第24話 妬
強制的にアレスへ帰された私は、滾る感情のままに拳を振り抜いた。目の前では床から現れた砂が固まり、伊吹となったから。
ペストマスクの
よくも私の――邪魔したな。
伊吹は素早く私の手を掴む。握り締められた時に手首が痛んだがどうでもよかった。手を振りほどけずに距離が縮まる。だから合わせて対処しよう。
私は伊吹の鳩尾に膝蹴りを入れた。深々と、容赦なく。そうすれば頭上から呻き声が聞こえ、手を握られる強さが緩んだ。その隙に後ろへ距離を取る。
ペストマスクとアルアミラを剥ぎ取って帽子と共に投げ捨てた。開けた視界で転移室を観察し、左手はウォー・ハンマーを握り締める。
こっちは使う気がなかったんだがな。
無心でハンマーを叩き落とす。伊吹の顔に向かって。
そうすれば勢いよくトンファーで防がれたから、部屋には金属音が
「どうして私をアレスへ帰らせたんですか。まだ時間はあったし材料は
「うるせぇなッ、自分の状態自覚しろよ!」
お互いの武器で弾き合う。後退して体は震えたが、倒れるようなことはしなかった。
伊吹がペストマスクやアルアミラを床に投げ捨てる。彼の柔らかい髪は揺れて灰色の瞳は険しく歪んでいた。器用にトンファーを回して持ち直した伊吹からは、道具に対する慣れがうかがえる。
苛立って嫌になった。図々しい優しさを嫌悪した。私の道を邪魔されたことが許せなかった。
勝手に手を貸して、勝手に意見して、勝手に妨害して。お前は一体何様だ。
私はウォー・ハンマーで床を叩き、煮えた頭で嫌味を考えた。
「思ったよりもお人よしなんですね。小さな親切大きなお世話って
「口では何とでも言えるだろうよ。それでもお前の体はそうじゃない。騙し騙しやってたら、いつか肝心な時に壊れて使い物にならなくなるぞ」
「そうなったとしても伊吹には無関係ですよね」
「へぇ……なら見方を変えて考えてみろよ。お前は放っておけるのか? 朝凪や永愛が怪我をしてても。無理に動こうとするのを見ても。その時も無関係だって言いきれるか?」
急になんだと喉が震える。私を心配する朝凪と竜胆を思い浮かべてしまう。
相手が流海でないならば、私は無関心でいられるよ。
そう、喉まで出かけたのに。
なのに私は――即答できなかった。
なんで、なんでだ、私は――
嫌悪感が体内に満ちる。口の中が苦い気がして意識が揺れる。背中がひりつくように違和感を覚えて怖くなる。
目を細めた伊吹は、私の顔にトンファーを向けた。
「気づけよ鈍感」
震えた奥歯を噛み締める。一気に体温が失せて鼻の奥が痛くなる。
私は、軌道を定められないままハンマーを叩き落とした。そうすれば再びトンファーで防がれて、伊吹には届かない。
「黙ってください。貴方の言葉は、耳障りだ。神経を逆なでされるばかりで嫌になる」
「……殴りあった方が話せるなら、体調を万全にしてから出直しな。こっちは手加減するのに神経すり減らしてるんだ」
ハンマーを力強く弾かれた。体の節々が軋み、血が滲んだ気がする。左手と武器が天井に上がった瞬間にナイフを抜いたが、同時に右肩が引きつった。
たった一瞬を伊吹は見逃さない。空いていた片手にもトンファーを握り、鳩尾に刺突面が叩き込まれた。
感じたのは吐き気と目眩。それを奥歯を噛んで耐え凌ごうとしたが、伊吹の方が一枚上手だった。
少しだけ下がった私の後頭部に肘鉄が落とされる。それは私の眩暈を助長し、視界が暗く回った。
* * *
意識が戻った時、一番に感じたのは視界の狭さであった。
仰向けの顔に置かれたペストマスクの感触。体の至る所に締め付けを感じ、それが包帯だとは予想できた。左腕には点滴を打たれている感覚もあり、私は深く息を吐く。
そこで右掌が人肌に触れていると知った。右手は私よりも大きな手に包まれて、相手の頬に誘導されている気がする。
相手が誰かは直ぐに分かった。ずっと一緒にいて、慣れ親しんだ片割れの温度だったから。頭を侵食していた憤りは急速に萎んでいき、残ったのは不甲斐なさである。
私の体からは力が抜けて、耳は片割れの仕方がなさそうな声を拾った。
「おはよう、無鉄砲さん」
「……おはよう、お寝坊さん」
ペストマスクの額を小突かれる。私は左手でマスクを上にずらし、口元だけ笑って見せた。
