第74話 泥
――救急車呼びますか? 放っておきましょうか?
夕暮れの路地裏で、私と流海は都市伝説と出会った。
――手当しますか? 不要ですか?
屋上の縁を掴み、必死に生きようとする鳥頭を見た。
――水を買ってきましょうか? 止血をしますか?
私と流海が作ったクッションに沈み、運よく生き残った男がいた。
――意識はありますよね。助かりたいのか死にたいのか、意思表示してくれます?
苛立ちながら問えば、ペストマスクは人の足首を掴んで意思を示した。
だから私も流海も手当てをした。救急車も知らないお前に包帯を巻いた。
ナイフを落としたから家に連れ帰った。その刃に、私達を化け物にする薬が塗られていたとも知らずにさ。
馬鹿だったなって思う。下手な慈悲が今を狂わせたんだって。
――おいおいおいおい、余計なことしてんじゃねぇぞお嬢さん
私達は、皇の言葉を聞くべきだった。
――ほんとによぉ……絶好のチャンスなんだから邪魔すんな。大人しくしてろよ
あの時、皇にお前を渡していれば。
あの瞬間、選択を間違えなければ。
流海は、流海は、流海はッ
――災いたる……ヤマイの、者はみな――死なねば、ならない
消えた流海に心臓が凍り付いた。
視界が滲んで嗚咽を吐いた。
あの日から私は後悔ばかりだ。
あの日、お前を助けたのは間違いだった。
奥歯を噛み締めた私は、朧にウォー・ハンマーを叩きつけた。
朧は青刃のナイフでハンマーを受け流し、鋭い回し蹴りが視界に映った。
私は着地と同時に膝を曲げてウォー・ハンマーを手前に戻す。左脇腹と足首に引き攣る痛みが響いたが、息を止めて耐え抜いた。
相手は片足主軸。蹴りを入れた足は私の頭上。ナイフは引かれてる。私の方が一手速く動ける。
見極めた瞬間に背中が鳥肌を立てる。
私は思考よりも反射を信じて床を横へ転がり、回し蹴りから踵落としへ変更された男の足を視認した。
床に叩き込まれた踵を中心に亀裂が入る。あれを背中に叩き込まれていれば骨は砕けていただろ。
上がった踵に刃を見る。ナイフと同じ青刃は小さく、靴に隠されていた物だと判断できた。
顔を動かさず、マスクから見える範囲に視線を走らせる。あるのは医療器具に見える物が置かれた白い棚の数々だ。
棚の森を縫って枝へ行く経路を思い描く。一つでも枝の部屋番号を知ることが出来れば〈七十二〉と〈七十五〉の位置も予想出来る、からッ
走り出そうとした途端、一番近い棚に銃弾が撃ち込まれる。見ればヘッドフォンを付けた朧が銃を構えており、銃口は素早く斜め下に向いた。
ッ、足ッ!
脊髄反射で踏み出した足を下げる。響いた発砲音に冷や汗をかき、足があった場所にめり込む弾丸を理解して。
駄目だ、躱すだけで動作を止めるな。
私は両手でウォー・ハンマーを回して勢いをつける。重心後ろ、だったら体もそのまま回せッ
下げた足を軸に体を回し、体重をかけ、朧に向かって踏み込む。
男は銃を仕舞ってナイフを構え、一気に間合いを詰めてきた。
理由は知らないが、この男は最低限しか銃を使わない。それを好都合だと言い聞かせ、私はハンマーを振り抜いた。
甲高い金属音が木霊する。青刃のナイフは朧の手を離れて宙を舞い、それでも私は殴ることを止めなかった。
ハンマーを手の中で回して次打を放つ。慣れ親しんだ動作は、バトンを回すよりも容易かった。
朧の太腿に向かって鈍器を振る。しかし男は既に二本目のナイフを抜いており、こちらへ大きく踏み込んでいた。
