第25話 化

 

「今のところ流海に効きそうな反応はどの材料からも見られないね」


「そうですか……」


 朝、パナケイアの病室で制服を着込む。カーテン越しに柘榴先生がしてくれる報告は私の心に影を落とし、唇を結んでスカートのホックを留めた。


「今まで何かしら有力な材料はなかったんですか? αアルファβベータγガンマ以外に」


「有力な材料と言うなら、全て有力だったよ。ただ個々が特出し過ぎていて掛け合わせが上手くいかないんだ」


「材料にも個性があるんですか?」


「平たく言えばそうなるね。アテナの材料は全てにおいて治癒や抑制の反応を強く示す傾向がある。けど、ヤマイや毒素に限定して作用するよう組み合わせていくと反応がかんばしくないんだ」


 柘榴先生がタブレットを操作しているシルエットを見る。私はワイシャツの上から体操服の上着を羽織り、肌寒さが増す空を見上げた。


 ベッドに腰かけて黒いタイツを持つ。足には痣や傷跡が多くあり、昨日怪我をした場所にはガーゼや包帯をまだしている。それらを隠すために、爪先からゆっくりとタイツを履いていった。傷跡全てを隠すように、異質を少しでも見せないように。


 横目に見た柘榴先生の影は髪を掻き毟るような動きをしていた。


「ならまだ、流海を蝕む毒素を抑制し続けることしか出来ないんですね……メディシンではなくプラセボを点滴するのは駄目なんですか?」


「あぁ、プラセボは余りにもヤマイの抑制効果が強すぎる。ヤマイと言う事象に反応して落ち着かせてはくれるが、傷つけなくていい他の細胞や意識まで攻撃して沈めようとしてしまう。だから基本的に投与できるのはプラセボを薄めたメディシンなんだよ」


「そうなんですね」


 難儀な話だ。結局のところ、私達はアテナにある材料から解決策を模索するしか出来ないのだから。自分達のことを死ねばいいとしている世界に縋って、生きたいと藻掻くのだ。


 何とも浅はかで嫌になる。自分達を嫌いな相手に頼らなければいけないだなんて。


「プラセボをそのまま使うのは――マッキが現れてしまった時だけだよ」


 柘榴先生がタブレットを叩く音がする。私はタイツを履き終わり、黒く塗りつぶされたような足を見下ろした。


 メディシンはヤマイの進行を抑えてくれる。発症を抑制してくれる。だから誰もが縋ってしまう薬。


 メディシンが出来上がるまではマッキに進行するヤマイが多かったと聞く。今は早々聞くことが無いが、ペストマスクよりも確実な都市伝説として語られていた。


 ヤマイが化け物に成り果てた姿。その姿から元に戻るチャンスは、三回だけ。


 私は鞄を持ち、柘榴先生と自分を隔てていたカーテンを開けた。


 先生の目の下には今日も不健康そうな隈が浮かんでいる。


「マッキを抑制するのも実働部隊ワイルドハントの仕事でしたね」


「……そうだよ。猫柳が所属している抑制部隊と一緒にね」


 柘榴先生の暗く深い瞳を見つめる。彼女の口は何かを言いかけたが、言葉を零すことなく結ばれた。私は額に貼られているガーゼの縁を触っておく。体中にある怪我と治療道具があってこその私だ。どうかそんな、心配する目をしないで欲しい。


