第19話 夜

 

 流海の検査が全て終わった時、私の拘束衣は柘榴先生と猫先生によって外された。朝凪と竜胆は、アテナへ行こうとする伊吹を勢いよく捕まえている。


「おい、俺はどこも怪我してねぇって」


「朔夜君はどう考えても連勤しすぎ!! 今日は一緒にご飯食べに行こう!!」


「涙さんも安静ですよ! 絶対です!」


「……あい」


 朝凪と竜胆に引きずられて歩く伊吹は正直に言って滑稽だった。竜胆の止め方は尋常ではなかったし。伊吹は一体何日連続でアテナへ行っていたのやら。


 私は朝凪に軽く手を振って拘束衣を脱ぐ。下には実働部隊ワイルドハントの戦闘服を着たままであり、先生達からは着替えを渡された。


「一回家に帰ったんですか?」


「あぁ。どうせ涙は今日、流海の病室に泊まるだろ?」


「血だらけの制服で寝かすわけにもいかないし。シャワー室で汗も流しておいで」


「ありがとうございます」


 真顔の猫先生と柘榴先生に頭を撫でられる。私はジャージが入った鞄を持ってシャワー室に向かい、傷口が開いていないことも確認した。少しだけお湯が染みるのも慣れっこだ。


 柘榴先生と猫先生は私の元に来る前に流海と話をしたそうだ。通りでやってくるのが遅かった訳だ。感動の目覚めを私より長く堪能したと。ちょっとズルいと思う。


 シャワーを終えた私は、二人の背中を軽く押して病室に向かった。


「流海にはどこまで話したんですか」


「……全部話したよ。アテナのことも、実働部隊ワイルドハントのことも――体のことも」


 少しだけ言い淀んだ柘榴先生。私は彼女の横顔を観察し、言葉は無いまま目を伏せた。


 流海は隠し事をされると機嫌が悪くなる。それが自分に関わることならば尚更だ。だからきっと、全て話すと言う事は正しいのだと思っている。


 私は拳を握り、先生達とは病室前で別れることになった。私と流海が同じ部屋にいる場合、どんな表情をしていても事故が起こる確率が上がるからだ。


「夕食をどうする。何か買ってこようか?」


「大丈夫です。食堂で適当に済ませますから」


「そうか」


「宿泊許可は出しておくから、今日は流海を頼むよ」


「はい。ありがとうございます」


 先生達に軽く手を振って見送る。お互いの肩を叩く二人の後ろ姿からは、安堵が滲み出ている気がした。


 時間を確認すると二十時が近く、私は自分の空腹感と相談した。結果的には相談するまでもなく、食堂ではなく流海の元へ行ったのだが。


 私は口角を上げて、病室の扉を開けた。


「流海」


「涙」


 ベッドに腰かけている流海が顔を上げる。彼は無表情に、私は笑顔に徹した。


 流海はベッドの縁を叩いて私を呼ぶ。私が鞄を置いてベッドに腰かければ、流海が右の肩に顔を埋めてきた。大変可愛らしい。満点。


 私は自然と微笑み、流海の黒い髪に指を通した。


「検査お疲れ」


「ほんとに、ちょっと疲れた」


「……」


「怒らなくていいよ、僕は平気だから」


 頭の中で研究員達に殴りかかる自分がいる。ウォー・ハンマーで他人の骨を砕いたことはあるが、頭はまだ無いんだよな。アテナではなくアレスで試すことになると笑ってしまいそうだ。


 流海が私の背中を軽く叩く。それだけで落ち着く自分は安上がりだと思いながら、片割れの頭を撫で返した。


「……聞いたんだろ? 全部」


「聞いたよ。僕の体のことも、涙が何をしているかも、全部……全部ね」


 私の肩に顔を埋め続ける片割れ。背中と肩に引きつる感覚が生まれたが、どちらも流海の体温が溶かしていった。


「アテナって聞いた時は正直信じられなかったけど、自分が連れて行かれたのは確かにここではない場所だったし、息するだけで苦しかったことも覚えてる」


 流海は私の左二の腕を撫でた。そこについた傷は既に完治しているが、傷痕まで綺麗に消えた記憶はない。流海はそのまま左肩に手を置き、もう片方の手は私の後頭部に埋められた。