今は疲れのせいか笑みを長く持続できそうにない。万が一に備えてマスクを完全に外すのは
「今のお寝坊は涙の方だよ」
「そっか……なら、お相子だな」
笑いながらマスクの内側を見つめている。黒い面で覆われた視界は、私に流海の表情を認識させない。
だからだろう。流海が笑うような声をしても、バグった頭は理解しないのだ。
「いま何時?」
「夜の九時過ぎ。柘榴先生と猫先生は廊下で寝てるよ」
「そっか……」
また心配をかけたのだろうと目を伏せる。今日は流海と言い合いもしていただろうし、二人の精神面が少し心配だ。気にしなくていいよっていつも言っているんだけどな。だから……優しい人は苦手なんだ。
流海が私の手に指を絡めていると分かる。そうかと思えば胸に重たさが乗ったから、片割れが顔でも突っ伏したのだろう。
「流海、そこ肺がある。重い」
「知ってる」
「おい……」
流海の手に力がこもる。片割れの空気はトゲトゲしく、どうやらご機嫌斜めのようだ。
わざとらしく大きく深い呼吸をすれば、流海は私の手を握り締めていた。痛いほどに力が込められた手から流海の考えを読もうとする。息をするように察することは出来るが、絶対的確信が持てないんだよな。
「どうして怒ってるのやら。先生達に
「違うよ。
……残念ながら先生達は流海に敗北したらしい。しかし完全敗北ではなさそうなので、私の心境は安堵と不安が混ざり込んだ。
「条件……体力増強か」
「正解」
流海がため息を吐く音を聞く。片割れはそうだ。私と比べると体力がない。それは私達の間に出来た差の一つであり、人と出会わない為に外出を避けてきた流海の特性でもある。
時々夜に路地裏を走って遠くへ出ようものなら、流海の呼吸は荒くなっている。膝に手をついて固まっている姿は「疲れた」を喉に溜めていると伝わるが、決して口にしない姿勢がまた可愛いのだ。言えば怒られるだろうけど。
白い肌に細い体躯のせいで儚い雰囲気がある流海だが、その実負けず嫌いだし自分も曲げない。「見た目に反して」という前置きがよく似合う子だよ、本当に。
片割れの人脈も行動範囲も狭い。いつか思ったように、流海の世界は狭いのだ。
だから正直不安な所がある。
木に
「具体的目標は?」
「まずは三km走り切る体力をつけること」
「ランニング開始だな」
「頑張る」
「付き合うよ」
「ありがと。なら早く怪我治して」
流海の手に再び力がこもる。骨が軋むのではないかと思える行動に、彼が本当に怒っている理由を予想した。
「結構大きめの怪我して帰ったこと、そんなに不満?」
「不満だよ、とっても」
胸の圧迫感が消えて反射的に息を吸う。同時に私の顔からはペストマスクが落とされて、顔に笑みを貼り付けた。
覗き込んでくるのは無表情の片割れ。その眉間には皺が寄っており、右手には力がこめられ続けた。
「また僕が知らない所で怪我増やしてさ、本当に嫌になる」
「まさかアテナで笑いかけられるとは思ってもみなかったんだよ」
「それは誰が笑ったの。あの伊吹って人?」
「いいや。アテナの奴だよ。名前はたぶん「嘉音」って言う男」
「嘉音……」
流海は口の中で何度か「嘉音」の名前を呟く。覚えるように繰り返す片割れは重苦しい空気を降らせているから、私は微笑んで目を閉じた。
「そっか、うん、覚えた」
「覚えてどうするんだか」
「分かってるくせに」
「怖いこった」
流海が額を寄せてくる。私の額の熱は流海の額に吸い取られていくようで、お互いの心臓の音が今にも聞こえそうだと安堵した。
片割れがゆっくりと私の上に体を乗せる。肩口に顔を埋めて、上体をくっつけあって。私は天井を見て笑みを剥がし、左手で流海の髪を
「てっきり、起きたら伊吹がいるもんだと思ってたよ」
「そんなの僕が許さなかった」
鳥肌が立つほど低い声がする。それは鼓膜を揺さぶって私の思考を固め、流海は私の右手に指を絡め直していた。
腹部に手が添えられる。腰を掴まれたなぁと何となく理解していれば、流海はわざとらしく体重をかけてきた。傷が開いたらどうしてくれるのかと思ったが、輸血パックと共にメディシンがぶら下がっていたのでどうにでもなるだろう。いつも応急手当用にメディシンをくれる所を見るに、パナケイアにも慈悲はあるみたいだな。