「仕事をして結果を残せば、その分メディシンの投与権利を貰えますよね」


「……涙」


「私は流海以外なんてどうでもいい。成果を出せるならば何にだって足を突っ込みます。それは誰にも止めさせない」


 指先に触れた温かさを見る。柘榴先生の細い指が絆創膏だらけの私の指に触れていた。


 インクが滲むように感情が湧いてくる。波紋を立てて私の全身を巡って、息苦しくて堪らなくなる。


 私は柘榴先生の指先を握り返さずに歩き出した。


「いってきます、柘榴先生」


「……いってらっしゃい、涙」


 柘榴先生の声に振り返ることなく、病室を後にする。指先に残った熱を払うように前を見据えて、滲んで取れない感情に奥歯を噛んで。


 スマホを開いて流海に電話をかける。片割れは朝の検査に備えて面会謝絶状態であるが、電話くらいは取る自由があった。


「はぁい、涙」


 三コールで流海が電話に出てくれる。私は早まっていた心臓を落ち着かせるように、服の上から体の中心を掻き毟った。


「流海……」


「……不安そうだね」


「不安だよ……いつも不安で、イライラして、嫌になる」


 染み込んで来た滲みが私のことを弱くする。怖がりにする。泣き虫にする。だから嫌い。嫌いで嫌いで苦しくなる。


 だから私は流海の声に溺れて、流海だけを見て、流海のことだけ考えていたいのに。


 柘榴先生の温度が、猫先生の言葉が、私に流海以外を見せようとしてくるんだ。伊吹の戯言が私の耳にこびりつくんだ。


「流海のことだけ考えてたい。流海だけいれば良いって思い続けたい。だって、だって私は、」


「落ち着いて」


 流海の声が私の脳に浸透する。滲んでいた感情を上塗りして、一つ一つの音が私を安定させてくれる。


「――大好きだよ、涙」


 大きな一歩を出し続けていた足が止まった。肩から一気に力が抜ける。


 私は真っ白な廊下の真ん中で立ち尽くし、流海の声にだけ集中した。


「僕だけを見てて。僕のことだけ考えてて。他の人はきっといつか僕らを置いていく。僕らのことが嫌になる」


 染みてくる。流海の言葉が染みてくる。


 白い病室で泣いていた記憶が浮かんで、笑わない人達に囲まれ続けて、固まってしまった内情を思い出す。


「だってそうだよね。表情を制限されるなんてみんな嫌だもん。朝凪さんや竜胆君だってきっと嫌だっていつか離れていくよ。桜さんや柊君だってそう。伊吹君も直ぐに愛想をつかすだろうし、パナケイアの人達にしてみれば僕らは人ですらない」


 体がゆっくりと壁にもたれかかる。私の心音は正常な拍動をし始めて、周りから雑音が消えていった。残るのは心が凪いでいく感覚だけだ。


「猫先生と柘榴先生だってそうだ。二人とも結局は先生でしかない。家族じゃないんだ。保護者であると同時に研究員で、他人であることに変わりはない」


「……流海」


「大切なものなんて一つでいいんだよ。僕は涙が何よりも大切。涙は僕が何よりも大切。それで良いと思うんだ。他に期待したって、無くした時の痛みが増えるだけなんだから」


 私の視線が窓の外に向かう。朝のまだ早い時間。飛び立つ鳥達は一体どこへ向かうのだろう。


 俯いた私は、スマホを耳に押し付けた。


「二人ぼっちでいよう。それが僕と涙の正しい在り方だと思うから」


 二人ぼっち。


 流海の言葉は私の中に抵抗なく落ちて、沈んで、溶けていった。


「……ありがとう、落ち着いた。私も流海が――大好きだよ」


「良かった、嬉しいな。気を付けて学校に行ってね」


「あぁ」


 やる気の無い動作で通話画面を閉じる。今日の流海はどうやって一日を過ごすのだろう。体内の毒素の検査をされて、体力増強の為に訓練室も使うんだろうな。ランニングはいつ付き合おうか。夜が良いかな。外出許可や退院許可はいつでるだろう。メディシンの投与感覚はどれくらいが良いんだっけ。


 不安定だった感覚を固定された気分になる。視界は電話をする前とは比べ物にならないほど鮮明になり、私はいつも通りの速度でパナケイアを出て行った。


 少しだけ肌寒さを感じていれば、パナケイアの門の所に灰色の髪を見る。


「……おはようございます」


「おはよう」


 門に背中を預けていた伊吹が私を見る。立ち止まることなく挨拶をして去ろうとしれば、相手は並んで歩き始めるではないか。朝から気分が悪くなる。流海と穏やかな会話をした余韻に浸る暇もないではないか。


「何の用ですか」


「昨日言っただろ、お前とはゆっくりアレスで話すって」


「私には話す事なんてありません」


「俺はあるんだ。元々、お前が転移室で暴れなかったら今こうして待ってねぇよ」


 横目に伊吹を確認する。灰色の彼は若干不機嫌そうに眉間に皺を寄せており、私は目元が痙攣した。不満ならば近づかなければいいものを。どうしてどうでも良い相手に近づこうと言うのか。


「私、まだ納得していませんから」


「そうかよ、俺もだ」


 なんだよそれ。意見が合わないならば必要最低限の関りで良いではないか。お前が私の意見に納得しないように、私はお前の意見に納得などしていないのだから。


 気分が下降を始めて嫌になる。だから流海以外と話すのは嫌いなのだ。とても疲れて面倒くさい。イライラするし胸糞悪い。


 思っていれば伊吹と私の間をマウンテンバイクに乗った男が通り過ぎていったから、私のこめかみで血管が切れかけた。


 自転車は専用道路を走れよクソが。ここは歩道で、車道との間に自転車専用枠があるだろうが。そのタイヤに横から石でも投げつけて変形させようか。楕円形になったタイヤでは走れないだろうよ。


 脳内でマウンテンバイクの男が盛大に転倒する。しかしながら現実ではそんな事は起こらない為、私の苛立ちは萎まないのだ。


「あっぶね……平気か?」


「平気ですよ」


「……そうは見えねぇ雰囲気だけど」


「まぁ、体は元気でも内心穏やかではないですよね、あぁ言うの。タイヤが変形してこけたら良いと思ってます」


 近くに落ちていた空の酒瓶を見てしまう。あれを後頭部にぶつけるとこちらの加害になるだろうけど、タイヤにぶつけた場合は不慮の事故くらいにならないだろうか。ならないか。世知辛い。


