第28話 染
――涙ちゃんの傍では笑っちゃ駄目なんでしょ?
――なら涙ちゃんとは遊べなーい
――流海君は?
――流海君はずっと笑ってないといけないんだって
――えー、そんなの無理だよ
小さな手を繋いでいた。固く固く握り締めて、血だらけになって、どれだけ痛くても離すことなどしなかった。
私達の周りには誰も寄り付かない。ずっとずっと――二人ぼっちだ。
笑う私と笑わない流海。私は苦手な笑顔の練習をして、自然と口角を上げられるように頑張った。流海を傷つけてしまわないように。
笑って、笑って、笑い続けながら片割れの隣に居続けた。そうしていないと息苦しくて、生きづらくて、赤信号の中に飛び出してしまいそうになったから。屋上から飛び降りてしまいそうになったから。首を括ってしまいそうになったから。
私は流海の手を握り締めて、二人そろって泣いたのだ。
私は笑いながら泣いた。流海は唇を噛み締めて泣いた。
どんな怪我よりも、どんな事故よりも。
――あっち行ってよ
――近づかないで
人から遠ざけられる事が――痛かった。
胸を掻き
二人だけでよかった。他の人なんていらなかった。
いらない、いらない、いらない、流海以外の大切なんていらない。私達の中に誰も入り込ませてなんてやらない。
頭を撫でてくれる猫先生も、背中を撫でてくれる柘榴先生も。私達の怪我を心配する朝凪も、竜胆も、伊吹も。どうすれば事故が起こった時の怪我を減らせるか考える桜も、柊も。
みんな、みんな――
――視界が、くすんだ赤色に染められた。
「いやだッ!」
掛け布団を握り締めて目を覚ます。心臓は全力疾走をした後のように早鐘を刻み、カーテンの隙間から朝日が射し込んでいた。
額に前髪が張り付いて、冷や汗が体中を流れていた。
肌寒さと温かさが
私は目尻を流れた水滴を汗だと思うようにして、両掌を顔に押し付けた。
「……あ゛ーー……」
鉛のように重たい体を起こせない。焦る心臓を落ち着かせようと深呼吸する。寝巻が冷えて気色悪い。熱いシャワーを頭から浴びることにしよう。
数分固まって息を整えれば、徐々に憤りと気持ち悪さで体内が満たされていく。
最悪な夢見。最低な記憶。なんで、こんな……
枕元の目覚まし時計が鳴り響く。
私はこめかみに青筋を浮かべ、気づけば置時計を床に叩きつけていた。
肩で大きな呼吸を繰り返す。締め上げられたように喉が狭まる。
――涙ちゃんきらーい
――流海君も嫌いだよー
幼い棘が突き刺さる。
――涙ちゃんと流海君は、運動会お休みして良いからね
――あー……空穂達は、うん、無理しなくていいから
重たい針が身を
長針と短針が止まっている時計を見下ろした私は、顔を覆ってフローリングに蹲っていた。
体の傷はいつか治る。見える怪我はいつか治癒される。
それでも、それでも、心に受けた傷は治らない。言葉で切り刻まれた内面は埋められない。
「涙……?」
「大丈夫か?」
扉越しに柘榴先生と猫先生の声がする。ノックの音が小さく響く。
顔を覆っている私は、指の間から落ちる水滴を汗だと思った。嫌な記憶を呼び起こしてしまったから、冷や汗が流れて止まらないのだと。
「だい、じょうぶです」
だから驚いたんだ。普通に出せると思った声が震えたことに。上擦った情けない声になってしまったことに。
柘榴先生と猫先生は何も言わない。それでも気配はそこにあり続けている。
私の心臓は再び爆発しそうな拍動を続け、微かに下がったドアノブに血の気が引いた。
「……入るよ」
柘榴先生の声がする。
ゆっくり扉が開こうとする。
だから私は足を縺れさせながら走り、扉を勢いよく閉めたのだ。
「る、」
「なんでもないです。なんでもない、平気です。悪い夢を見ただけです。だから入って来ないでください、お願いですから……入り込まないでください」
