第98話 謝

 

 柘榴先生の瞼が震える。


 揺れた指先を咄嗟に握れば、ゆるく握り返してもらえる。


 そこで私は知るんだ。いつも、柘榴先生がどんな気持ちで私や流海を待っていたか。


 どんな気持ちで、怪我した私達が目覚めるのを望んでいたか。


 私なりに考えて、感じて、唇を噛む。


 傷だらけの柘榴先生は、黒い睫毛を揺らしながら目を覚ましてくれた。


「柘榴先生」


 第一声は、掠れてしまった。声の出し方に自信がなくて、呼びかけも正しいのか分からなくて、酷く心もとない感覚。


 柘榴先生の目はゆっくりと天井を確認した後、私に向かって移動した。


 黒い瞳が見開かれる。握っていない方の先生の手が動く。


 柘榴先生は、壊れそうな速度で私の頬に触れてくれた。


「るい……涙?」


 まるで、確かめるように。柘榴先生は何度も私の頬を撫でる。力の入っていない手は私に触れて、目元を指の腹で摩り、爪で前髪を撫でられた。


 柘榴先生の目尻に水滴が溜まる。それは瞬きと一緒に目元を流れ、私の足から力が抜けた。


 膝をついて、先生の胸元に額を寄せる。服越しに聞こえる鼓動は私の安堵を大きくした。


「先生、柘榴先生……せんせぇ」


「涙、だいじょうぶ、大丈夫だよ」


 先生の手が後頭部を梳くように撫でる。彼女の行動も言葉も私を宥めている筈なのに、私は勝手に叱られている気分になった。


 立場が変わって気付くだろ、って。怪我した君達が目覚めるのを、私達がどんな気持ちで待っていたか分ったかい、って。だから無茶をしてはいけないんだよ、無理も駄目なんだよって、言われている気がした。


「ごめんなさい、柘榴先生。ごめんなさい、ごめんなさぃ」


「どうして涙が謝るのか、私は、分かりかねてるよ」


 見てない柘榴先生の表情が緩んだ気がする。それは苦笑である気がして、私の背中には朝凪の手も添えられた。


 二人して私を宥めるように温度が伝染する。不甲斐ない私は柘榴先生の手を握り締めて、彼女の言葉を聞いた。「謝るのは、私の方なのに」と前置きした、先生の言葉を。


「……ごめんね、君達が嫌いな言葉を、残すような真似をして」


 揺れる声で謝罪をもらう。私はリビングで聞いた、嫌いな言葉を思い出した。


 ――大好きだよ


 視界が滲んで、柘榴先生の腕が今にも離れそうで、不安になる。


 私は彼女の袖に指先を引っかけて、熱くなる目頭を制御できなかった。


「柘榴先生も、猫先生も、大好きの意味を変えないで下さい。……悲しい言葉に、しないでください」


「……そうだね。この言葉は、希望に満ちた言葉だものね」


 柘榴先生の指が髪に差し込まれる。私は大きな呼吸を数度繰り返し、再びひりついた目元を無視していた。


「涙、朝凪……猫柳には会ったかい?」


 柘榴先生の問いに、私と朝凪の体が震える。脳裏には白目を黒に浸食される猫先生が浮かび、鼓膜は骨の砕ける音を鮮明に思い出した。


「ぇ……と、」


 朝凪が背後で言い淀む。私は一瞬だけ奥歯を噛み、顔を上げた。


 横になったままの柘榴先生の顔は、どんな答えが来るか予想しているように穏やかだ。


「会いましたよ。地下で、猫先生が柘榴先生を連れていたんです」


「そうか、うん、そうだろうね」


「覚えていますか?」


「ぼんやりとなら、ね。アイツは昔から、やることなすこと雑だから」


 柘榴先生は目の上に腕を置く。彼女は胸を大きく上下させて息を吐き、感情を殺した声で確認を始めた。やっと、冷静な頭の部分が起きたと言わんばかりの口調だ。


「ここは、私の仮眠室だね」


「はい」


「猫柳はどこに?」


「地下で、皇樒が相手をしています。両足を折ることを先生が望まれたので、皇が対処を」


「……あの子にはいつも酷なことをさせてしまうね」


 柘榴先生は腕を下ろし、上体を起こそうとする。私は思わず肩を押さえかけたが、柘榴先生は有無を言わさぬ目で首を横に振った。


「涙、流海も一緒に来たのかい?」


「……流海は、先生達がパナケイアに連れていかれる時、一緒になって連れてこられたんです。地下の隔離室に入れられていました。今は出て、プラセボを取りに行っています」


 柘榴先生の目が見開かれる。私は彼女の表情を伺いながら、共に背中を支えてくれた朝凪と目配せをした。


 紫の少女は視線だけで頷いて見せる。私も頷き返し、柘榴先生に伝えた。


「マッキ誘発実験という言葉を、抑制部署の職員から聞きました。第四十四支部の実働部隊ワイルドハント内で情報は共有し、皇から先生達がどういった状況で路地裏に向かったのかも聞きました」


