第55話 黙

 

「猫先生、柘榴先生……顔が格好いいことになってますね」


「まぁな」


「涙と流海には負けるけどね」


 嘉音達が現れた翌日。精密検査を終えた私の元には、顔に絆創膏等々を貼り付けた猫先生と柘榴先生がやって来た。


 猫先生は肩を脱力させながら壁にもたれ、柘榴先生はベッド脇の椅子に座る。二人の目の下には隈があり、私は繋がるメディシンを横目に見た。


「昨日はよく暴れてたらしいですね。驚きです」


「当たり前だろう。パナケイアにアテナの戦闘員が来たのに、俺達大人は隠れてるだけなんて、おかしすぎる」


実働部隊ワイルドハントや補助員の子達に任せるのも、ヤマイにだけ背負わせるのも、私達は反対だからね」


「それはパナケイアでは少数意見のようですが」


「その結果がこのザマさ」


 猫先生は頬に貼った白い絆創膏に触れる。柘榴先生は無意識に左腕を摩る様子を見せたから、鎮静剤でも打たれたのかと予想した。


「流石に抑制部署の面子に対して、俺達二人では太刀打ちできなかったな」


「ほんとに容赦がない……猫柳に上司の権限や信頼と言うのはないのかい?」


「まぁ、俺の立場的にはどうしても……なぁ?」


 柘榴先生の拳が猫先生の脇腹を殴る。殴られた彼は顔色一つ変えずに首を横に振るだけで、殴った彼女の方が手は痛そうだ。


 言葉を濁した猫先生は、柘榴先生に察することを視線で訴える。受信したであろう彼女は足を組み、不貞腐れた息を吐いた。


「……猫先生って、何か特殊な昇進の仕方でもしたんですか? ていうか、位が結構上の人だったり?」


「あぁ、まぁ……そう言えば涙にも流海にも、仕事の詳しい話はしてこなかったな」


実働部隊ワイルドハントに入る前は企業秘密のことが多そうでしたし、入ったら入ったで永遠とすれ違ってたので」


 素直に答えれば、何故だか頭を撫でられる。大きく分厚い手はマメが多く、滲む温かさに目を伏せてしまった。


 そこで響くのは扉をノックする音。猫先生は脇に置いていた薄いペストマスクを被り、柘榴先生も狐面をつける。私はその様子を見つめ、入って来たのは流海だった。


 飲み物を抱えた片割れは、私の元に急ぎ足で飛び込んでくる。


 膝に向かってダイブし、ベッドを軋ませた片割れに私は笑いを我慢できなかった。


「涙が起きてる……」


「起きてる起きてる。ホットココアありがと」


「んーん」


 笑いながら流海の頬を挟み、遊んでしまう。そうすれば片割れの眉間に刻まれていた皺はほぐれていき、私の体は温かくなった。


 片割れから缶のホットココアを受け取る。猫先生は流海の頭を軽く撫でていた。


「流海、涙の傷に響くから」


「……はぁい」


 渋々といった雰囲気で流海がベッドに座り直す。私は手の中でココアを弄び、口角を上げたまま流海に問いかけた。


「流海は聞いたことあったか? 猫先生のキャリア」


「猫先生の……? ううん、聞いたことない」


「そっか、私も」


 片割れと目を合わせた後、猫先生に視線を移す。彼は居心地悪そうに後頭部を触り、狐面の柘榴先生は肩を揺らしていた。


「隠す事でもないだろうよ」


「……そうだが」


「猫先生、」


「もしかして、」


「「裏口入学的な?」」


「合法だ、合法でここにいる」


 降参するように軽く両手を挙げ、猫先生は首を横に振る。ココアで掌を温め続ける私は、少しくぐもった猫先生の声を拾った。


「……俺は、元々実働部隊ワイルドハントのメンバーだったんだ」