速い、判断、ナイフ、持ち手。
朧はハンマーの頭よりも内側、持ち手に対してナイフの青刃を添わせ、一気に私の手を狙ってきた。
指、切り落とされる。
刀のような
火花を散らせながら刃が迫る。朧が近づく。
私は肺一杯に空気を吸い、
舌打ちした朧はハンマーの持ち手をナイフで滑り切り、私は斜めに床を蹴る。
朧のナイフを躱し、前方に片手だけで側転する。落ちかけたハンマーを空いた片手で掴めたのはほぼ奇跡だ。流海との体幹訓練が役立ってる。鍛えた反射神経に拍手喝采ッ
着地した時、私の心臓は爆発するのではないかと思うほど早鐘を刻んでいた。
休む暇なく朧から距離を取る。男はすぐさま拳銃を構え、私は鞘からナイフを抜いた。
男が持つ物と同じ青刃のナイフ。
目を見開いた朧の銃口はどこを狙う。
確実に殺すなら頭、胸、肺、喉、額――違う。
私は朧の行動を脳内で反芻し、腹部の前に横にしたナイフを構えた。
発砲音と同時に衝撃を受けて足が若干後ろへ滑る。青刃には銃弾が埋まっており、握る右手は痺れていた。
やっぱりそうだ。
コイツ――急所を外してやがる。
なんでだ、朧は何を考えてる。
初めてアテナで会った時はβの袋を撃ち抜かれた。でも、朧の腕なら頭や心臓を撃ち抜けただろ。あの時ほど私が無防備だったことは無い。
次にアテナで会った時は頭を狙われた。こちらも集中していたから対応できた時だ。殺し合いが始まる瀬戸際だったが、流海も一緒に居たから覚悟はできていた。
三度目、アレスの屋上で出会った時。朧は嘉音達にヤマイを殺せと発した。私に銃口を向けていた。それでも、あの時私は思ったんだ。
――拳銃を構えたペストマスクは、それでも引き金を引かなかった。
――それは一体、何に対する
あの時、目の前の男は躊躇したんだ。
魔法で騙し騙し動く私を仕留めることだって出来ただろうに。
朧は血を流す仲間に殺せと命令するのに、自分では引き金を引かなかった。
違いは何だ。
コイツが私を殺そうとする時と、躊躇する時には何の差異がある。
私は床を踏みしめて棚の陰に入る。朧は私の肩や棚を狙うが、やはり頭は狙わなかった。
それを良いことに、私は一番近くにある枝の扉を開ける。
中は湾曲した廊下になっており、両側に扉が幾つか並列していた。
一番手前の扉番号は〈四十〉
私はそれを確認して部屋数を目視し、この枝ではないと奥歯を噛んだ。
一つの枝に扉の数は六つ。それより奥には色の違う扉が存在し、その先は第四層である葉だと分かった。
でも、ここが四十番であるならばこの階に七十番台がある可能性もある。無くてもワンフロア上だろ。他の枝も見ろ。時間は迫るだけだ。
「お前は何故、
考えを巡らせていれば、背後に迫った殺気に鳥肌を立つ。
私はハンマーを回して朧を牽制し、素早く距離を取った。
朧はナイフを握って間合いを無くし、私はハンマーの持ち手で刃を受け止める。
腕力では敵わない。だからウォー・ハンマーの得意とする距離を取ろうと後ろへ跳び、朧の手に集中した。
すると男は先程と違う銃を構える。何丁持ってんだよコイツ。
口径が大きい銃だからこそ照準の判断に迷う。腹部を狙われてもウォー・ハンマーで弾き切れる保証もない。確実に躱さないと、
「逃げるな――涙」
足が、朧の言葉に迷いを覚える。
コイツは、私や流海と会った日を忘れてなかった。
それと同じで、まさかあの日の会話の中で――名前さえも覚えていたのか?