「……そうか」


「いま、四十四支部には私と流海、朝凪、竜胆、伊吹、皇の六人の実働部隊ワイルドハントがいます。棗と椿がどう動いたかは知りません。補助員である桜と柊、小夜についても」


「それは、私が分かります」


 朝凪がそこで口を開き、私と柘榴先生の視線を集中させる。


 彼女は小さく顎を引き、真っすぐとした瞳で教えてくれた。


「雲雀さんに、椿さん、小梅さん、柊君の四人は小梅さんのご自宅へ向かわれました。そちらにならマッキ誘発実験に関する書類やパナケイアの本部に関する資料があるのではないかとのことで」


「桜や柊はともかく、棗と椿まで、ですか?」


 補助員の二人は今回の件を見過ごさないと思っていたが、あの静動真反対のカップルまでも一緒に動くとは思わなかった。


 棗にとっては椿と自分が一番で、椿にとっては棗が一番なのだろうから。危険に自ら足を入れる行為は避けると思っていたのに。


 頷いた朝凪は、続きを教えてくれた。


「これは雲雀さん発案です。ヘルスもパナケイアも信用できない今、自分達が自分達らしく生きるためにはどうしたらいいのか。パナケイアに頼らず生きる方法はないのか。それを見極め知るために、四人は小梅さんのご自宅へ行かれたんです」


 棗の考えを聞いて、抵抗もなく納得してしまう。


 どうすることが正しいのか知りたい、守るために、生きるためにどうするべきなのか自分で知りたい。それは結果的に、棗と椿を守る一歩になるから。


 それぞれがそれぞれの為に、動いて、知ろうとし始めている。


 この現状は、吉と出るのか凶と出るのか。


 明日だけでなく、一時間後の自分さえ予想できない私は、朝凪に対して肯定的な頷きだけを返した。


 柘榴先生が微かに私の手を引く。視線を移動させると、先生の黒い瞳と目が合った。


「先生、」


「強いね、君達は」


 柘榴先生が私の腕を引き、ベッドの脇に腰掛ける形になる。先生は朝凪を見ると、少しだけ口角を上げたようだった。


「朝凪、竜胆を呼んできてくれるかい」


「は、はい」


 朝凪は一度仮眠室を出て、すぐに竜胆と共に戻ってくる。彼の後ろからは伊吹も顔を覗かせ、流海は最後尾で俯いていた。片割れの無事な姿と揺れた鎖に、私の感情が混ざってしまう。


