第26話 不

 

 化け物に成り果てた時、その人は何を思うのだろうか。


 化け物から人へ戻りたいと願うのか。化け物になった自分を殺してくれと思うのか。それとも――そんな思考すら散ってしまうのか。


 私と伊吹は、マッキとなったヤマイが貼り付くビルにいた。


 ビルには事務所が数件入っていたようで従業員や顧客が一斉に避難をしている。内階段を使って逃げるヘルスを横目に、私と伊吹は外にある非常階段を駆け上がっていた。普通逆なのではないかと思うのだが、緊急事態が起こった時に対応できる奴なんて一握りか。


「伊吹、空穂、マッキの情報を伝える」


 イヤホンから響く柊の声。少し声が揺れているのを見るに走りながら喋っているのだろう。私はナイフを握り締め、伊吹が「どうぞ」と返事をした。


「マッキは四十三支部の管轄に住居がある二十五歳の男性だ。症状は「触れた冷水を劇物に変える」ヤマイ。印数五。劇物はフッ化水素の毒性とサキシトキシンの要素を合わせた混合液とでも思え。物を溶かすし人体にも影響がある。マッキになったのはこれが初回だ」


「そうか」


「かしこまりました」


 劇物の内容とか言われてもよく分からないのだが。取り敢えず触ると危ない液体が出るのだろ。理解。


 私は柊が通信を切った所で、先を行く伊吹に確認した。


「伊吹、私達はプラセボが届くまではマッキの足止めをしていれば良いんですか?」


「そうなるな。葉介達がプラセボを持ってきたら、それを俺達の武器につける。後は傷でも作ってプラセボをマッキの体内にぶち込めれば完了だ」


「へぇ」


 自分のナイフを見て目を細める。


 伊吹のトンファーでは傷を作るのが難しそうだと思ったが、彼は何やら武器の持ち手を押していた。そうすればトンファーの刺突面に蜂の針のようなものが生えてきやがった。


 ――あ、もしもアテナに行って使いづらさなどがございましたら変更や改良をご相談くださいませ! 誠心誠意ご対応致しますわ!


 私の頭には陽気な桜の声が響き、自然と納得させられた。あの子ならやりそう。


「トンファーは役に立たないとでも思ったか?」


「傷をつけるのが難しそうだとは思いましたが、杞憂でした」


「だろ」


 伊吹は慣れた様子でトンファーを回す。……コイツの方が戦闘経験とか多いんだよな。だから怪我をしていると勝てない。ムカつく。


 私は不満を持ちながら屋上に辿り着き、外壁を登ってきたマッキを見た。


 体に纏わりつく液体が服や靴を溶かし、腕を動かす度に宙から紫色の液体が落ちていく。それは雨粒のように彼の周囲を濡らすから、私は呼吸を整えた。


 ――別にプラセボやメディシンがなくても生きようと思えば生きていける。どれだけ世界が理不尽で、社会にさげすまれて、ヘルスに理解されなくたって。ヤマイ同士で手を取り合えば、きっと。


 そう思ったことが無いわけではない。


 けれども、そんな優しさで世界は出来ていない。


 私達のヤマイは進行するから。停滞を許してくれないから。


 抑制してくれるメディシンがなければ症状は悪化し、事象に食われてしまう。


 人間性は失われ、本能とヤマイに犯され、自分が自分を保っていた為の感情や意思を無くしてしまう。


 その行きつく先が、マッキ。


 私達ヤマイが最も恐れる成れの果て。


 目の前で腕を振り回している彼は、自分に纒わり付く液体を剥がすように暴れている。顔の皮膚はただれ、髪も溶けている部分があり、その姿は映画に出てくるゾンビのようだ。


 彼の周りのコンクリートが溶けていく。白目は反転したように黒くなり、目の焦点は合っていなかった。


「白目の完全反転を確認……もう俺達の声は届かねぇだろうよ」


 伊吹がイヤホンを通して報告する。裸足で屋上を何度も蹴ってベンチや物干し竿を倒すマッキは、正しく獣であった。


 そこにあるもの全てを破壊し、こちらの声など届かない。


「目が完全に反転していなければ、声は届いたんですか?」


 秋空の下、体を傷つけながら吠える青年を見つめる。顔の原型は分からず、私達を認識しているかどうかも分からない。


 伊吹はトンファーを握り締め、教えてくれた。


「マッキには基本俺達の声なんて届かない。それでも白目が少しでも残ってれば、ギリギリ理性が切れてないかもしれねぇから。「もしかしたら」があるかもしれないってだけだ」


