第78話 声

 

 先生達から電話がかかってくることは基本的にない。柘榴先生も猫先生も電話になると感情を伝えるのが下手になると自己申告して、仕事以外では極力したくないのだと言った。「駄目な大人だよ」とため息をつかれたので、「人それぞれでは」と答えた日を私は覚えている。


 そんな柘榴先生からの電話。私の胸は微かにざわめき、流海と一緒に画面を見た。


 これは出ないといけない。急いで出なくてはいけない。


 これは、取り逃してはいけない繋がりだ。


 寒気を覚えた私は通話ボタンを押し、流海とも聞けるようにスピーカーにした。


「もしもし先生、どうしたんですか? 電話なんて」


 応答しても柘榴先生は喋らない。それが私の不安を助長して、目を何度も瞬かせてしまった。


 私は何度か「先生?」と問いかけて、流海はスマホの音量を上げてくれる。


 聞こえてきたのは、何処かを走る音。


 柘榴先生の息切れも少しだけ聞こえて、私の気持ちが揺れてしまった。


 ――詳細は教えられてないんだけど、柘榴先生どっか走って行っちゃったから


 今日、柘榴先生は流海をパナケイアに呼び出した。それでも、何も伝えないまま終わってしまった。延期にされた。


 それは何で? 柘榴先生だって知ってるのに。流海は最低限の外出しかしなくて、家で済むことは家でするようにしてて、それでも今日は呼び出したってことはそれだけの理由があった筈なのに。