「霧崎さん、良かった。大丈夫……では、ないですよね」


「平気だよ、ありがとう竜胆」


 竜胆はぎこちなく頬を上げないように努めてくれる。私は柘榴先生の手元に視線を向けようとしたところで、浮かない顔の伊吹に気づいた。


「伊吹、どうかしたんですか……小夜に何か?」


「あぁ、いや……電話が繋がらなかったんだよ。時間的に寝てるのかとも思ったけど、今日は流石に眠らねぇよなとも思うし」


 伊吹は歯切れ悪くスマホに視線を落とす。話した瞬間から彼の雰囲気は「気がかりだ」という色に包まれ、私の胸にも霧がかかった。


 時計を見れば日付が変わる直前、もうすぐ深夜零時になる頃合いである。


 伊吹の指は何度も通話を試みているようだが、応答はないようだ。


「なら、手短に話すよ。小夜に何かあっても大変だから」


 柘榴先生が伊吹に伝え、兄は「……すみません」と不安の色を滲ませる。柘榴先生は首を横に振り、片手を柔く流海に向けた。


 俯いた片割れは、全員の爪先を見ながら先生に近づく。その手には黒い鞄があり、硝子容器のぶつかる音が微かにした。


 柘榴先生は流海の手を握り、静かに引き寄せる。片割れは呼ばれるままに膝を折り、柘榴先生の肩に顔を埋めた。先生の手は流海の髪に埋まり、落ち着かせるような声がする。


「おはよう、流海」


「……おはよう、柘榴先生」


 流海の手は柘榴先生の腕に触れる。片割れの指には力が入り、気づけば私も先生の手を握る力を強めていた。


「強く綺麗な君達に、これから私は、弱く汚い大人の話をするよ」


 それが、前置き。


 柘榴先生に起こったことの、あらましを語るための皮肉。


 先生は黒い瞳を前に向け、私は彼女の声に耳を傾けた。


「私は昼間、流海をパナケイアに呼んだ。伝えたかったんだ、大事な兆しを。アテナの空気を、毒を、緩和してくれるかもしれない結果を――見つけたから」


 息が、止まる。


 その場の全員が息を呑む。


 柘榴先生は、私と流海に手を添え続けた。


「まだ完全な結果ではなかったんだ。それでも、涙と流海がアテナから持ち帰ってくれた物を中心に研究していたら、数値が見えた。あと一歩が足りないけど。何が足りないのかも、まだ分からないけど……兆しを見たんだ。大事な君達が、これ以上傷つかなくていい兆しを」


 先生の腕に力が入る。


 朝凪達が思わずといった勢いで近づき、私と流海に触れた。


 竜胆は片割れの背中に手を添え、伊吹は目を見開いて流海の頭に手を置く。朝凪の手は私の肩に触れたから、私も思わず彼女の手の甲に触れてしまった。


 しかし、柘榴先生の声はまったく明るくなかったのだ。


「でも……奪われてしまった。保存していたデータもバックアップも、紙資料も全て。知られてしまったんだ、他の職員に。私の研究結果を。だから、流海を呼んでも伝えられなかった」


 ――柘榴先生の用事は終わった感じ?


 ――んー……いや、今待機中って感じ


 がたりと、音を立てて感情が傾く。


 それは柘榴先生の行動を、努力を踏み躙る行為。


 私は奥歯を噛み締めて、血相を変えた柘榴先生の顔が脳裏に浮かんだ。


「猫柳にも相談した。そうすれば彼も一緒に探してくれたんだ……でも、それがきっと駄目だった。パナケイアを刺激したんだ。涙と流海が帰ったあと、猫柳が突然連行されたと思ったら……マッキになっていた」


「……では柘榴先生は、実験のことを?」


 柘榴先生が首を横に振る。自嘲を含んだ声色は、彼女が自分自身を無力だと言っているように聞こえた。


「知らされていなかった。マッキ誘発実験なんてものも、パナケイアに地下があることもね。元々ほかの職員と疎遠ではあったが、まさかここまで目の敵にされていたなんて……愚かだよ。職員も、パナケイアも。ヘルスも、同じヘルスである私も」