 歩き始めた伊吹に続く。私は「そうですか」と零し、ナイフを右手で回した。


 マッキが雄叫びを上げる。潰れた喉でがなりを上げる。


「なンでッ、ナんでッ、おレだけゴンなにぐるジィんだッ! みズにさわっデみだいダケなのに! オデにザわればミんなどグにおガざれる!? チガう、ちがうチがうジガう!! おがザれてるのはおれダ! なんでわガっデぐれない! トけだくないグサらぜたくない、くざりダぐないッ!!」


 喉を掻き毟りながらマッキの彼は暴れ回る。足は平衡感覚を失ったように覚束なく、彼が動けば空中から濃い紫色の毒液が流れ落ちた。彼は頭を抱え、言葉ではなくなりつつある音を吐き散らす。


 空気の匂いに鼻が曲がりそうになった。寒さを混ぜていた空気が毒を纏って腐臭を生む。


 冷水を劇物に変えるヤマイが進行した結果、触らずとも水を毒に変えて腐らせてるのか。しかも空気にこれだけ匂いが混ざったり体に劇物が纏わりつくってことは、空気中の水蒸気まで変えている危険性がある。


 私は、顔も知らないマッキを見つめた。


 獣のように周囲に害を振り舞く最厄の姿。ヤマイが最期に行きつく化け物の姿。


「おレだけグザるナんで、まっビらだッ」


 マッキの彼の声がする。潰れた痛々しい声がする。


 伊吹が左へ進路を変えた。だから私は右へ進みマッキを挟む位置を取る。


「みンなグざって、しんジまえッ!」


 掠れた声は虚しく響く。酷い恨み辛みを吐いているのに、まるで泣いているようなのだから。


「空穂、言葉は届かなくても音は届く。プラセボが来るまで注意を引くぞ」


「はい」


 トンファーで柵を叩く伊吹。マッキはその方向へと顔を向けて、宙から零れる液体がコンクリートを溶かしていった。


 伊吹は顔をしかめながら後退する。マッキの足は重々しく伊吹の方へと向かい、灰色の彼は直ぐに後退できる範囲を失った。大粒で落ちる劇物は散ることで周囲を溶かす。伊吹のズボンや上着の裾は溶けて数か所穴が起き、マッキは叫びを上げていた。


