第67話 察
「この資料ってどうやって手に入れたんですか?」
「知らない方が身のためだぞ」
「まさかの非合法」
「知識と経験と裏作業を人に求めたのはどこのどいつだ?」
柊に釘を刺され、片手で頭を掴まれること数秒。頭蓋を圧迫される私は大きな手を叩き、しかめっ面の男から距離を取った。柊は肩から力を抜いて飲み物とお茶菓子を準備し始める。部屋には紅茶の香りが立ち上った。
広い客間の中央、長机の上には三種類の資料がそれぞれ山にされている、一つは「今までアテナの戦闘員に襲われたヤマイ」のリスト。二つ目は「マッキになったヤマイ」のリスト。三つ目は「マッキの処分」リスト。資料は第四十四支部に関するだけであるが、それだけでも軽く山が出来ている光景に目をすがめてしまった。
私は資料を手に取って目を通していく。桜達も黙って資料を手に取り、暫しの間室内には異様な空気が蔓延した。
既に目を通しているであろう柊は黙々と紅茶とクッキーを置いて行く。椅子があるにも関わらず着席していない私達の間に紅茶を置く男からは、上手く感情が読み取れなかった。
私は銀色から視線を逸らしてリストの名前を追っていく。
そして、鼻が紅茶の匂いに慣れた頃。私は隣で顔色を悪くした朝凪に気が付いた。
「朝凪、呼吸してますか?」
「こ、きゅうはしてます……けど、これ……」
困惑に揺らぐ朝凪の目を見つける。私は首を少しだけ傾けて、彼女が言わんとすることを汲み取った。
「一致、してますね」
伝えた事実に朝凪が口を結ぶ。私は彼女の隣にいる竜胆と、自分の逆隣りにいる伊吹にも視線を向けた。険しい顔つきの二人は何も語る様子がない。
私がまず確認したのは「アテナの戦闘員に襲われたヤマイ」のリスト。パナケイアはご丁寧に襲われた日時と場所、ヤマイの居住地などの個人情報を記していた。以前皇が、襲われたヤマイは被害を口外しないようにパナケイアと契約させられると言っていたが、これは一方的な監視リストにも見えた。
どこに住み、どんなヤマイで、印数は幾つで、どの程度の怪我を負ったか。どんな家族構成で、何に所属し、いつ襲われたか。
次に「マッキになったヤマイ」のリストを見ていくと、残念ながら――襲われたヤマイと名前がほぼ一致した。
頭の奥が冷える気がして資料を見比べる。マッキ発症の日付はどれも襲われてから数日ないし、数週間経ったものだ。
「戦闘員に襲われて、中傷以上の怪我をしたヤマイはマッキを発症してますね」
「ですわね。軽傷の方も、傷が多い方は数週間経ってからマッキになられていますわ」
「なっていないのは無傷か、軽傷が片手の数程度ならばと言った所か」
桜と柊の言葉に頷き、私は資料に視線を落とす。
中傷以上の怪我を負ったヤマイは、全員マッキを発症したリストに名前があった。傷の程度が重かったヤマイの方が発症までの日数が狭いことも読み取れる。戦闘員に襲われずしてマッキに進展しているヤマイもいるが、そちらの方が少数であった。
「偶然、では片づけられねぇだろうな」
伊吹の手の中で資料が握り潰される。彼が置いたリストの欄の一つには――〈
灰色の男は資料の山を見下ろして唇を噛み締める。私は彼にかける言葉が分からないまま、他の「マッキになったヤマイ」のリストに〈
まさか、気づかない所でリスト入りしていたとは知らなかったよ。
事実を受け止める私は、最後の「処分」リストに目を向けた。そこに並んだ名前とマッキになったリストの名前を見比べて、頬が痙攣する。
私が持つ「マッキになったヤマイ」のリストの半数近くが、「処分」リストに名前を連ねていたのだから。
「これは全て、鎮静が追い付かなかったからで終わってるんですか」
「そうだ。一人のマッキに対し、
「だからこの結果は仕方がないと?」
「現実的に、これが限界だと言っているだけだ」