「「そんなことない」」


 流海と声を揃え、柘榴先生の意見を否定する。貴方が愚かである筈がないと。


 柘榴先生は眉を八の字に下げて、今にも力なく笑ってしまいそうな顔をした。


「……ごめんよ流海、涙。今の状況は、元を辿れば私のせいだ。私がもっときちんと、隠せていればよかったのに」


 柘榴先生の体から力が抜けそうになり、竜胆と伊吹が支える。先生の顔色は微かに白くなり、重傷の状態で長く話し過ぎたのだと血の気が引いた。


「先生、ここでは駄目です。ヘルスの病院に行きましょう」


「輸血もいるよね、点滴だって。そうしないと、先生、」


「あぁ、あぁ、分かってる、分かってるよ。だがまだ、話さないといけないから」


「「先生」」


 柘榴先生は首を横に振るばかり。彼女は流海が持つプラセボの入った袋を見て、何も言いはしなかった。


 私も流海も聞けずに黙る。


 猫先生はまだ間に合いますかと。プラセボがあればマッキから戻れますかと。今、それに対する回答を柘榴先生に求めても仕方がないのだと、私達は分かっている。


 だから私も流海も猫先生の事柄について、柘榴先生に問いかけない。柘榴先生も答えることなく、別の話を続けていた。


「いいかい、みんな。君達はもう普通には戻れない。パナケイアに目をつけられた以上、日常は戻ってこないよ」


「分かってます」


「承知の上で、ここに来ました」


 竜胆と朝凪が、私達よりも先に返事をする。二人の目に迷いはなく、伊吹は拳を握っていた。


俺達ヤマイに元より、普通なんてありませんよ」


 柘榴先生の唇が少し開いたが、そこから直ぐに言葉が出てくることは無かった。先生は、ある種の諦めを覚えた表情になってしまう。


「可哀想、だなんて言わないよ。君達はそれでいい。それでこそ、君達だ」


 柘榴先生の手に力が入る。流海の肩が震えて、私は先生の手を強く、固く、握り返した。


「君達は自由だよ。親の決めた指標も無視していい、自分が助けたい人だけを助けていなさい。自分に優しい人だけを選んでいい、自分を分かってくれる人の傍を選んだらいい」


 朝凪の毛先が揺れる。

 竜胆が口を噤む。

 伊吹はスマホを胸の前で握り締めた。


 私は朝凪の腕から手を離し、片割れが同時に伸ばした手に指を絡める。


 柘榴先生は、ヘルスとしても、大人としても責められる言葉を私達に贈った。


「嫌っていい。妬んでいい。壊していい。今までヘルスは、ヘルスだけの正義を掲げてきたんだから。それに押し潰されそうだった君達は立ち上がっていい、歯向かっていいんだ」


 眉を下げた柘榴先生が目に焼き付く。「駄目な大人だね」と呟いた先生は、それでも誇らしそうなんだから。


「反撃の時間、っすか」


 仮眠室の扉が勢いよく開く。


 私と流海は瞬時に柘榴先生を背後に隠し、拳を握った。


 そこに立つのは、狼牙棒に血をつけた皇樒。男の方になっている相手は、実働部隊ワイルドハントの白装束を身に纏っていた。その姿を初めて見た私は一瞬だけ目を丸くしてしまい、皇が引きずっていた者に反応が遅れた。


「「ぁ……」」


 皇が手を離す。


 床に倒れ込んだのは、足が折れ曲がった――猫先生。


 私と流海の呼吸は一気に浅くなり、猫先生の刃で埋まった手は弱く床を引っ掻いていた。


「ねこ、」


「せんせ、」


「死んでねぇよ。この人の生命力ゴキブリ以上だぞ」


「猫柳の長所は、その頑丈さだからね」


 柘榴先生が立ち上がる気配がする。


 足元の覚束ない先生は、倒れた猫先生の前に膝をついた。


 皇は前髪を片手で掻き上げ、狼牙棒を肩に担ぐ。赤い瞳は細められ、柘榴先生の両手は猫先生の頬に触れていた。


 猫先生の顔が上がる。刃に顔の右半分を覆われた彼は、灰色になった目で柘榴先生を見上げていた。


「……生きてるね」


「……もぅ、ぁるけない、けどな」


「いいさ。お前は今まで十二分に走って来たんだから」


「いゃ、まだ、おれは、あ゛ぁ、すまない、すまない、きりさき、おれは、ぁ、ぁ゛」


「いいから、お前は何も悪くないから。少し休みなさい……れん


 柘榴先生が猫先生の額に顔を寄せる。先生達は額を重ねて、静かに瞼を下ろしていた。


 猫先生の左目から泪が落ちる。柘榴先生の掌から血が流れる。


 透明な雫と赤黒い雫は、猫先生の顎を伝って、交わった。


「……ざくろ、」


 猫先生の体から力が抜ける。彼は柘榴先生に凭れないよう床に伏せ、か細い呼吸だけを続けていた。柘榴先生は両手を合わせ、抱き締めることも抱えることも出来ない猫先生を見つめている。


「「……先生」」


 流海と声が揃う。柘榴先生は肩を見るからに落とすと、私達に顔を向けずに首を傾けた。


「奥の棚にライオスがあるから、持っていきなさい。それは必要な物だから。毒から君達を守ってくれるから。私はこれから、病院に行ってくる。大丈夫だよ、ちゃんと治して帰るから……ね」