 私は喉が渇く気がして、流海は訝しんだ声で問いかけた。


「柘榴先生、どうして……路地裏を走ってるの?」


 流海は籠った足音と息遣いだけで、柘榴先生が路地裏にいると検討を付ける。


 私達が誰の顔も見ないように選んできた道。


 その道を教えてくれたのは、誰でもない先生達だ。


 二人が私達の手を引いて教えてくれた。私達のヤマイを発症させない為に考えてくれた。私達を守る為に、学ばせてくれた。


 柘榴先生は何も喋らず走り続けて、不意に足音が止まった。


 心臓が徐々に拍動を早める。


 私は流海の手を握り締めて、流海の呼吸も少し浅くなった。


 柘榴先生は深く息を吐くと、そこで初めて声を聞かせてくれる。


「涙、流海――ごめんね」


 待って、先生。


 何、何を謝ってるの。


「柘榴……」


「……先生?」


 どうして電話なんてかけてきたの。


 今日は早く帰るって、たくさん話を、しようって。


 私はスマホに映る〈柘榴先生〉の文字から目を逸らすことが出来なかった。


「時間が無い、から……手短に、説明したかったんだけど、ね……」


 柘榴先生の呼吸が荒い。途切れ途切れの言葉は不安定で、私と流海は同時に息を呑んだ。


 これは走っただけの息切れとは違う。痛みを堪えた音が混じった。だから今きっと、先生は、


「先生、怪我、してるんですか……?」


 情けない声で聞いてしまう。私の脳裏には、泣き出しそうな顔で笑う柘榴先生の顔が浮かんだ。


「いざとなると、言えないね。なにも、ほんと」


 その声は嫌いだよ。その喋り方も嫌いだよ。


 きっと今、柘榴先生は驚くほど優しい顔をしてる。


 眉を八の字に下げて、笑っている気がする。


 私の瞼の裏で、ケーキに刺さった蝋燭の火が揺れてしまった。


「先生、どうしたんですか。今どこにいるんですか」


「そう、そうだな……うん、決めたよ、これだけは絶対、伝えたかった、から」


 先生と会話が成り立ってない。私の投げた問いかけを受け取ってる筈なのに、先生は違う答えを投げ返してきた。


 どうして先生。嫌だよ、嫌なんだ。その声色、凄く嫌だよ。


 思い出してしまうから。傷つき始める前の、毎日を。


「やめて先生。こんな会話、僕も涙も嫌いだよ。だからどこにいるか教えて、何してるのか教えて」


「口下手だったけど……ほんと、酷いくらい、君達に気持ちを伝えるのが、下手だったけど、」


 流海の言葉も柘榴先生は聞いてくれない。自分の言葉だけを投げ続けて、受け取りたくないのに私達は受け止めてしまう。


 何も理解できてないのに。何も追いついていないのに。


 先生、先生、柘榴先生、


「やめてください先生」


「聞きたくないよ先生」


「私も、猫柳もね。本当に……心の底から、本当に、」


 あぁ、なんで今、そんなことを言うんですか。


 なんで、そんな……泣きたくなるくらい優しい声で、喋らないでよ。


「「やめて、柘榴先生!!」」


「――大好きだよ、涙、流海」


 息が止まる。


 心臓が痛くなる。


 私の両目から、渇いていない泪が零れてしまう。


 スマホの向こうからは、焼け爛れたような男の人の声がした。


「ア゛、ぁあ゛!!」


 それは確かに――化け物の声。


 成り果ててしまった人の声。


 私の体から一気に体温が失せ、柘榴先生のスマホが砕ける音が響き渡った。


 通話が切れる。


 繋がりが切れる。


 私の視界は歪んで、呼吸は浅くなって、流海は急いで自分のスマホで柘榴先生に電話をかけてくれた。


「ッ、だめ、出ないよ涙」


「ぁ、っ、るか、いま、いま……こえ、声、が」


 呼吸が浅くなったまま戻らない。喉が締め付けられたような音がして、私は額に熱が集まる感覚がした。


 胸が痛い。頭が痛い。目頭が熱い。


 流海は私の背中に手を添えて、自分のスマホを鳴らした。今度は柘榴先生ではなく猫先生へ。


「でて、出てよ、ッ猫先生」


 流海の声に隠しきれてない焦りが滲む。私は自分のスマホを掴んで柘榴先生に発信し続けた。


 かけてもかけても繋がらない。何処にいるかも分からないのに。


 何が起こってるの。何がどうなってるの。


「ざくろ先生、先生、でて、柘榴、せんせぃ」


 何度も何度もかけ続けた。それでも電話は繋がらなくて、聞こえてくるのは無機質な音声案内だけなんだ。


「おかけになった電話番号は電波の届かない所にあるか、電源が切られており、お繋ぎすることが出来ませんでした」


 やめろよ、そんな言葉が聞きたいわけじゃない。


「おかけになった電話番号は電波の届かない所にあるか、電源が切られており、お繋ぎすることが――」


 黙れ、黙れ、繋がれよ。


「おかけになった電話番号は電波の届かない所にあるか、電源が――」


 先生、先生、出て、お願い、お願いだからッ


「おかけになった電話番号は――」


「出ろよッ」


 あぁ、やめろよ、無様な足掻きだろ。


 聞いたではないか。柘榴先生のスマホが壊れる音を。無慈悲な音を。


 呼吸が浅くなって、冷や汗が溢れ出る。


 私は何度目かになる発信を切り、その瞬間に着信が入った。


 映ったのは柘榴先生の名前ではない。猫先生の名前でもない。


 浮かんでいるのは〈柊葉介〉の文字だ。


「ッ、柊」


「……空穂、よく、聞けよ」


 それは、いつにも増して真剣みを帯びている声だった。


 私の手がスピーカーボタンを押す。


 流海と共に柊の言葉を聞く。


 気づけば私達は家を飛び出して、暗くなった街を駆けていた。


 太陽は沈み、空は厚い雲に覆われている。


