第75話 綯
朧と私の間に割り込んだ一人の
灰色の目は呆れたように細められる。彼の呟きは、私だけが何とか拾える声量であった。
「朧に殺されないでよって釘刺したのに、いっぱい怪我してるじゃん」
「そっちこそ、来るのが遅いですよ」
「薙刀探してたんだよ」
嘉音が薙刀を軽く振り、石突の部分を床につく。朧は眉間に皺を刻み、嘉音に対する憤りを見せた。
「お前の薙刀は没収された筈だ」
「誰かさんが嫌な報告するからでしょ。俺が任務を全うしてないとか何とか。でもまぁ今は
嘉音は悪びれなく朧に背を向け、私の首目掛けて薙刀を振る。私は即座にウォー・ハンマーを構え、甲高い金属音に鼓膜が揺れた。
嘉音の目を見る。
男の灰色は喜々として揺れ、今にも満面の笑みが咲きそうだ。
クソッ、笑うなよ。
お前が笑うと事故がくる。お前が笑ってたら視線を追えなくなる。視線が追えないと、次の一手が予想出来ないッ
薙刀とウォー・ハンマーを何度も叩きつけ、鋼の音を木霊させる。
肩も腹も足も痛いと主張したが、アドレナリンのせいで体は動いた。人間の体は難儀だな。
大きな刃が鋭く突き出され、私のペストマスクを掠めていく。顔の横を通過した刃は即座に向きを変え、真横に動く前兆が見えた。
足に鞭打って膝を曲げる。薙刀は私の頭上を真一文字に切り裂き、嘉音の手は再び刃の向きを変えた。
リングダガーの比ではない。嘉音にとって薙刀はまるで手足の如く向きを変え、速度を上げ、迷いなく私に向かって叩き込まれようとした。
駄目だ、これは距離を詰めないと分が悪い。
薙刀もウォー・ハンマーも中距離武器。上手く私が刃を殴れば折れる可能性もあるが、嘉音もそれは分かっているのだろう。男は刃の向きを素早く変えて、私の鈍器の威力を相殺するばかりだ。
体に振りをつけてハンマーを叩きつけようとする。体重もかけて薙刀の柄を叩き折ろうとしたが、嘉音は寸での所で武器を動かした。
薙刀を手前に引き、再び弾丸のような突きが迫る。
私の額を穿つ勢いの刃は後退しても間に合わない。横に躱しても直ぐに刃の向きを変えられるだけだ。私がどう躱そうとも相手の有利に変わりない。
だから私は両手でウォー・ハンマーを回す。ペストマスクの嘴に触れかけた刃を見つめて、薙刀の柄を真横から殴る為に。
ハンマーは重く薙刀の柄を叩き、刃の軌道を無理やり変えさせた。微かにペストマスクを引っ掻かれたが問題ない。私は嘉音を凝視し、一気に懐まで距離を詰めた。
鞘から抜いたナイフを握り締める。
致命傷を狙うなら、腹より喉。
決めて、見つめて、私は嘉音の首に刃を向けた。
「流石、涙」
嘉音の弾むような声がする。
突き出した私の腕には、男の裏拳による強打が決められた。ナイフは嘉音の黒髪を数本切り落としただけであり、逆に私の手に強い痺れが駆け抜ける。
私は嘉音の表情を予測して声を荒げてしまった。
「笑うな、嘉音ッ」
今ヤマイを発症させたら本当に動けなくなる。こっちは今の状態だって手一杯だって言うのに、これ以上傷を増やしたら何も成し遂げられない。
嘉音の顔を見ないように、相手の一挙手一投足から動きを予測する。観察して、見つめて、凝視して、判断して。
そうすれば、嫌でも嘉音の強さが目についた。
コイツ、いつもはリングダガーで最小の動きしかしない癖に。そのせいで今とのギャップが大きい。しかも最後に薙刀を使っていた時よりも動きが早くなってる。違う、迷いが無くなってるのか。
雑念が無い。だからこそ鋭い。
こっちは息切れしてるのに、間を詰めたら詰めたで拳や蹴りが飛んでくる。中距離で体力削った後に近距離で殴るのが上手い。ムカつくけど、吐き気がするほどムカつくけど。