「……流海、あの時、」


「謝ったら怒るよ、涙」


 流海が私の左肩を握り締める。だから私は口をつぐんで、静かに目を伏せたのだ。


「涙は何も悪くない。僕だって何も悪くない。悪いのは――あのペストマスクだった」


 流海の声が普段聞かないほど低いものになる。片割れから感じる空気は尖りを見せ、私の腕には微かに鳥肌が立った。


 流海が怒ることは基本的にない。いつも先に怒るのは私であり、落ち着かせてくれるのが流海だった。


 しかし今は、逆の立場だな。


 私は流海の背中を叩くように撫でる。そうすれば流海は私の左肩を握り締めて、欲しくなかった言葉をくれた。


「だから僕も入るよ――実働部隊ワイルドハントに」


 背筋が冷える。


 喉が締まる。


 一瞬目の前が真っ白になった私は、口の中の水分が一気に無くなる感覚をおぼえていた。


 心臓が大きく脈打ち冷や汗をかかせる。


 私は流海の服を握り締めることで拒絶を示した。


 毒の世界に飛び込むのは私で良い。私であればいい。流海に怪我をして欲しくない。危ない目にあって欲しくない。だからやめてくれ。


 どうすれば流海の意志を曲げられるかを考える。どうすれば私だけでいいと説得できるかを考える。心臓はうるさく鳴り響き、私の口は無駄な呼吸しかしなかった。


「涙の心臓、凄く早くなってるね」


 目を細めた流海の表情が想像できる。しかしそれは想像止まりであり、本当は違うかもしれない。向けられたと判断していない私は、起こらない事故に安堵した。


 流海は私の頭から手を離し、体の中心に指先を置く。ちょうど心臓の上。今も激しく拍動は続き、私の内情は焦りで塗り潰された。


「涙が何を言っても、何を思っても、僕は行くよ。涙だけに背負わせたりしない」


「流海、大丈夫、平気だから。私が行く、だから流海は、」


「涙」


 脳無しの口は説得力のない言葉ばかりを吐いた。流海は私の右肩に手を添えて、静かに力を込める。今日できたばかりの怪我に響く痛みに言葉を止めれば、流海は「ほらね」と呟いたのだ。


「涙にばっかり怪我させるなんて嫌だよ。傷つくなら僕も一緒が良い。僕が知らない傷をこれ以上増やさないで」


「流海」


 顔を上げた流海が額を合わせてくる。反射的に笑みを浮かべるが口角が震えた。無理やり作った笑顔はそれでも「笑顔」だ。


 流海は無表情のまま目を閉じる。だから私も瞼を下ろし、鼻先が触れ合う距離にいる片割れだけを感じた。


「僕らは二人で一人だ。半身だけで遠くへ行かないで。一緒にいないと駄目だよ。もう家で一人待っているような生活は嫌だしね。だから僕も連れてって」


「……流海に、これ以上何かあるのは……耐えられない」


「それは僕も一緒だよ。涙に何かあるなんて絶対いや」


「でも、流海は体が、」


「今のところは痛みとか倦怠感とか全然ないんだ。健康体。余命宣告だって信じられない程にね」


「流海ッ」


「涙」


 流海のまつ毛が触れる。瞼を上げたのだと分かる。だから私も微笑みを浮かべて目を開ければ、視界を埋めたのは片割れの姿だけだった。


「僕を置いていかないで」


 視界が滲む。流海の服の裾に指先で縋りつく。そうすれば流海は仕方がなさそうに眉を下げて、再び目を閉じた。


 私も目を閉じて流海の額に寄りかかる。そうすれば頬を熱い雫が流れていくから、自分の弱さが嫌になった。


「涙は相変わらず怖がりで、泣き虫だね」


 そう言った流海は笑っている気がしたが、私のぼやけた視界では判断などできず、バグを起こした頭は認識しなかった。


 * * *


 流海には朝凪のことや竜胆のことを話し、柊や桜のことも、家に押し入ったのが皇と言う男だとも説明した。


 背中合わせに会話をし続ければ、私の心臓は落ち着きを取り戻す。握り締めた片割れの手に呼吸が楽になった。流海は始終私の手を固く握り、実働部隊ワイルドハントの道具などについても説明し終わる。