 柘榴先生の顔が見えない。意図が見えない。


 私と流海は自然と手を繋ぎ、先生達に近づこうと足が動きかけた。


 それより早く、柘榴先生の腕を掴んだ男がいる。


 私達は思わず動きを止め、柘榴先生を立たせようとする皇に視線を向けた。


 無表情の男は柘榴先生を凝視している。赤い両目で、柘榴先生だけを見つめている。


「付き添いまーす」


「皇、ありがとう。けど大丈夫だ。私は平気だから、君にはいつも無理をさせて、」


「きぃりさぁきさーん」


 皇の声は気怠げなのに、手には力が入る。しかし男の手は直ぐに緩み、催促するように柘榴先生の腕を引いた。


「早く、行きましょーって。その人が心配なら俺が運ぶんで。霧崎さんは霧崎さんのことだけ考えてくださいよ。さっさと怪我、治しましょうって」


「皇、」


「そんで、傷治ったら、そこの双子の手当てするんでしょ」


 皇の肩が下がる。男の髪が少し落ちて、横顔が隠れていった。


 だから私は知らないよ。お前が、一体どんな顔をしていたかなんて。


 皇樒は、萎みそうな声を吐いていた。


「ついででいいんでぇ……俺の傷も、手当てしてほしーでー、す」


 一拍置いて、皇は続ける。「なんてね、」と。


 柘榴先生はそこで初めて顔を上げて、ゆっくりと、仕方がなさそうに笑った。


 それは、皇にだけ向けられた笑顔だ。


「大学生になっても、君は変わらず手のかかる子だね」


「そっすね」


「それが君の可愛い所だと思うよ」


「……げぇ」


 皇は前髪に指を突っ込んで少しだけ乱し撫でる。かと思えば落ちた髪を拾って後ろへ撫でつけ、いつものようにオールバックにした。


 男は柘榴先生に腕を回して抱え上げる。片手で先生を支えた男は小さくした狼牙棒を白装束のベルトに差し、猫先生の腕も引っ掴んだ。


「すめら、」


「じゃ、この人達は俺が連れてくからー。お前らはテキトーに盗んだり壊したりして、落ち着いたら連絡寄越せよ。生きてたらまた会おーぜー」


 驚いている柘榴先生と目が合う。


 私は唇を噛んで、流海と繋いだ手に力を入れた。


 怪我をしている私と流海では先生達を運べない。朝凪と竜胆も運べないし疲労だって溜まっている。伊吹は小夜を優先させてやるべきだ。


 樒と変わる事によって、疲労をゼロにした皇だからこそ出来る行動。


 ここは、これが……最善だ。


「柘榴先生を、」


「猫先生を、」


「「お願い」」


 流海と共に切願する。片割れはプラセボを入れた鞄を肩に背負い、鎖が揺れた。


 皇は振り返ることもせず、当たり前のように返事をする。


「先輩に任せとけ~」


 気の抜けるような、いつも通り過ぎる声色。


 柘榴先生は皇の肩に手を置き、私達に視線を向けた。


「待ってますよ、先生」


「早く治して、早く帰って」


「「たくさん、話をしよう」」


 俯いた流海に変わって、私は柘榴先生を凝視する。先生はくしゃりと顔を歪めて、泣き出しそうな表情を浮かべていた。


「涙、流海、待ってて、すぐ治すから、すぐ、帰るから……ごめんね」


 ……馬鹿だなぁ、先生。


 謝る事なんて何もないよ。先生は何も悪くないよ。


 言葉は喉の奥で詰まる。小さな小さな我儘が、私の喉につっかえる。


 迷った私達に気づいたように背中から体重がかかり、見ればライオスを手にした伊吹達が背中に手を添えてくれていた。


「言えよ、双子。言いたいこと言わねぇと、お前らは変わらねぇままだぞ」


 伊吹の手袋をつけた指先が目の縁を撫でてくる。


 私は流海と繋いだ手を揺らし、微笑んで片割れと目を合わせた。無表情の片割れの、黒い目の奥を覗き見る。


 同じことが言いたいと分かった。同じ言葉を浮かべたのだと伝わった。


 だから私は柘榴先生を見て、目を伏せた流海と一緒に願うのだ。


「許しませんよ、先生」


「そんな言葉、許せないから」


「きちんと治して、」


「帰ったら、ちゃんと、」


「「大好きって、言い直して」」


 柘榴先生の口角が震える。


 私は目を伏せて、流海が代わりに瞼を上げた。


 笑ってくれたであろう柘榴先生を想像して、皇が溜息をついたのも聞いて。


「……約束だ」


 柘榴先生が震える声で答えてくれる。


 それだけで、もう大丈夫だって思えたのに。


 次に進むべき方向を決めようとしたのに。


 ――窓硝子の割れる音がする。


 皇はすぐさま腰を低くして音の出所に目を向けたから、弾かれるように私と流海は駆け出した。


 廊下に飛び出して、皇と先生達を背にして。


 割れた窓硝子から雨が降り込む。


 黒い死神と一緒に、冷たさを運んでくる。


「あぁ……見つけた」


 リングダガーを回したペストマスクが、白い中に立っている。


 雨に濡れて、まるで滲んだ染みのように。


 最悪の戦闘員――嘉音は、そこにいた。


「最低な涙を、見ぃつけた」

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