朧が複数武器を使って削ってくる策士タイプなら、嘉音は武器と体術で押してくる技術タイプ。なんでこんな手練れ共を私は相手しないといけないんだよクソがッ
一瞬の隙をつかれ、鳩尾に手掌の殴打が入る。私は気持ち悪さに冷や汗をかき、数秒固まった間に投げ飛ばされた。
前面が上、両足離れた、床は近い。
視界には、真白の天井と螺旋階段が広がった。
その景色を両断するように薙刀が叩き落とされる。私は咄嗟にハンマーを構え、持ち手で刃を受け止めた。
背中から勢いよく床に叩きつけられる。肺に強い衝撃が走り、口から一気に空気が抜けた。両手はウォー・ハンマーと共に痺れており、嘉音は薙刀の握り方を変える。
槍を投げるような持ち方。切っ先はペストマスクの額に向いており、私の体から血の気が引いた。
反射で体を横に転がし、顔が合った場所には薙刀が刺さる。私は躱した勢いのまま起き上がり、ハンマーの斧部が嘉音に向くよう持ち替えた。
私の武器はウォー・ハンマー。
平面の殴る面とは反対側に、尖った斧部がついた鈍器。
叩くだけでなく刺す。潰すだけでなく穿つ。
私は尖った斧部で嘉音の左前腕部を抉り、男は呻き声を噛み締めていた。
同時に私のこめかみに回し蹴りが入れられる。ペストマスクが軋む音が響き、私の重心は崩れてしまった。
嘉音の左手は動いてない。痺れて動かせないだろ。
思うのに、嘉音は右手だけで薙刀を回して振るうから。
私は床を踏みしめて倒れることを拒み、鞘からナイフを抜こうとした。
そんな私達の間に飛び込んで来たのは、銃を構えていた筈の朧だ。
男はナイフで薙刀を受け止めて弾き返す。嘉音の空気は一瞬にして重くなり、私は後方へ距離を取った。
先程とは反対の立ち位置。朧が私に背中を向ける。
嘉音は朧に薙刀を向け、その顔は不服そうに歪んでいた。
「引っ込んでてよ、朧。俺は涙と戦いたいんだ」
「お前が退け。このヤマイは俺が殺す」
空気が目に見えて張り詰める。触れた瞬間に爆発しそうな雰囲気に私は息を吐き、二人が私に向けるベクトルを考えた。
嘉音は自分の手で私の息の根を止めたい。己の歪んだヤマイ像を正す為に私と取引して、最後は「汚いね」って叩き潰すことを望んでる。
朧は私と流海を揃えて、自分の中から私達を消し去りたい。そうすれば、汚れた自分は綺麗な
私にとって嘉音は情報のやり取りをする相手で、朧はいつかアレスの空気を吸わせて苦しめると決めた相手。
そんな三人が集まった結果。嘉音にとって朧は邪魔。朧にとっても嘉音は邪魔。私にとっては二人とも邪魔。
……なんだ、この、泥沼に劇薬投与したみたいな状況。誰だこんな三角関係作ったの。最悪でしかない。
私は呼吸を整えて、睨み合う朧と嘉音は無視することにした。勝手にやってろ屑共。私は薬を持って流海の所に帰るんだ。
私は一度深呼吸をし、意を決して枝の扉へ駆ける。そうすれば嘉音が素早く薙刀を投擲し、朧が銃を構えた。
体勢を低くし、背後では薙刀に銃弾が当たる音を聞く。お陰で逸れた刃は床を滑り、私は枝の扉を開けることが出来た。
番号〈六十〉番台。
近い、隣、次、扉ッ
胸を高鳴らせた私の上着が掴まれる。鋭い目をした朧によって。
私は強く男に向かって引き寄せられた。そんな男の手をリングダガーで斬ろうとしたのは嘉音だ。
朧が私を離し、嘉音の動きが視界に入る。私はハンマーでリングダガーを弾き、嘉音は鋭い前蹴りを繰り出した。
その足を真横から蹴り止めたのは朧だから、反吐が出そうになる。
「お、ぼろッ! 邪魔ッ」
「ッ、退け! 嘉音!」
「どっちの相手もする気ないんですよッ、鳥頭共!!」
「「黙れヤマイ!」」
んなところで声揃えてんじゃねよ砕くぞッ!!