 咆哮と共に劇物が散る。伊吹はそれを避けずに見つめ、灰色の髪や頬が軽い火傷を負っていた。


「ナんデ、ナんでオばエダチは、ゾんなにフづうデいダでるンだッ!!」


 しわがれた声で鬱憤が叫ばれ続ける。それと同じように宙から滴る液体は増えていくから、私は柵を勢いよく叩いた。


 マッキの意識が一瞬逸れる。その間に伊吹はマッキから距離を取り、獣と成り果てた奴は私の方へと向かって来た。


「おれダって、オでだっデ、ふヅうになりだいダゲなのに」


 ナイフの刃を柵に当てたまま後退していく。そうすれば断続的に甲高い音が響き、鼻を刺激する腐臭は強くなった。


 劇物が私の肩や脹脛ふくらはぎを掠める。服に穴が開いたが致し方ない。


「オれバなにモわるぐナいのにッ」


 叫びが耳に流れ込む。


「なンでおデいがイは、ジあわぜゾうナンだよッ!」


 泣き声のような叫びが木霊こだまする。


 私の背中には柵が当たり、マッキの頬を流れる劇物を見つめた。まるでそれは――なみだのようだ。


 皮膚がただれて痛々しい。髪も溶け始めて痛々しい。潰れた喉で叫ぶ姿が――痛々しい。


 私はナイフを握り、届かない返答を口にした。


「狡くて憎いですよね……こんな世界」


 答えた時、マッキの右太腿から血が舞った。どこかで響いた乾いた音は――銃声ではないだろうか。


「空穂――左足が見えない」


 イヤホンから響いたのは柊の声。マッキは毒と悲鳴を叫びながらうずくまり、私は素早く足を動かした。


 マッキの目の前から私と言う障害が消える。そうすればマッキの左太腿から血が舞って、コンクリートには小さなヒビが入るのだ。


「お兄ちゃーん、空穂さーん、プラセボ持って来たぁ」


 非常階段の方から幼い声がする。見れば淡い灰色が揺れて、低い位置でおさげに結われた髪を見た。


 あ、あの子知ってる。


 流海と最後に行った定期健診の日。人波を縫いながら進んでいた――両目を包帯で隠した女の子。


 私は彼女が抱えた瓶を見て、駆けた伊吹にも気づいていた。


 ワンテンポ遅れながら駆け出して、女の子は蓋を開けてくれる。皇の指示から考えるに、恐らくあの子は「小夜さよ」と呼ばれた子なのだろう。


「ありがとな、小夜」


 伊吹が女の子の頭を撫でてから瓶に手を入れる。包帯で目を隠している女の子――小夜は得意げに口角を上げていたから、私は視線を瓶に向けた。よかった、あの子が笑顔を向けていたのが伊吹だけで。


 少し硬く、透明度のある半固体。伊吹はそれをトンファーに塗っていたから、私はナイフを直浸けした。


 ナイフを上げれば刃が固体によってコーティングされる。半透明の薬――プラセボを無駄浸けはしないでおこう。


 少し多めについたプラセボを拭い落として瓶に戻す。小夜は満足げに蓋を閉めていた。


「ありがとう」


「いいえ、間に合って良かったです!」


 背の低い小夜を見ないようにしておく。きっと今は伊吹に向けていた笑顔を私に向けているだろうから。認識しないように、見ないように。


 あぁ、本当に難儀な世界だ。


 私はきびすを返し、トンファーを回した伊吹に続いた。


 蹲っているマッキは自分の両足を殴りつけている。その勢いはすさまじく、一点に留まり続けると屋上のコンクリートが溶けそうだった。それは伊吹も思ったのだろう。彼はトンファーを打ち合わせて音を立て、マッキは這いずるようにこちらへ向かってきた。


 流れた血が劇物によって溶かされていく、


 伊吹は勢いよく踏み込んでマッキにトンファーを叩き込む。軌道的にはマッキの肩を叩けるかと思ったが、武器は肌に当たらなかったらしい。肩に纏わりついた劇物がトンファーを溶かしたからだ。