柊は桜の斜め後ろに立ち、眼鏡のブリッジを上げる。
私は屋上で叫んでいたマッキを思い出すと同時に、体全体を巡った痛みを再生した。
「パナケイアは、私がマッキになる時には鎮静の命令を出したんですよね」
「正しく言えば招集を掛けた、ですわ。第四十四支部の
「あぁ、成程」
ならば、パナケイア的には鎮静でも処分でもどちらでも良かったのか。
私は脳内で呆れを覚え、桜はペストマスクに手を添える。彼女の両親もパナケイアで働いていると聞いたからには言葉を選びたいところだが、一体どう口にするべきが正しいのか。
私は視線を宙に漂わせ、正面に立つ桜髪のペストマスクがこちらを見つめていると気が付いた。
「正直にどうぞ。貴方の美点は、その素直さだと思っておりますので」
マスクの奥にある桜色の瞳を見つける。眉を八の字に下げて笑っているのだろうと思ったが、それは私の空想に過ぎない。私は息を吐き、彼女の言葉に従うことにした。
「パナケイア的には私のマッキが鎮静できようが失敗しようが、どちらでも良かったのではないかと思うんですよね」
「と、言いますと?」
「私のヤマイは周囲を巻き込みますが、やはり最大の被害を受ける確率が高いのは私です。マッキになった時の記憶は朧気ですが、恐らく私はあのままマッキ状態であれば死んでいたと思うんです」
命の危機を感じたことは今まで何度かある。十年以上このヤマイと共にいると、大抵の事故は甘んじて受けるし走馬灯を見ることだってしばしばあるのだ。
あの、温かくて怖かった夢のように。
絵本を読んでくれたお母さんが浮かんで、身長を記してくれたお父さんも思い出した。
駄目だ、今思い出すべきではない。
私は呼吸を整えて、努めて平坦な考えを口にした。
「私がヤマイに殺されても、私を
手袋を外して左手の甲を見る。貫かれた傷の残った印数五はパナケイアが付けた、識別の文様だ。
「マッキになった私を見た時、どう思われました?」
「死ぬなコイツって思ってたよ」
誰よりも早く伊吹が回答する。私は灰色に視線を向け、不機嫌そうな男は資料の山だけを見つめていた。
そこから彼に続くように桜達が答えていく。
「こちらの足止めが全て致命傷になっていましたものね」
「足を狙ったのに銃弾が曲がった時は肝が冷えたな」
「涙さん、意識無い筈なのに自主的に事故に遭いに行く姿勢でしたし」
「全部の敵意が涙さんに向かってる感じがしたよね」
「あの樒さんですら思ってたからな、空穂は俺達に止められる前にヤマイに殺されるだろうなって」
各方面から感想を貰って頬を掻いてしまう。私のあやふやな記憶では朝凪達を殴り飛ばしたり、言葉になってない雑音を吐き散らしていたんだが。今更ながら、伊吹達がいなければ私はマッキの処分リストに名前を書かれていたのだと自覚する。
最後の一手で私を貫いたのは流海だったけど。伊吹達がいなければ、私は流海を殺していたかもしれないのだ。
考えて背筋に悪寒が走る。既に消えた「もしも」に怖気づく。
私は〈処分〉の文字に胃の中を混ぜられるような不快感を覚えて、伝えていなかった感謝を口にした。
「その節はお世話をかけました。流海を手伝い、私を連れ戻して下さってありがとうございます」
パナケイアは私の鎮静を猫先生が率いる抑制部署の面々ではなく、
手の中の資料を見て考えてしまう。抑制と名付けられた部署ではなく、
私のヤマイは周りを巻き込む。理性を無くした化け物の対応は近寄らなければ成功しない。
それはつまり、マッキの鎮静に向かった
ワイルドハントは実働部隊。
所属できるのはヤマイだけ。
毒で満たされたアテナに薬の材料を採りに向かい、アレスでも傷つくだけの汚れ仕事を請け負っている。
それは、まるで――
「――捨て駒かよ」
項に爪を立てて「マッキになったヤマイ」のリストを見下ろす。そこには所属団体に〈