――自己犠牲なんて美談にもならねぇよ。大事な奴のために死力を尽くすのは立派な事だが、それでお前自身に何かあったら元も子もない
――怪我をして突き進むことは悪いと思いません。これは最短の距離だと思うし、最速の距離だとも思っているので
伊吹の意見を否定する気はないが受け入れる気もない。自己犠牲は確かに美談ではないが、怪我をしてでもそれが最短になるならば良いではないか。別に他人にそうしろと言っているわけではない。私が私にあったやり方だと思っているだけだ。
私にとって怪我は日常で、慣れ親しんだ悪友なのだから。骨が折れても血管が切れても目的の物を獲得できたら良い。人のやり方に口出しするなよ鬱陶しい。
――お前とは、アレスでゆっくり話をすることにした
私の砂時計を逆さにした伊吹。思い出すだけで体の中が不快になり、私はため息を我慢できなかった。
そんな私の態度をどう受け取ったのか。流海の体から滲み出る不機嫌が暗さを増す。火に油でも注いだ気分だ。
「起きて伊吹君がいないの不満?」
「違うね、流海がいて大満足だから」
「なら何でため息吐くのさ」
「アテナでの伊吹との会話を思い出してたんだ。それだけで疲れるしイライラしてくるけど」
「なら思い出さなかったら良いのに」
流海が顔を上げるから私は笑う。笑顔で片割れを見つめて、可愛い弟は不機嫌な顔で頬ずりしてきた。大変可愛らしい。甘えたでしょうか。癒しか、花丸やるわ。
「どうしようね、凄くイライラするんだ」
「そりゃまた流海にしては珍しい」
「それもこれも涙が悪いんだよ」
流海の黒い目が覗き込んでくる。至近距離で私を見てくる片割れは、鼻先が触れ合う距離で不服を唱えていた。
「なんで、涙を心配する人が増えてるの」
流海の手に力がこもる。
「どうして僕が眠ってる間に、涙に近づく人が増えてるんだよ」
低い声が私の鼓膜や皮膚から入り込む。
あぁ、これは駄目なスイッチを踏み抜いていたみたいだな。
「すごく嫌だ。イライラする、頭が痛い、気持ち悪い」
流海の両手が私の頬に添えられる。固定された顔では流海しか見ることが出来ず、笑顔も共に固まった。
「桜って子のヤマイを受けたことも聞いた。朝凪って子や竜胆って人が涙を心配してる声も聞いた。前から聞いてた柊君が呆れていたのも見たし、伊吹君が涙を運んで治療室に行く姿も見たんだ」
流海の声が地を這うように低くなり続ける。今にも叫び出しそうで、張り裂けそうな声色だ。
この子に今の私の声は届くだろうか。とても狭い世界を生きてきた片割れに。私しか見えていない半身に。まるで取り残されることを恐れているような、弟に。
「流海、桜や朝凪達は良い子なだけだ。良い子過ぎて、優し過ぎて、だから私を、」
「僕以外の名前を――口にしないで」
流海が私の目を覗き込む。その目は黒くて、深くて、縋ってくる。
黙った私は微笑み続けて、流海の目の下を撫でてやった。
「流海……そんなに不安か?」
「……分かってるくせに」
「流海、るか、るーか」
可笑しくなって片割れを呼び続ける。そうすれば流海は瞼を下げて、私の喉元に額を寄せた。
「大丈夫。可愛い片割れ以外を優先したりしないさ」
――お前は放っておけるのか? 朝凪や永愛が怪我をしてても。無理に動こうとするのを見ても。その時も無関係だって言いきれるか?
伊吹の言葉が再び巡る。それに答えを出したくなくて、私は流海を抱き締める。
流海がいてくれたらそれでいい。それ以外なんてどうでもいい。私は流海がいれば、片割れがいれば、それでいい。
「私は、流海がいてくれるだけでいいんだ」
「僕もだよ。涙がいてくれたらいい。涙だけでいい、涙がいれば十分だ……」
流海が私の頬を撫でて呟いている。
そうだよ、そうだ。流海がいればいい。流海が生きられるように駆け回ろう。もしも駄目で、流海が毒に食い殺されたならば、私も後を追っていこう。
大丈夫、大丈夫、私には流海がいればそれでいい。それ以外の大切なんてありはしない。大切はなくなった。だからもう、流海以外の大切は――作らないんだ。
流海を抱き締めて目を閉じる。
片割れは私の二の腕を握り締めて、きっと笑ってはいなかった。
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