「うお、」


「おマえもィっジょに、ドげぢまえ!」


 マッキが振り回した腕を伊吹はかわす。飛んだ劇物は伊吹の左腕を掠め、彼の制服を溶かして薄皮を火傷させた。


 私は空いているマッキの背中にナイフを刺そうと試みたが、宙と肌を覆う劇物によって阻まれた。靴が溶けそう。スカートの端はちょっと溶けたか。


 後退してマッキを観察する。理性は無くて動きはほぼ反射。獣に近くて読みづらい。肌の劇物がプラセボを阻害しているが、動けば剥がれるし無限ではない。


 私はナイフを握り直し、伊吹の横からマッキに近づいた。


 肺に腐臭が入らないように息を止める。伊吹は意図を組んだようにマッキの肩を殴り続け、張り付いていた劇物を剥がしていった。


 振り上げられたマッキの腕が撃ち抜かれる。その勢いで腕が後ろに弾かれた瞬間は、貴重な隙だった。


 私は微かに見えた爛れ皮膚にナイフを突き立てる。そうすれば刃に付いていたプラセボが傷口から入り込み、マッキの悲鳴が響き渡った。


 腕を掴まれた私は後ろに移動する。足と脇腹を少しだけ劇物が掠め、眉間に皺を寄せてしまった。


 悶えるマッキの肌や周囲から劇物が落ちていく。それらが新しく作られる事は無く、全身が爛れている男性の姿が見えてきた。


「はいはい、通りますですわー!」


 そこに飛んできたのは担架を抱えたパナケイアの職員と、シーツを持っている桜。彼女は勢いよくシーツをマッキだった男性に被せて、猫先生の声が響いた。


「マッキ症状の鎮静化を確認。一班は本部の医務室へ搬送。二班、三班は現場の修繕。四班は報道局や目撃者に緘口令かんこうれいを敷け。急げ!」


 先生の言葉に職員の人達が鋭く返事をする。家にいる猫先生からは想像できない姿だよな。彼はマッキだった男性の容態を確認し、私を一瞥した。


 猫先生は一瞬動きを止めて眉間に皺を寄せている。ため息をつきながら眉間を揉む動作をした彼は、羽織っていた黒い上着を私に着せてくれた。


「猫先生、お疲れ様です」


「お疲れ様、涙……悪いな、任せてしまって」


「それが実働部隊ワイルドハントの仕事ですし」


 猫先生がくれた上着に袖を通す。体操着の上着などが破れていたので助かった。猫先生は口を噤んだ後に肩を落とし、私の頭を乱すように撫でてくれた。


「竜胆です。東区のアテナの戦闘員、対応終わりました」


「お疲れ様ですわー。こちらもマッキ対応、抑制部隊の皆様に引き継ぎ完了で御座います」


 イヤホン越しに竜胆と桜の声を聞く。私は猫先生の顔を見たまま会話を聞き、ヘアバンドを掻いた保護者さんは視線を下げていた。


「……着替えてから学校に行きなさい。連絡はしておくから」


「あぁ、はい」


 穴が開いて少し火傷した足を見る。なんともまぁ目も当てられない状態だこと。


「あらいけませんわ! 女の子の尊い生足を隠さなくてわ!」


 桜が足にシーツを巻くように勢いよく抱きついてくる。突然の襲来に心臓が跳ねた私は、思わず素っ頓狂な声を上げてしまうのだ。


 桜はロングスカートのように私の腰にシーツを巻き付け、結んでくれた。


「いけませんわ! 破廉恥ですわ!」


 桜のヤマイにだけは言われたくない。


 私は思った言葉を飲み込んで、へんてこな格好をしている自分を見下ろした。


「……どうも。伊吹も先程は、」


 横を見て伊吹にお礼を伝えようとする。そこには上着を脱ぎかけていた灰色がいて、私は黙ってしまった。……まさかな。


 伊吹は黙って上着を着直したので、私も何事もないように口を開いた。


「先程はフォローありがとうございました」


「いや、俺こそ助かった。桜、トンファーの修繕と改良、頼めるか?」


「勿論ですわ。腕の火傷も処置しなくてはいけませんわね!」


「そこまで酷くねぇから、気にするな。ちゃんと手当はする」


「あらあら、かしこまりましたわ!」


 桜が足取り軽く伊吹からトンファーを預かる。私は彼女の顔を見ないようにし、イヤホンを繋げた。


「柊、援護とても助かりました。感謝します」


「別にいい。それが俺の仕事だ」


 なんと可愛げがない。私の感謝を返せよこの野郎。


 私は呆れながら早々に通信を止め、小走りにこちらへ来る小夜を見た。軽く揺れるおさげが可愛いのだが、包帯で目を隠しているのにどうして方向が分かるのか。謎だ。


「お兄ちゃん」


「小夜」


 弾んだ声で伊吹に抱き着いた小夜。背が比較的高めな伊吹の近くに行くと、小柄な小夜はより小さく見えた。小夜の頭を撫でる伊吹は酷く満足そうに笑っている。うわ、お兄ちゃんだ。


「空穂さん、ありがとうございました。お兄ちゃん一人だったら、きっと怪我をしていたと思うの」


「こちらこそ……お兄さんにも貴方にも、助けられましたよ」


「わぁ、良かったです!」


「俺の信用がないな」


「だってお兄ちゃんだもん」


 小夜の左手に巻かれた包帯を見る。この子の印数は、確か六だと言っていたっけ。


 私は詮索しないまま、差し出された小さな手を見下ろした。


「私、伊吹いぶき小夜さよって言います。桜さんや柊さんと同じ補助員をしてます、中学三年生です。よろしくおねがいします」


「丁寧にありがとうございます。実働部隊ワイルドハントに所属している空穂涙です。高二です。よろしくお願いします」


 差し出された手を握り返せば上下に軽く振られる。


 小夜の手は少し冷たく、視界の端では担架に乗せられた男性が運ばれていった。

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