脳の奥に熱が生まれる。温度を上げる感情が確かに存在する。
目の前にはパナケイアやヘルスだけでなく、
アテナにとってヤマイは害悪で、アレスにとってもヤマイが害悪だった時――
どこに行けば許されて、認められて、生きていても良いと肯定してもらえるのだろう。
生きることを肯定されていない私達は、一体何なのだろう。
考えが煮詰まる私はクッキーを一つ口にして、口の中でほろりと崩れたお菓子に目を瞬かせた。食べ物が美味しくて驚く日がくるとは思わなかったな。
無心でクッキーを飲み込み、同時に感情も嚥下する。そうすれば、傍に立つ伊吹や竜胆に凝視されていたと知った。
「どうかしましたか?」
「いや、なんて言うか……」
「まさか空穂に、マッキの件で礼言われるとは思ってなかったんだよ」
竜胆は気を紛らわせるように前髪を触り、伊吹は珍獣でも見るような目を向けてくる。私は気のない返事をして、次のクッキーを手に取った。
「別に、助けられたのならばお礼は言うでしょ。人として」
「いや、なんか……あー、お前ら双子ってほんとそう言うとこあるよな」
「何の話ですか」
伊吹と話が噛み合わないままクッキーを食べる。ナッツが混ざっているクッキーは噛み応えがあり、やはり美味しかった。
「流海にも言われたんだよ。お前を止める時、ほんと、ギリギリの所で……ありがとうって」
「へぇ」
頭を掻いた伊吹は踵を返し、大きな窓の先にあるベランダに出る。冷たい空気の中に向かった男は何を考えているのか。私は察せないまま三枚目のクッキーを食べて、散らかる情報を整えた。
アテナの戦闘員に襲われたヤマイの内、中傷以上を負った者はマッキになっている。
マッキになっても救われないヤマイは多く存在し、パナケイアはその情報を持っている。
襲われてもマッキになっていないヤマイの違いは傷の程度だけとなれば、やはり武器に何か仕込まれていると考えるのが妥当。
その武器を問題なしと言ったパナケイアは――ヤマイの味方ではない、と考えるべきか。
自分の中で結論を出すが、特に愕然とすることや失望する感情は無かった。元々パナケイアを信頼していなかった事もあり、嘉音と交渉する知識が増えて私としては良い収穫だったように思う。今後はアイツらの武器により集中しなければならないが、心積もりがあれば対応は変えられる。
それにヤマイを進行させる薬が作れるならば、その逆も作れるのではないかと易い私の頭は考えるのだ。メディシンやプラセボとはまた違った視点があれば、柘榴先生の研究に役立つのではないか、と。
私はクッキーを飲み込んで、考えを腹の奥に落とす。そのまま何の気なしに桜の方を見れば、空気が華やいでいる少女がいた。
あぁ、そうだ。
「とても美味しいです、クッキー」
「それは! 良かった! ですわ!!」
桜は諸手を挙げて歓喜を示す。飛び跳ねる彼女を柊は叱責していたが、今は彼の言葉も届かないらしい。
私は次のクッキーを視線で選び、朝凪の顔色が優れないままであると確認した。
……。
「朝凪」
「ぇ、ぁ、は、」
返事をした彼女の口にクッキーを突っ込む。私が美味しいと思ったクッキーを選び取って。
目を丸くした彼女は一瞬動きを止めたので、私は指でクッキーを押し込んだ。
「ふ、ふぃさ、」
「美味しいですよ、クッキー」
「ふぇ、」
「美味しいんです。とても」
小さな朝凪の口にクッキーを入れさせて、目を丸くしたまま咀嚼する彼女を見つめる。朝凪は口元を手で隠しながら頬を膨らませていたので、その間に言葉を考えた。
「朝凪、私は配慮とか心遣いが足りない人間なんです。朝凪の気持ちを無視して突っ走りますし、勝手に無茶苦茶な仮定を作って検証しますし、捻くれてもいるので最初から何かを信じるとか基本的にしないんですよ」