ウォー・ハンマーで殴れば薙刀で受け止められた。
首に銃口が向けられたと思ったら、リングダガーを持った手が殴り飛ばしてくれた。
青刃と青刃がぶつかり合えば、薙刀を突き入れられた。
そんな薙刀の切っ先を蹴り飛ばすのは白い軍靴だしッ
動きが重なり続け、金属音がしない時間がない。
二対一というよりも一対一対一の状況に苛立ちが湧いてくる。
嘉音に意識を向ければ朧に撃たれかけるし、朧に殴りかかれば嘉音には斬りかかられるし。二人はお互いの邪魔をしているが、私を捕まえることも忘れてないご様子だ。
恐らくここで負けるのは、最初に集中が切れた奴。
思った時、嘉音の蹴りが左足に入って意識が一瞬止まる。
私の背中が微かに丸まり、朧がナイフを振り下ろす動作をした。
初動が遅れた。これは刺される。どこだ、項、背中、この軌道だともう一度肩かッ
息を止めた時、私の視界に金の装飾がついた軍服が覆い被さってくる。
飛んだのは私の血ではなく、私の肩と朧のナイフの間に入った嘉音の腕だ。
「あ゛ー……いったぁ……」
「な、ッ」
青ざめた朧は必要以上に後退する。私は長く息を吐き、嘉音の血がついた
「嘉音、一応聞きますけど何してるんですか」
「いや、俺も正直よく分かってない」
「へぇ」
「涙が俺以外に傷つけられるのは癪だなって思ったのかな……あと、怪我してる涙と戦うなら俺も手傷増やした方が公平だろうって考えたんだと思う」
「そうですか」
生返事をして、乱れていた呼吸を整える。
感謝はしないよ。お前に「ありがとう」は不必要だろ。
嘉音は腕に刺さったナイフを握り、私は即座に駆け出した。嘉音に「ちょっと!」と怒られたが気にしてなるものか。
ナイフを抜いた嘉音を視界の外に追いやり、枝に入って番号を確認する。始まりは〈六十六〉から。なら、この隣は!
全速力で隣の枝の扉に辿り着く。開け放った先には〈七十〉から始まる扉が並んでおり、私の心臓が高鳴った。
来た、来た、来た来た来たここだ!! ここに薬があるんだッ!
一足早い歓喜に体が震える。思わず笑ってしまった私は、廊下に踏み入ろうと足を出した。
瞬間、上着の裾を貫通した刃がある。
あまりの衝撃に、私は前のめりに転倒した。倒れた際にウォー・ハンマーが手を離れ、上着のポケットからは砂時計が転がっていく。
あぁ、気を抜くなよ、馬鹿か私は。
奥歯を噛み締めて、無様に倒れた自分を叱責する。黒い砂時計は白い廊下を転がり、私は手を握り締めた。
目の前にある。流海の為になる物がこの先にある。あるのに、なんで私は倒れたんだよ。どうしていつも一歩足りないんだよ! 馬鹿が、無能が、しっかりしろッ
苛立ちながら上着の裾を確認すれば、そこには薙刀が刺さっていた。この長物を槍のように使う男など一人しかいない。
「簡単にあげないって」
「ッ、性悪男が」
「害悪に言われたくないな」
嘉音が私を見下ろしている。私は早く廊下に入りたくて、上着を破こうと力を入れた。その手は嘉音に踏みつけられて、骨が軋んだ感覚がする。
リングダガーを握った嘉音は、独り言のように語りかけてきた。
「涙は理性を捨てても戻ってくるからなぁ……やっぱり、俺が直接トドメ刺したいな」
「最後に見るのが嘉音の顔とか、死んでも死にきれませんね」
「あぁそっか、そうなるのか……そっかそっか」
嘉音の口角が動き、私は視線をリングダガーに向ける。男は私を見下ろして、階下の騒がしさが耳についた。
「涙が最期に見るの、俺になるのか」
「脳裏に浮かべるのは流海ですけど」
「それでも、涙の最期を作るのは俺でしょ」
嘉音が私の手を踏みにじる。私の眉間には皺が寄り、嘉音は嫌に納得した声を吐いた。
「……良いな、それ」
「……は?」
「涙の最期が俺になるってさ、良いと思うんだよね」
言葉の意味を汲み取れず、視線を上げて嘉音の顔を見る。嘉音は真顔で私を見下ろし、リングダガーを揺らしていた。
「良いなぁ、うん、凄く良いから、涙の最期は俺に頂戴ね」
「貴方にあげられるものなんてありませんよ」
「いいよ、勝手に貰うから」
固く握ったリングダガーを嘉音が振り被る。その軌道は私の腹部を狙うと分かり、私は直ぐにナイフを構えた。
嘉音のリングダガーを弾き返す。男の顔には喜色が浮かび、私は刃の先だけを追い続けた。
嘉音は再びダガーに勢いをつける。
次はどこを狙うのかと刃を凝視していれば、その刃が火花を発した。嘉音は目を見開き、リングダガーが真横へ吹き飛ばされる。