 猫先生は流海の頭に手を置く。片割れの目は少しだけ見開かれ、私はココアの缶で遊ぶのを止めた。


「涙と流海を引き取った頃はまだ実働部隊ワイルドハントに所属してたな」


「「……知らなかった」」


「言ってないからな」


 腕を組んだ猫先生は、マスクの下で苦笑している気がした。それは私の錯覚かもしれないが。


 柘榴先生は狐面を傾かせ、白衣のポケットに両手を入れる。


「猫柳は実働部隊ワイルドハント兼、補助員もしていたからね。忙しい身分だっただろうよ」


「他人事みたいに言ってるが、霧崎も補助員と研究員を両立していただろ?」


「ヘルスの私が補助員をしていたのはヤマイを近くで見たいと駄々をこねた結果だ。あんなのは補助員とは言わないね。桜以外の道具室担当と一緒さ」


「あぁ……あの子達は補助員じゃなく、将来の研究員候補達だったか?」


「そうだよ。道具室だけを担当する子達だ。あの子達は昔の私のように「走らない、叫ばない、戦わない」を心情にやっているからね。私は悪い先駆者だよ」


「候補達がどうなるかは知らないが、今の霧崎は立派な研究者だよ」


「君も立派な抑制部署長だろう?」


「名ばかりさ」


 お互いを小突き合う先生達。気の置けないやり取りをする二人は、一体いつからの付き合いなのか。流海が私の肩に凭れてきた為、私は片割れの頭を撫でていた。


 柘榴先生は私達に気づいたようで、「あぁ、悪いね」と話を戻してくれた。その声は今まで話してきた中でも一番気が抜けている気がする。


「猫柳は実働部隊ワイルドハントを脱退した後、それまでの働きや戦闘経験、対応力を見込まれて抑制部署に所属したんだ。ヤマイとしては初めてのね」


「スカウトされたってことですか?」


「いや、俺がパナケイアを離れたくなかったから、自分を押し売りしたんだ」


「どうしてパナケイアに……?」


 流海と一緒に首を傾けてしまう。そうすれば猫先生は、小さい子を相手にするように額を撫でてきた。大きな親指の腹は少しだけ乾燥気味だ。


「涙と流海が定期健診を受けたりする時、出来る限り近くにいたかったんだよ」


 少しだけ、息が止まる。


 猫先生の顔は見えないが、その感情は先生以上なのではないかと勘繰かんぐってしまって。


 私と流海は視線だけを合わせて、すぐに先生達を見上げた。


 柘榴先生は思い出したように狐面を触り、呆れた声を猫先生に投げている。


「そう言えば、自分のプレゼン方法を教えてくれって真夜中にパソコン持ってきたね、君」


「あれは本当にすまなかった、そして助かった」


「構わないさ。私も一人パナケイアに残るより、君がいると思っていた方が気が楽だ。話しの分かる相手がいるのだからね」


「俺もだよ」


 軽く肩を叩き合ってる先生達。そのやりとりは十年来の友人らしい気軽さがあり、けれども情が見えることはなかった。


 二人に両親の姿が重ねって見える。それは一瞬の錯覚であるのに、私の胸を締め付けた。


 今なら聞けるだろうか。今ならば、二人に確認できるだろうか。


 どうして私と流海を引き取ったのか、どうして保護者になってくれたのか。


 少しだけ熱さの引いたココアの缶を握り締める。流海は静かに私の手の甲を撫でてくれたから、私は片割れに微笑みかけた。


 黒い瞳は私の問いを分かっている。しかし同時に言っている。聞いて何になるのだ、と。


 私は今の関係を壊したいわけではない。私や流海のヤマイに先生達を巻き込むことに恐怖を感じているのは変わらないし、先生と生徒の関係が私達であると分かっている。頭はきちんと理解している。


