さん。今は遊ぼ」


 私の不安を拭うような声で、小さな彼女が私を前に進めていく。


 朝凪も共に連れ立ってくれて、その声はいつも通り穏やかだった。


「大丈夫ですよ。流海さんのメディシンは、私達が補助してますから、ね」


 タイヤが冷たい道を踏んでいく。


 一気に肌が寒さを覚える。


 顔を上げた私は、ペストマスクの奥で朝凪が笑っている気がした。


 想像だけは許される。妄想だけなら受け入れられる。


 私は舞い散る雪景色の中で、ゆっくりと目を細めていた。


「……ありがとう、ございます」



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