朝凪の喉が上下に動く。彼女は口にしたクッキーを飲み込めたらしく、話が見えない幼子のように首を傾けていた。
「は、ぁの、涙さ、」
私は朝凪の開いた口目掛けてもう一枚のクッキーを突っ込む。朝凪の頭上には再び驚愕のマークが飛んだ気がしたが、私は問答無用でクッキーを指で押していた。
朝凪が大きな目を瞬きさせて、再び頬を膨らませる。彼女にはナッツの混ざったクッキーを突っ込んだので、また暫くは喋れないだろう。
「総じて言えば、恐らく私は猪突猛進の馬鹿なんです。だから朝凪が何か心配していても、その何かが分からないんです。どうしたら喋りやすくなるとか、どうしたら朝凪の不安が減るとか本気で分かりません。すみません」
「ぇ……っと、」
「なんなら流海以外の事はどうでもいいので慰めるとか寄り添うとかも出来ません」
「ぇ、は、はい」
「しかし最近の私は貴方達が困った顔をしていたりすると、どうにも居心地が悪いんです」
朝凪の頭の上で疑問符が浮遊する。私は呻きながらクッキーを掴み、朝凪の隣に立つ竜胆を見上げた。男は蜂蜜色の目を丸くするので、私は勢いよくクッキーを突き出す。お菓子は竜胆の唇と歯に音を立てて突き刺さり、彼は冷や汗をかきながら口を開けてくれた。よろしい。
「それもこれも貴方達が良い人であるのが悪いんです。なんでそんなに良い人なんですか。私のマッキに巻き込まれても傍にいるなんておかしな話なのに、私が持て余してるこの感情どうしてくれるんですか」
「……涙さん、今、怒ってるんですか?」
「怒ってはいません。なんか、こう……」
鳩尾の辺りを握って言葉を止める。私は朝凪を見下ろして、竜胆を見上げ、思わず頭を抱えてしまいそうだった。
「駄目だ、言葉が出ない」
「ぇぇ……っとぉ」
「こう、申し訳なさと、苛立ちと……あと何だ、いじらしさ? が混ざって煮詰まって気持ち悪いこの感覚、伝わりません? 伝わりませんよね、すみません」
「は、はい、すみません」
「朝凪は謝らない。何も悪くないんですから」
腹部を摩りながら朝凪に伝えれば、彼女は何故だか目元を染めて口を結んでいた。両手で頬を押さえた彼女はどんな感情でその態度を取っているのか、やはり私には分からない。
だが私は、微かに震えた彼女の手を見たから言わねばならない。彼女が逃げる隙を与えずに巻き込んだのは私なのだから。ここには私の責任がある。
「……不安になったのではないですか。
私の言葉で朝凪の肩が震える。私は竜胆も見上げて、眉を下げている彼は腕を摩っていた。
「ほぼ仮定が正しいと分かってしまった今、何も知らなかった昨日とは気持ちが違う筈です。戦って傷つき続ければマッキに進展するリスクが上がると思われる以上、それは確実な不安でしかない」
私は隣にやって来た桜を見る。彼女のペストマスクを一瞬剥いでクッキーを口に押し込めば、お嬢様は雰囲気を弾けさせてペストマスクを押さえていた。スキップでもしそうな彼女を観察していれば柊に問答無用で殴られる。背が縮んだらどうしてくれるんだよ。
「こんのッ、不敬!」
「いや、近づいて来られたので欲しいのかなぁって……いや、このクッキー元々桜のでしたね。ごめんなさい」
「いいえ、いいえ! あーんをされてしまいました! 嬉しさと共に恥ずかしさもありますのね!」
あぁ、お喜びのようで何よりです。はしゃいでいる桜に柊はどう見ても辟易しているが、私は気にしないことにした。
私が再び鳩尾を撫でる。そうしていると、手首を朝凪に掴まれた。
今までに無いほど強い力で、両手で、思い切り。
「ちょ、と、涙さん、良いですか」
「え、あ、はい、どうぞ」
口を結んだ朝凪に引きずられながら廊下に連れ出される。
背後で扉を閉じた朝凪は、固く唇を噛み締めていた。
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