 追いつけていないのは、心の方だ。


 夢に見てしまった想いが沸き上がる。幼い私が猫先生と柘榴先生に願っていた役割を、押し付けたかった役割を、二人は最初から考えていなかった。


 教卓を挟んだ先生と、机に座った生徒の関係。それが私達になるのだと、幼いあの日に理解しただろうに。


 雪解けのような優しい夢が、私を弱くふやかしていく。


 私はぬくもった手で流海の手を握り、片割れも固く握り返してくれた。


「猫先生はどうして実働部隊ワイルドハントを抜けたの?」


 私より先に流海が問う。私が浮かべていたのとは違う質問を口にする。


 猫先生は暫し煮え切らない言葉を零し、流海の額を柔く撫でた。


「……マッキになったからだよ、三回も」


 また、心臓が痛くなる。


 痛く、強く、脈打ってしまう。


 私はペストマスクをつけた猫先生を見つめて、白い鳥の顔は傾いた。


実働部隊ワイルドハントを抜ける理由なんて、大概そうさ。マッキになって、後が無くなったから辞めていく。自信がなくなって、化け物に成り果てて殺される恐怖に負けてしまう。俺もその一人だよ」


「猫先生」


「涙」


 色々なことを問いたくなる。けれども先生が名前を呼ぶから、私は口を結んでしまった。


「……訳が分からないよな、マッキになった時は。本当に、全部どうでもよくなって、全部、全部……壊したくないのに壊れていく」


 分厚い手が私の額を撫でくれる。


 柘榴先生は癖のように横腹を摩っていると、私も流海も見逃さなかった。


 離れていった猫先生の手は、何も壊せないくらい優しいのに。


 多くの質問を飲み込んで、今一番聞きたいことだけを選んでいく。聞かなければいけないと思った言葉を口にする。


「猫先生は……実働部隊ワイルドハントを止めたら、マッキにならなくなったんですか?」


「あぁ、不思議なことに。他の元メンバーもそうだったな。そこの所を、研究者様はどうお考えなんだ?」


「マッキになるには心因性のストレスが大いに影響していると考えてるよ。しかし、ヤマイ同様マッキもまだまだ研究段階、この程度の説明しか出来ないことが歯痒いね」


「だ、そうだ」


 肩を竦めた猫先生の隣で、柘榴先生は深いため息を吐いている。


 私はその様子を見つめて、今まで当たり前だと感じていたことに違和感を抱いた。


 ――実働部隊ワイルドハントに所属しているのは十代から二十代が主であり、比較的年齢が近い者が一緒に行動することが多いのだとか。


 第四十四支部の実働部隊ワイルドハントはほぼ十代。皇は大学生で二十代かもしれないが、私達とそこまで年齢が離れているようには見受けられない。


 それはどうして。異世界からやって来る戦闘員の相手を学生にさせる意味はなんだ。


 いや違う。学生にさせているのではなく、年齢が上がるにつれて実働部隊ワイルドハントを脱退する率が上がっているのではないか?


 私の鳩尾に不安が滲む。流海の手を握り締めて、片割れが離れて行かないように強く願って。


 そうすれば、流海は私の腰に腕を回してくれた。


 流海の行為によって、私は質問する為の安定を得ることが出来る。


「猫先生、柘榴先生……マッキになっても鎮静されない例とかは、あるんですか?」


 いつも通りの平静を繕って、問いかける。


 先生達は面をつけた顔を見合わせると、沈黙を挟んで答えてくれた。


「……実働部隊ワイルドハントも努力はしている。それでもやはり、手の届かない場所はあるんだ」


「パナケイアの情報網も万能でなければ、実働部隊ワイルドハントも最強と言うわけではないし、年中人員不足であることは否めない。それに伴って、救えない範囲、間に合わなかった事例は、鎮静できた例以上に多いだろうね」