 ――皇さんから連絡があったんだ


 雨粒が落ちた。


 最初はぽつりぽつりと表現できるレベルだったのに、徐々に音も勢いも強くなる。


 ――何が起こっているのか俺にもお嬢にも分からない。だから、皇さんから聞いた事実だけを述べる


 大きくなった雨粒が、痛いほど体を叩いてくる。これはきっと大雨と言っても過言ではない。


 私は流海と共に路地裏を駆けた。どれだけ肺が痛くても、傷が痛んでも。


 視界が歪んだ。それは、雨粒が入ったせいではないんだろうな。


 ――マッキが現れた。突然のことだ。前兆はなかった


 雨で滑りそうになり、視界も暗くて色々な物にぶつかってしまう。


 私は無意識の内に流海の手を取り、片割れの目は滲んでいる気がした。


 ――だがそれ以上におかしいのは、パナケイアから実働部隊ワイルドハントに命令も連絡もきていないことだ


 私にも流海にもマッキ対応の連絡はこないまま。握り締めたスマホが防水だったかどうかなんて覚えてない。


 私は窒息しそうになりながら、パナケイアへと続く路地裏を流海と一緒に走り抜けた。


 ――抑制部署もヘルスの誘導だけでマッキに対しては動いていない。しかも……


 あぁ、柊、全部嘘がいいよ。


 全部ぜんぶ嘘がいい。


 ――マッキに追われていたのは……霧崎さんだ


 私と流海は辿り着く。


 パナケイアから離れた路地裏。それでも、家に向かっていたと分かる遠回りの道。


 そこに血溜まりがある。雨で流されていく血液がある。


 ――皇さんが直ぐに追ってくれた。だが、マッキである相手が……悪すぎる


 土砂降りの雨に体も頭も叩かれ続ける。短時間で、圧倒的な水量を持って。


 そこに佇む金髪は、一体何を考えているのか。


 右手に持たれた狼牙棒。


 棘の密集した先端からも、雨によって流れる赤色があった。


「……来たかぁ、空穂双子」


 雨に掻き消されそうな声で、皇に呼ばれる。


 私は流海の手を握り締めて、服が肌に張り付く鬱陶しさなど気にも留めなかった。


 心臓が早鐘を打っている。何も理解したくないと頭が叫ぶ。


 皇は、独り言のように語りかけてきた。


「俺ってあんまり他人に興味ねぇし、自分と相方が一番可愛いんだけどさぁ……霧崎さんは気に入ってたんだぜ。ほんとだよ。ヘルスでも俺達ヤマイに優しいし、美人だし、ちっせぇ怪我でも手当てしてくれるし。マジで年の差が潰れねぇかなって考えた時もあった」


 流海が私の肩を抱いてくれる。


 私は震える手で流海に縋り、皇の声をなんとか拾い続けた。


「だからなぁ……の方はあんまし好きくなかったんだよ」


 狼牙棒が地面に触れる。鉄の匂いは雨に交じって上手く嗅ぎ取れなかった。


「霧崎さんとよく一緒にいるし、元実働部隊ワイルドハントだから強ぇし。いやマジで強かった。はー……。凶暴で、強烈だ」


 皇の足元にも血溜まりがあった。それは金髪の男自身のものだろう。


 暗い路地にある心もとない街灯が、皇とその前にいるを照らしてる。


 私の視界は一気に滲み、雨よりも温かい雫が頬を伝った。


「雨が降る前から変わってたぜ。空気の中にある水素とか、そんなのと反応したのかねぇ……何も、ほんとに何にも分かんねぇけどさぁ」


 皇が振り返る。流海は顎を引いて金髪を見るのをやめ、私は唇を噛んで赤い瞳に視線を向けた。


 皇樒は、憂うような瞳でそこにいる。流しきれない血液をつけた狼牙棒を担いで、佇んでいる。


「無慈悲だよなぁ……世界って」


 私の視線が皇の奥に向かう。


 血溜まりの中央にいるのは、柘榴先生。


 黒い髪が肌に張り付き、いつも身に纏っている白衣は深紅に染まってる。肌は青白くなって、そこに飛び散った血飛沫が痛々しくて堪らない。


 彼女を抱き締めて倒れているのは、マッキになったヤマイ――猫先生。


 いつも着ている長袖が破れて、背中や前腕、肩から鋭利な刃が飛び出している。まるで日本刀やナイフが体内から現れたように、猫先生の皮膚は凶器に変貌していた。


 刃と化している猫先生は、その両腕で柘榴先生を抱き締めてる。刃物は柘榴先生を貫いているのに、まるで守るように抱えているんだから。


 猫先生の両足はあらぬ方向へ折られており、骨が見えてしまっている。それはきっと皇のせいだ。


 二人に雨が降り注ぐ。


 顔を上げない猫先生が、目を開けない柘榴先生が、そこにいる。


 猫先生は柘榴先生に覆いかぶさるように倒れていて、雨が当たる皮膚は未だ刃に変わり続けていた。


 私の足から力が抜けて、水たまりの出来た地面に蹲る。流海と一緒に、流海と共に、繋がらないスマホを握り締めて。


 ――涙、痛かったら痛いと言っていいんだよ。隠す方が駄目だ


 ――……そんなに酷くない、し。柘榴先生に、迷惑かけたく、ない、です


 ――迷惑ではなく心配をかけてるんだよ。そしてその心配は、涙が痛いと教えてくれたら解決するんだ


 ――迷惑も心配も、一緒だと思います


 ――違うよ。迷惑は害だが、心配は無くなれば安心を生んでくれる。だから何でも教えてくれ


 嫌だ、やめろ、思い出すな。思い出が悲しくなるから。私を構成する記憶が悲しくなるから。


 いつか朝凪に伝えた言葉は、柘榴先生との思い出が作ってくれた言葉だった。


 ――涙は最近、発症の頻度が減ったな……うん、うん


 ――どうしたんですか、言い淀んで


 ――いや、発症が減ったのは涙が気を付けてるからだと思うんだ。だからそれを褒めてやりたいんだが……こう、言葉が上手く出ない。すまん


 ――いや、別に構いませんけど……誉め言葉なんていくらでもあるのでは?