「涙が持ってた武器、ウォー・ハンマーって言うんだっけ」


「そうだよ」


「なら僕は遠距離の方がいいかなぁ」


「楽しげだな」


「楽しいよ。涙と一緒に頑張れることがあるなんて、楽しくてならない」


 流海は私の背に体重をかける。私は喜んでいいのか分からなかったが、流海が楽しそうだからどうでもいいかと思い直した。


 遠距離の武器なら何が良いだろう。朝凪が持っている弓とかだろうか。練習が必要だな。


 私は流海の背中に体重をかけて目を伏せた。


「ボウガンとかが良いかもな」


「かな。練習しなきゃ」


「付き合うよ」


「ありがとう」


 流れるように会話をする。弾んでいるというわけではなく、障害なく言葉のやり取りができる感じ。流海とだからこそ成り立つ事だ。


 そうしていればあっと言う間に消灯時間が来て、部屋の電気が強制的に消された。この自動消灯機能っているのかよ。わざわざ部屋を巡回しない為か。コスト削減。


 私は月明かりだけになった室内で息を吐く。流海は繋がれた点滴の管を鬱陶しそうに動かしていると背中越しに感じた。


「もう寝ないといけないんだね」


「一応は病院施設になるしな」


「眠くないんだけどなぁ」


「寝すぎなんだよ」


「あ、そっか」


 流海が後頭部を押し付けてくる。私は少し背中を曲げて片割れの体重を受け止めた。残念ながら私もまだ眠たくないんだよな。


 部屋にベッドは一つしかない。元より椅子での仮眠で済ませる予定だったので好都合ではあるが。明日は朝一で家に帰って、上は体操服で登校予定だ。制服の血は落ちても破れた肩口まで再生はされない。「嘉音」に縫わせてやりたいところだが、素人が縫えるわけもなく、まずそんな呑気な関係ではなかったとため息が出た。


「ねぇ、椅子で寝ようとか思ってないよね?」


「お前は超能力者だったっけ?」


「涙の考えてることなんて大体分かるよ。明日からの体操服登校めんどくさいとか、高二の秋に制服買い直すのやだなぁとか、今晩ちゃんと寝る気がないとか」


「……驚いたぁ」


「誉め言葉として貰っておくね」


 流海が私の手を離す。私もベッドから下りて椅子と言う寝床を整えようかと考えれば、今度は手首を掴まれた。


「流海?」


「ベッドあるんだし、一緒に寝たら良いと思うな」


 笑顔で振り返れば、ベッドの上で胡坐あぐらをかいた流海がいる。無表情の片割れは月明かりを背にしており、無駄に絵になる弟だと誰かに自慢したくなった。


 私は病室のベッドを見る。残念ながらシングルベッドなのだが。上げた口角は固めておいた。


「流石に無理だと思うのは私だけか?」


「くっついて寝ればいけるよ」


「朝起きたら床の上でした的な」


「大丈夫大丈夫」


 流海は笑うのを堪えるような表情で私の手を引く。笑顔の私はあれよあれよと片割れに寝床を整えられ、二人して狭い病院ベッドに横たわった。スプリングが軋む。流海の点滴は無事っぽい。よかった。


 流海の胸の中に完全に埋まる。思った以上に体格差は広がっているようだが、これはこれで安心できるので良いだろう。


 私は片割れに抱き締められて目を閉じる。弟の温もりと言うのは偉大だな。これはもしかしたら直ぐに眠れるかもしれない。


 片割れはきちんと目覚めてくれた。後はその体だ。今は何の問題がなくとも「もしも」に備えておくことは必要になる。この子を治す為の薬が作れるように、研究が進むように、アテナを駆けずり回ろう。