虚をつかれた瞬間、私の耳は低い銃声を聞いた。
目の前に広がったのは、網目。
白く透けるような網を理解できなかった私は、不甲斐なくも足を取られる。頭の先から私を捕縛した網はウォー・ハンマーに絡みつき、朧が銃を引いたことによって重心も崩された。
床に倒れ込んで呻いてしまう。傷口に響いた痛みを唇を噛んで凌ぎ、ナイフを出す。引っ張った網を青刃で斬ろうとしたが、朧に網を締められて身動きが取れなくなった。
「ッ、なにを」
「俺の質問が先だ。お前は何故ここに来た」
朧が再び問いかけてくる。私は無様に引き寄せられながら、腹の底から答えを吐いた。
「流海の為ですよ、鳥頭」
朧の頬が動き、目が細められる。
私を引き寄せる手を止めた男は、何を考えているか分からない目を向けてきた。
「ここは、お前達を殺そうとする奴らの拠点だと分かっての行動か」
「そこに流海の為になる物があるならば、火の海だろうと針の山だろうと飛び込んでやりますよ」
「流海の為だからと言って、お前が死んだら何にもならないだろ」
「お生憎様。私が死ねば流海も死んでくれる。流海が死ねば私も死ぬ。私達は、死ぬも生きるも一緒なんですよ」
朧の目が微かに丸くなる。男は口を結ぶと、再び私を手繰り寄せようと動き出した。
「朧、貴方こそどうして私を殺さないんですか。今この瞬間に銃を使えば容易いでしょう。貴方程の腕があれば、私の心臓を撃ち抜くことだって簡単な筈だ」
「何のことだ」
「考えたんですよ、貴方が私を殺すと決めている時と躊躇する時の違い。貴方、他の
朧の動きは止まらない。私は足先から朧に引きずり寄せられ、どうにか逃げる道はないかとナイフを動かした。男は私が動く度に網を締めるが気にしてはいけない。
コイツは今、私を殺す気が無いのだ。
周りに他の
βを撃ち抜いた時も朧は一人だった。
次に会った時は朝陽と夕陽が近くにいた。
屋上では嘉音達がいたが、朧の怒りが向いていたのは嘉音に対してだ。コイツは嘉音の肩を撃ち抜いた後、私に対しては確かに躊躇した。頭を狙わずに二の腕を撃ち抜いた。
――この子は俺の獲物だ。俺以外には殺させない
――なら今殺せ。理性を捨てる方法は取らなくていい。今すぐに、俺の、目の前で殺せ
あの時、朧が私を殺すタイミングはあった。嘉音が殺さないと分かった瞬間に撃てばよかった。柊に手首を撃たれたって、朧には他にも方法があった筈だ。
不信を持って朧の瞳を見る。
そこに隠れる感情が、私には分からなかった。
「
朧が私の体を跨いで見下ろしてくる。足や腕を締められて立ち上がれない私は、考え続けることしか出来なかった。
「それでも、害悪だと思っていたヤマイに救われた俺は……既に、純粋な
朧の手が自分の腹部に触れる。そこは私と流海が手当てした、大きな傷のあった場所。
「俺の正義はお前と流海のせいで汚れてしまった。お前達が俺の怪我に触れた日に、俺を運んだ時に、まるでヤマイが害悪ではないと示すような行動を見せつけられた、あの瞬間に」
朧が私にナイフを向ける。
そこで男は初めて、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「涙、お前は死ぬ直前に……誰を呼ぶ、何を願う」
灰色の瞳に問いかけられる。
私は何故だか体から力が抜けてしまい、至極当たり前の質問に辟易した。
脳裏に浮かぶ影は多い。私が嘉音に差し出した三人のヤマイが浮かぶ。積雪を楽しむ
お父さんとお母さんも浮かんだ。顔が霞んで声も上手く思い出せないけど。確かに両親の姿も浮かんできた。
私は、気づけば多くの人の姿を浮かべるようになったんだな。
理解するが、やはり一番鮮明に浮かぶのは流海なんだ。
私はあの子を失いたくないから。誰に何を言われても。どんな言葉をかけられても。
だから、私は、
「流海を呼んで、あの子と一緒に死にたいと思いますよ」
死体を見せるのも、見るのも嫌だから。死ぬならば一緒がいいな。
私はペストマスクの下で笑ってしまう。
反して朧の顔は、酷く歪んでいった。
「だから嫌なんだ、お前達を見るのは」
朧の声が微かに震える。それは恐らく、憤りに近い感情から。
「どうして他のヤマイのように命乞いをしない。なぜ自分のことではなく他人を想う。涙には涙の、流海には流海の命があるんだろ! ヤマイの癖に他人の為に動いて、他人を想って、他人の為に傷つくな!! 他人の為に頑張る姿を見せるんじゃないッ」
網を掴まれて背中が少しだけ浮く。朧は私の喉に刃を向けて、私は身動きの取れない状況に嫌気がさした。