私の鼓膜は微かに耳鳴りを起こし、木霊した発砲音の元に視線を投げた。
立っているのは、拳銃を構えた朧。
嘉音の返り血で染まった男は、視線を定められていなかった。
「朧さぁ……痛いんだけど」
「……嘉音、悪い、俺は、おれは」
過呼吸を起こしそうな朧がそこに居る。
グラグラと、男の足元が揺れる音が聞こえた気がした。
今にも崩れそうで、道を間違えそうで、進めなくなった
あぁ、哀れだな、朧。
たった二人のヤマイに翻弄されるお前は、繊細過ぎる。純粋過ぎる。だから小さな亀裂から、汚れから、目を逸らせなくて。
嘉音に「裏切り者だ」って呼ばれるんだよ。
「正直になりなよ、朧」
嘉音が薙刀を抜いた。
手を踏んだままの男は長い刃を私の首に添え、酷く満たされた声で告げるのだ。
「俺は今、楽しいよ」
薙刀が喉を切らない圧で滑り、鎖骨の間で止まる。嘉音は灰色の目をこちらに向けて、私は直感的に笑われると感じた。
だから視線を朧に戻せば、そこでは目を見開く
「……たの、しいって、」
「戦うのが楽しいんだよ、この子と。ね、涙」
「いや、私は楽しくないです」
「そこは合わせてよ」
嘉音が薙刀の切っ先で鎖骨を叩いてくる。
私は嘉音の言葉を思い出し、笑っているであろう相手の顔は見なかった。
――理性を捨てても戻って来た君を、俺は殺したくて堪らないのに。戻った君を見た時、俺は最初に何と思った? まだ戦えると思ったんだ。まだ話が出来るってッ
……馬鹿だなぁ、嘉音。
哀れな朧と同等に、お前は無垢で、滑稽だ。
私はため息を我慢できない。
朧は口を結んで銃口を揺らしている。
一定を保っていた道が大きくねじ曲がろうとするような、適温が一気に沸騰するような、一種の危うさを孕んだ顔。
呼吸が荒くなる朧に呼応するように階下の騒がしさは大きくなる。
大きくなって、大きくなって、大きくなって。
私は一人の白を見た。
嘉音や朧とは違う白。
私と同じ、全身白ずくめのペストマスク。
私は思わず目を見開き、その手に持たれた武器に胸が締め付けられた。
あぁ――嘘つき。
「朧!!」
嘉音の声に朧が反応する。
振り返った朧の足を貫いたのは、太いクロスボウの矢だから。
私は、居る筈のない片割れを呼んだ。
「――流海?」
嘉音が薙刀を朧達の方へ向ける。
クロスボウを持ったペストマスク――流海は、体勢の崩れた朧の襟を掴み、嘉音は奥歯を噛んでいた。
流海が朧の銃を奪い、嘉音に向かって発砲する。
銃弾は嘉音の太腿を貫通し、流海は突き放した朧をクロスボウで殴打した。
二人の
状況が呑み込めていない私を流海は抱えて、廊下に飛び込んでくれた。
私の視界は無性に滲んで、荒くなった片割れの呼吸に胸が苦しくなる。
あぁ、なんで、なんでだ、なんでだよ……。
「なに、してるんだよ……片割れ君」
イヤホンを繋いで問いかける。
呼吸の整わない片割れは、震えた腕で私を抱き締めてくれた。
「それは、こっちの台詞、でしょ……片割れちゃん」
流海の嘴が私のペストマスクに触れる。
深く息を吐いた片割れは、私の頭を胸に埋めさせた。
急いで来たと分かる心音が聞こえる。破裂しそうな鼓動がする。
私は流海の上着に縋りつき、固く目を瞑ってしまった。
「内緒でアテナに来たのは、謝るよ、涙……でも、αの果樹園から急に
咎めるような流海の声に何も返せなくなる。
私は唇を噛み、床を蹴った音に顔を上げた。
薙刀を持った嘉音が飛び掛かってくる。
反射的に私は立ち上がりかけ、それより早く流海が後ろを向いた。
片割れは転がっていたウォー・ハンマーを掴んで真横に振り切る。
薙刀を弾いた鈍器に嘉音は顔を歪め、流海は相手の顔を見ていないと伝わった。
流海がウォー・ハンマーを投げ渡してくる。クロスボウを構えた片割れは、私の隣に並んでくれた。
「何をしてるのかも知らないし、どうしてここにいるのかも知らないけど……大好きだよ、片割れちゃん。だから今は一緒に戦わせて。僕に指示を頂戴。僕にも同じ、傷を頂戴」
滲んだ視界が決壊する。
私は流れた雫を拭えないまま、握り直したウォー・ハンマーを構えてみせた。
「あぁ、分かった、分かったから……大好きだよ、片割れ君」
だから今は、喧嘩も、話し合いも、告白も、後にしよう。
全部全部後にして。いつかのように二人で並び立って。
今は、明日の可能性を掴みに行こう。
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