 流海は私の背中を撫でてくれる。


 私はこの温もりがなくなった、冷たく重たい流海の姿を想像してしまった。


 目頭が熱くなり、顎に力を入れる。そうしなければ震えで奥歯が鳴る気がしたのだ。


 片割れの服を握りしめて目を閉じ続ける。そうすれば、思い返すような声が降ってきた。


「懐かしいね、こうやって寝るの」


「……中学以来かな」


「そうだよ。怖がりな涙が一人で泣いてたから」


「怖がりではない」


「怖がりだよ……怖がりで、臆病で、可愛いんだ」


 流海があの日の言葉をなぞるように話し続ける。だから私もそれに合わせて言葉を吐き、片割れがどこにもいかないように足を絡めた。消えないようにすり寄った。


 流海は私を抱きすくめて、背中の傷を労わるように撫でる。


「なんであの日、涙は泣いたのかな」


「……独りになった時を、想像したんだ」


「あぁ、そうだ。不毛な想像だよね、本当に。涙は独りになんてならないのに」


「分からないだろ、何が起こるかなんて。今がいい例だ」


 あの日のように狭いベッドで身を寄せ合う。流海はわざとらしく私の髪を撫で崩した。それもあの夜と一緒だ。流海の指が私の髪に埋まっている。


 けれども私はなみだを零さない。熱い目元は瞬きでやり過ごした。今日はもう二回も泣いたから十分だ。


 腕に力を入れて、流海の動きを封じて、それでも点滴の管にだけは気を配る。


 私は自分の中に巣食う不安を吐きたくて、あの日の言葉を利用した。


「流海が私より先に死んだら、どうすっかな……」


「簡単だよ、涙」


 そうすれば、流海はあの日と同じ言葉を繰り返す。考えも思いも変わっていないと分からせる言葉を。


 片割れは今日も、澄んだ目をしているのだろう。


「涙が死んだら――僕も死ぬ」


 言葉が染みる。


 想いが私の首を絞める。


 その心地良さに、私は全てを許された気がした。


「だって僕らは一心同体だ。半身を無くして生きられる訳がないでしょ?」


 背中を優しすぎる温度で撫でられる。


 首筋に触れた片割れの手は、私に触れることこそ当たり前だと主張するようだった。


 あぁ、もしかしたら今の流海は、笑っているのかもしれない。


 片割れは歌うように、言葉で私を貫いた。


「だから涙も、僕が死んだら――死ねばいい」


 流海の言葉が私を満たす。


 それは決して命令的な口調ではないのに、絶対だと思わせる。


 私達は死んだ先でも一緒なのだと妄想する。


 それは幸福感に似ていて、私の肩から力が抜けた。流海の温かい手は私の片耳を塞ぐ。そうすれば、マグマのように流れる血液音が私の鼓膜を犯してきた。


「大丈夫だよ、涙。僕らは一つだ。欠けて独りぼっちになることなんて無い。涙がアテナで死んだら僕も死ぬし、僕が毒に食い殺されたら涙も死ぬ。涙がアテナを生き残れば僕も生きるし、僕の体が治れば涙も生きる」


 流海の血液音と一緒に言葉も流れ込んでくる。片割れは少しだけ私の顔を上げさせ、視界には流海の鎖骨が映った。額には口が寄せられる。


「ね、簡単でしょ?」


 同意を求める流海の声。片割れの唇は私の額に触れて、頬に指先が滑り降りてきた。


 あぁ、そっか。そうだよな、そうだよ。


 私達は一つで、一人で、替えがなくて、掛け替えがない。


「――そうだな」


 私は疑いなく流海の胸に顔を寄せる。そのまま目を閉じれば、心地いい微睡みが私の頭を侵食した。


 * * *


 翌日。ワイシャツに体操服の上着を羽織って登校した私は、奇異の目を寄せられた。呼び出しを食らう前に担任と生活指導の先生に「ヤマイで事故に遭いました」と定型文を伝えておく。それだけで身だしなみなど全て免除された。複雑。


 廊下で会った十歳の柊は私の姿に息を吐き、私達は並んで窓辺に背を寄せた。


 今日の柊の声は、声変わり前なのでちょっと高い。


「体操服登校とはまた目立つことだ」


「苦肉の策と言うやつです。あ、昨日はパナケイアまで送っていただき感謝します」


「あぁ。弟も目を覚ましたんだってな。取り敢えずおめでとう」


「ありがとうございます」


「解放されてもアテナに行ってないと言うことは、弟の傍を離れなかったのか? このブラコン」


「ブラコンだとは思ってないんですけど。そうですね、昨日は流海の病室に泊まりました。なので今朝はとても良い気分で目覚められましたよ。今までに無いほど快眠です」


 昨夜のことを思い出して肩の力が抜ける。そこで柊の言葉は止まり、低い位置にある男の顔には変な皺が寄った。なんだよ。


「……一応確認するが、お前、昨日は弟の所に泊まったんだよな?」


「はい」


「病室にベッドは一つの筈だが……椅子で安眠したんだよな?」


「いえ、流海と一緒にベッドで寝ましたが」


 柊の言葉が止まる。


 彼は口を結び、首を傾け、頭を抱えて、悶絶していた。頭でも痛いのだろうか。


 私は柊を見下ろし、突如叫んだ彼に驚くのだ。


「倫理ッ!!」


 ……はぁ?


 私はその後、なぜか柊に全力でお説教されることとなった。


「いいか!? 双子と言うのは確かに誰よりも似ている感覚があるとは思うが血縁関係に変わりはなく、その距離感にも節度というものが――!!」


 ……今日の流海へのお見舞い品、何持っていこうかなぁ。

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