 隣を歩く伊吹は急に黙り、私は秋空を見上げた。なんでこうも相手のことを考えない人が多いのだろうか。いや、私も優先して考えるのは流海のことだから人のことは言えないか。


 みんな自分勝手に歩くだけ。その道中に誰かが慈しんだ花があっても、自分にとって無価値であれば踏んでいくのだ。そういうもの。


「……ふはっ」


 不意に聞こえた噴き出す声。笑うのを我慢していた音は私の耳につき、視線を向けないようにだけ努力した。笑ったであろう人物は隣に立っており、私の許可なく連れ立っている相手なのだから。


 見ないように努めておく。私に笑いかけた訳ではない。一人で勝手に笑ってるだけ。目を合わせてはいけない。気にかけてはいけない。その笑顔は私に向けられたものではない。


「お前、頭の中で何考えてんだよ」


「実行できない悪行ですよ」


 震える伊吹の声に返事をする。コイツに私のヤマイ教えたっけ。……ちゃんと教えた記憶がないな。


 ヤマイを見せたら私から離れてくれるだろうか。伊吹が私に構うのは朝凪や竜胆とは違う気がするのだが。


 伊吹朔夜と言う男は底が見えない。私に構う理由が読み取れない。コイツは一体なにを見ているのやら。


 横断歩道を歩いて駅に向かう。私の隣では伊吹が小刻みに震えており、どうにも煩わしかった。


「お前は面白いな」


「初めて言われましたよ、そんなこと」


 ため息を吐いて歩道橋を下りる。その時、ポケットにあるスマホが揺れた。


 見れば画面に地図が出ており、伊吹はイヤホンをつけている。私もイヤホンを付けてパナケイア職員の声を聞いた。


「東区五ブロック目にてアテナの戦闘員を確認。実働部隊ワイルドハントは至急行動を。相手戦闘員は二名、ヤマイは廃工場内に避難中。ヘルスを巻き込むことは決して無いように」


「東区か」


 呟いて腕時計を見る。ここから東区に行くまでは少し時間がかかるが、行けば流海の為になる。


 私は即座に柊に電話をかけた。彼は直ぐに応えてくれる。


「空穂、」


「学校に遅刻するかもしれません」


「お前……アレスに来た戦闘員は皇さん達に任せてないと体が!!」


「担任とかへの報告、よろしくお願いします」


 一方的に用件を言って切ってやる。そのまま進路を変えれば、少し前を伊吹も走っていた。


「やっぱり弟の為か」


「そうですよ。次に邪魔したら貴方から先に潰しますから」


 笑いが収まったらしい伊吹に忠告しておく。横目に彼と視線を合わせれば、私が欲しくない返答を貰った。


「東区には朝凪と永愛の学校があるぞ」


「……だったら何ですか」


 苦虫を潰した気分になり、視線を前に向ける。


 その時、私と伊吹の前に――深い紫色の液体が降ってきた。


 反射的に後ろへ跳躍する。伊吹も同時に後ろへ下がり、私達はビルの上を見た。


「あ……」


「……最低な朝だな」


 背中が冷えて眩暈がする。


 ビルの壁に張り付くように存在する


 肌から溢れ出る紫色の液体。それはビルの外壁や地面を溶かし、崩し、周囲からは悲鳴が上がった。


 ヘルス達が慌ただしく逃げていく。壁に張り付いたが雄叫びを上げる。


 耳につけたイヤホンから、聞きたくない情報が流れてきた。


「第四十三支部より伝令。四十三支部管轄にマッキが発生。逃走を経て四十四支部管轄に移動。実働部隊ワイルドハントは対応を。ヘルスへの被害を出さないように」


 頭にゆっくり血が上る。


 私のスマホに映っていた地図は移り変わり、イヤホン越しに響いたのは皇の声だった。


「東区の戦闘員は俺と、代打で永愛も相手する。マッキの対応いけるやつ! 返事!」


「目の前にいるんで俺が」


「私もいけます」


「あぁ、ワーカーホリック組な」


 皇に対して嫌々ながら返事をする。そうすれば呆れたような声で嫌な組を作られ、私の苛立ちは募るばかりだった。


「柊、桜、小夜さよ、聞いてるか。補助組はプラセボ持ってマッキの現場まで走れよ。学校はサボりの時間だ」


「はい」


「かしこまりましたわ」


「はぁい」


 桜達の返事の中に聞いたことのない名前と声が混じる。それは誰よりも幼い女の子の声で、私は伊吹を見上げてしまった。


 伊吹は何も言わずに鞄を捨て置く。その中からトンファーを出すあたり、用意周到と言うべきか正しく職業病と言うべきか。私もきっと同じなのだけど。


 私は鞄の中に入れていたナイフを出し、人のことは言えないと息を吐いた。


 周囲にがなり声が響く。痛々しい悲鳴が響く。


 それはマッキの叫び声で、ヘルス達のものでは無い。


 私は目を細めてしまい、静かにナイフを握り締めた。


 化け物に落ちたヤマイ――マッキを憐れみながら。

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