 猫先生も柘榴先生も正直だった。嘘偽りのない回答をオブラートで何重にも包んで、私の前に置いてくれる。


「……涙?」


 流海の声を拾いながら、私の中で嫌なパズルが作られていった。


 ――君は理性を捨てても戻って来た


 嘉音、お前達は……。


 ……確信を得る為にはまだピースが足りない。私のパズルは一部しか完成していない。


 私は流海の体に腕を回し、肩口に額を寄せた。


「……そんな状況でも、猫先生や私が救われて良かったと、思ってしまったよ」


 嘘ではない言葉で答える。本心を見せ切っていない返事をする。


 そうすれば柘榴先生と猫先生は、泣きたくなるほど優しく頭を撫でてくれた。


 流海の手に力が入る。


 私は片割れの体を抱き締めて、先生達が仕事に戻るアラームを聞いていた。


 * * *


「それで、涙は何を隠してるの?」


 先生達が仕事に戻った後、二人きりの病室で流海に問われる。


 私はココアのプルタブを開けて、目をより深く細めてみた。


「何のことかな」


「……読み切れないんだ、涙と離れてた時間がありすぎて。涙が今なにを抱えてるのか、僕は上手く読めない」


 流海の手の中でココアの缶が握り締められる。空だったならば潰れそうな勢いを見つつ、私は首を横に振った。


「今はまだ言えない。これは私の仮定だから」


「涙」


「流海こそ、何を隠してる?」


 問い詰められる前に問い返す。そうすれば流海の白くなっていた指関節から力が抜けて、片割れが


 物理的な距離ではなく、精神的な距離。見ているだけで汲み取れる。今、流海は隠すための境界線を引いたのだと。


 表情も姿勢も変わっていない。それはそうだ、この子は隠すことが十八番おはこなのだから。


 何を隠したかまでは悟れない。それでも、隠し事があることだけは分かってしまった。


「何のことかな」


 私が気づかれていると流海も気づいて、同じ言葉を並べる。


 あぁ、流海、私達はいつからこんなに、距離を作ってしまったんだろう。


 もの悲しさに胸の中を支配される。開けたココアを飲めないまま、手の届く距離にいる片割れを酷く恋しく思って。


「大好きだよ、流海」


 泣きそうな声だったと、自分でも分かる。


 今にも潰れそうな声だったと自覚する。


 目を見開いた流海は椅子に缶を置き、言葉を挟む暇もなく、私を両腕に閉じ込めた。


 私も缶をサイドテーブルに置いて流海を抱き締め返す。自分の不安を埋めるように抱き縋る。


「僕も涙が好き、大好きだよ」


 それは私達を繋ぐ呪いの言葉。


 倫理も摂理も無視した双子の戯言。


 それでもいいから、私達を普通の枠に入れなくていいから、私達はとうの昔に外れてしまっているから。


 流海の唇が私の額に触れる。何度も雨のように降ってくる口づけは、私に愛おしさを伝えてくれた。


 私は片割れの顔を両手で手繰り寄せる。頬に寄せられた口づけに応えるように、私も流海の耳に唇を触れさせた。


 私の服を握り締めた流海は、ゆっくりと胸に顔を埋める。祈るように、崇拝するように、まるで十字架にこうべを垂れる信徒のように。


 だから私も、流海の頭を抱き締めた。


 くぐもった片割れの声は私の不安を払拭する為に紡がれる。


「涙は何も心配しなくていいよ、大丈夫、大丈夫だから」


「あぁ、分かった、分かったから……流海も、心配しないで」


「……分かった」


 顔を上げた流海に微笑んで、鼻先に唇を寄せる。そうすれば流海は私の口を追うように顔を上げた。


 あぁ、それは駄目だ。それだけは駄目だと、知ってるよ。


 流海が顔の角度を変えるから、私は口の前に手を差し込んだ。


 掌に流海の唇が当たる。


 片割れは壁となった私の手を退かす。


 笑って黒い瞳を見つめれば、ただそれだけで分かってくれた。


 流海は握り締めた手の甲にキスをする。


 信徒から騎士になったように。言葉なくして愛しさを伝えてくる。


 私も流海の手の甲に口づけを返し、二人揃って無言の懺悔をした。


 互いに隠し事をすることを。隠し事があると分かっていながら追求しないことを。秘密を共有しなかったことを。


 私は流海の手を握り締めて、冷めてしまったココアの缶を横目に見ていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る