 ――あぁ、沢山あるよ。それでも、たった一言で終わらせるには涙の努力は軽くない。だからその努力に見合うだけの言葉をあげたいんだ


 止まれよ記憶。浮かべるな脳みそ。私の思い出を、先生達との日常を、悲しいで染めないで。


 いつか小夜に伝えた思考は、猫先生との思い出が作ってくれた考え方だった。


 脳裏に浮かんだ先生達の姿が真っ赤に染まる。瞼を上げれば、目の前にも赤く染まって倒れた先生達がいた。


 その姿は、私と流海を庇ったお父さんとお母さんに重なってしまうから。


 あぁ、どうして、どうして世界はこんなにも優しくないの。


 どうして悲しい事ばかり起こるの。


 必死に走って、必死に考えて、必死に自分を貫いたのに。それが全て馬鹿みたいに思えてくるではないか。


 私も流海も動けない。崩れた足に力が入れられない。


 気道が閉まったような音が耳障りだと思う。それは私が発してるのに、止めることが出来ずに歯痒くなった。


 近付くのが怖い。事実を確認するのが怖い。怖い、怖くて怖くて二人に駆け寄れない。縋りたいのに縋れない。触れた時に先生達が冷たかったら、固かったら、私は……私はッ


 その時、私は見た。


 柘榴先生の指先と、猫先生の肩が、動いた様を。


 それは、つまり、まだ、まだッ!!


「涙ッ!」


 流海に呼ばれて立ち上がる。互いの手を握り締めて、先生達の声を聞きたくてッ


 その時、私と流海を掴んだ奴がいる。


 皇ではない。アイツも私達と同じ奴らに周りを囲まれた。


 とつぜん背中側から地面に倒された私は、猫先生がいつも着ている黒衣を視界に入れる。


「ッ、なに!」


実働部隊ワイルドハント所属、空穂涙、空穂流海の捕獲を確認」


「離せ、おいッ、離せッ!!」


 機械的な声がする。それは私と流海の言葉を無視して、顔を濡れた地面に叩きつけられた。


 傷が痛んで呻いてしまう。


 それでも、そんな痛みも直ぐに失せる。


 目の前で猫先生を囲んだ奴らがいて、柘榴先生の脈をとる奴らもいたから。


 触るな、触るなッ、離せクソがッ!!


「霧崎柘榴、意識混濁、脈拍微弱。実験室へ搬送」


「猫柳蓮、意識混濁、両足破損、危険度弱。実験室へ搬送」


「やめろッ、先生達に何すんだ!! 何したんだッ!!」


「治療してよ、先生達を救えよ! おいッ!!」


「「実験ってなんだ、ふざけ、離せッ!」」


 喉を潰しそうな声で、流海と共に叫びを上げる。


 柘榴先生を抱えた奴らも、猫先生を抱えた奴らも答えない。


 けれども、奴らの衣装は知っている。実働部隊ワイルドハントの後処理や、ヘルスの対応などを受け持ったパナケイアの部署。猫先生が所属していた――抑制部署の連中だ。


 私は無機質な職員達の目を見つけて、愕然とした。


 なんだよ、この状況。なんで私も流海も抑制部署の奴らに取り押さえられて、先生達は道具みたいに扱われてるんだ。


 私はただ、流海を治したかっただけなのに。


 例え幸せになれなかったとしても、朧を知る前の日々を取り戻したかっただけなのに。


 柘榴先生や猫先生がいる、私達なりの普通に戻りたかっただけなのに。


 あぁ、私は誰を恨めばいいでしょう。


 私は誰を憎めばいいでしょう。


 私の本当の敵は誰でしょう。


 私はいつも後から気づく。


 私はいつも後悔ばかり。


 私はいつも失ってから気づく、愚か者。


 私は最初から、憎むべき相手を――間違えていたのかもしれない。

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