「俺は
勝手な考えを押し付けられて、勝手な被害を嘆かれる。
私は何も言わず、酸素を求めるように言葉を吐く男を凝視した。
「ヤマイならばヤマイらしくしていればいいのに、ヤマイらしく害であればいいのに! 俺の傷に触れて、ヤマイなのに他人を想うから、ッだから殺す。涙だけでは駄目だ。流海だけでも駄目だ。お前達は、二人揃えて、俺の目の前で、俺の手で殺す、俺の手で潰す」
「……無様ですね、あれだけ嘉音には
朧の目が少しだけ揺れる。
その瞳に既視感を覚えた私は、男を鼻で笑ってしまった。
染まり始めて息の仕方が分からなくなった時。流海との二人ぼっちを望む私と、朝凪達とならばって思う私の目。
鏡に映る私の目と朧の目は、どこまでも似ているようにしか見えなかった。
「
「黙れ害悪、お前に俺の何が分かる」
「何も分かりませんよ、私と貴方は他人だ。貴方の感情は貴方だけのもので、私の感情も私だけのものだ。共感なんてしないし分かったふりなんて惨めなだけです」
「だったらッ!」
「それでも、アレスに生きる奴らは感情や考えに名前を付けたがるんですよ。それが例え他人同士であっても、共感は出来ないのに共有して、レッテルを貼りたがる」
私は網の中で指を使い、ナイフの切っ先を朧に向ける。灰色の瞳には、多くの感情が
どれだけ澄ました顔をしても、どれだけ信頼されていても、朧だって私達と同年代。嘉音とも変わらないだろう。
お前は子どもだよ。そして私も子どもだ。
私達は、四方八方に向いた感情の矢印に苛まれる
「朧、貴方のそれを、アレスでは葛藤と呼びます。七ヶ条を守って個を主張したくない自分、
歯を食いしばった朧が、私の肩にナイフを突き刺す。肩から頭の皮膚を突き抜けた痛みに悲鳴が湧き起こり、私は唇を噛み締めた。
「黙れ、ヤマイ」
「私を撃たずに、捕まえた今が証拠、でしょ」
喋るごとに肩の痛みが口の奥に響く感覚がする。それでも私は腹に力を込めて、足の痛みも、腹部の痛みも、肩の痛みも堪え続けた。
朧は自分に言い聞かせるように呟いている。
「涙は捕まえた。あとは流海を捕まえて、殺して、そうすれば、俺はまた、」
男の様子に私はペストマスクの下で口角を上げ、言葉を吐く意思を固めた。
堪えるのは得意だっただろ。我慢するのは慣れっこだっただろ。
目の前にいるのは諸悪の根源だ。葛藤に苛まれてる鳥頭だ。私と流海の明日を壊した、クズ野郎だ。
だからコイツの心も、信念も、願望も、私は無様に壊したい。朧にアレスの空気を吸わせて苦しめたい。
しかし今の優先は何を取っても薬だ。だから今は網から抜け出すことが必須。その為にも、コイツの考えを踏みにじれ。どれだけ体が痛んでも、喋ることが億劫でも。
痛みを無視する力を、優しさで塗りつぶされるな、自分。
「汚れは取れません、よ、残念ながら。貴方達みたいに、綺麗で、綺麗で、綺麗なものしか知らない奴らは、一つでも汚れを知れば、後はその汚れが、染みになって広がるだけだ」
「いいや、そんな筈はない」
「私と流海を揃って殺した所で、貴方の霞みは晴れませんよ。貴方の中から、私達の染みは消えませんよ」
「ッ涙!」
「残念ですね、朧。あの路地裏で私達に会った時から――貴方は汚れてしまった」
朧の喉が鳴り、私の肩からナイフが抜かれる。
白い軍服に返り血をつけた男は、苦悶の表情で私を睨みつけていた。
動きが大振りになる。網も微かに緩んだ。
私は網の中で体を捻り、朧のナイフが網だけを切ることを望んだ。
振り下ろされた朧の腕は止まらない。
「ちょっと、やめてよ」
そこに第三者が現れなければ、私の思惑は遂行されていただろう。
響いた金属音と共に朧のナイフが吹き飛ばされる。私の上にいた朧の鳩尾には鋭い蹴りが入り、私を覆っていた網と銃の繋がりは叩き切られた。
「あーもーほんと……朧さぁ、俺の言葉すぐ忘れるわけ? 何回も言ったと思うんだけど」
網が解けて自由になる。
噎せた朧の顔には冷静さが戻っていった。
私に背を向けて立つのは、薙刀を肩に担いだ
網から抜けた私はウォー・ハンマーを握り直し、朧は低い声と共に銃を構えた。
「……嘉音、邪魔するな」
「涙は俺のだよ。俺以外が殺すなんて許さない」
棘のある言葉を嘉音が吐き、彼は馴染ませるように薙刀を回す。
私はまだある残り時間を確認し、喉の奥から這い上がった言葉を呟いた。
「……最悪」
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