扉の前に座り込んで、開けられないように押さえ続ける。下げられそうになったドアノブを動かないように押さえて、頬を伝う熱い雫を認めないまま。
扉越しに猫先生と柘榴先生の気配は消えない。私は俯いたまま扉に頭を寄せて、手を握り締めてくれる片割れが家にはいないのだと苦しくなった。
「流海じゃないと、入れられないかい?」
「俺達はまだ、入れないか?」
柘榴先生の声は責めていなかった。猫先生の声は怒っていなかった。
ただただ優しい温度で、穏やかな声色で、背中に手を添えられるように温かいから。
私は、怖くて怖くて堪らない。体が震えて駄目になる。目の前が眩んで嫌になる。
扉から手を離して顔を覆えば、熱い雫が掌を伝っていった。
「入れたく、なぃ、です」
「……そうか」
「……分かったよ、涙」
二人はやはり怒らなかった。声は穏やかなままだった。「大丈夫だよ」という柔らかさが届いて、「無理はするな」という大らかさに包まれて。
私の中に滲んでいく。滲んで、染み込んで、こびりついて、逃げ出したくなる。
奥歯を噛んで祈るように両手を握り合わせた私は、扉に向かって
* * *
「……駄目だ、今日駄目だ」
呟きながら通りを歩く。何事も無いように先生達と朝食を食べた後、私はパナケイアに向かった。しかし既に流海は診察室に連れ込まれて面会謝絶だったと言う事実。こんなことならば「乗っていくか?」と言ってくれた猫先生に頷いておけば良かっただろうか。柘榴先生も私を見つめていたし。
起き抜けの事を考えて首を横に振った私は、いつも通り自分のペースでパナケイアに来てしまった。シャワーを浴びたり落ち着いたりする時間のせいで、いつもより来る時間がズレるのは分かっていたくせに。
流海の検査の時間は午前中を潰す。だから近くの大通りのショップを見て回っているのだが、土曜日のせいで人が多い。それだけで気分は下がるし、良い感じの時計を探せない事にも嫌気がさしていた。
私は骨董品が並んだ店のショーウィンドー前で立ち止まり、深いため息を吐いてしまう。
「……涙さん?」
そこで声を掛けられた。聞き慣れてしまった声に顔を向ければ、そこには朝凪いばらが立っている。
いつもの制服や戦闘服ではなく、上品なロングスカートに灰色のケープコートを着た朝凪。頭の先から爪先まで美しいってなんだ。スキニージンズにタートルネックとコートを合わせただけの私なんて傍に寄ってはいけない気がするではないか。
緩いウェーブのかかった髪も顔立ちも服装も、全てが調和されて「朝凪いばら」を形成している。美人の私服は本当に美人だな。思わず目を細めて反応が遅れてしまった。
「朝凪……こんにちは」
「こんにちは……どうかされたんですか?」
恐らく私が直ぐに反応しなかったことを不安に思ったのだろう。私は首を傾けて、威圧しないように答えておいた。
「いえ、私服の朝凪があまりにも綺麗で驚いただけです。お気になさらず」
朝凪の目が大きく見開かれる。震えた彼女の唇は噛み締められて、吹いた風は私達の服や髪を揺らした。
「ぁりがとう、ございます」
髪を押さえた朝凪の表情は上手く見えない。私は軽く髪を整えて、眉を下げた朝凪の顔がそこで確認できた。
「先日の火傷……痛みますか?」
朝凪は少し大きめの肩掛け鞄を握り締める。
火傷を指摘された私は、先日道具室で起こした事故を思い出した。あの時は軽く右脹脛を火傷したわけだが、よくある事なのでどうとも思っていない。傷だって既に落ち着いているし痛みもない。
朝凪は顔に緊張と心配を浮かべており、私は視線を逸らしていた。
「痛みませんよ。大丈夫です」
「ほ、本当ですか?」
「本当です。朝凪はどうして今日こちらに? どこかへ買い物でしょうか」
眉を下げ続ける朝凪は優しい子だ。だからこれ以上の会話を広げたくなくて、私は話題を変える。しかしそれは失敗に終わった。
朝凪が鞄から薬を出すから。
それは火傷によく効くと宣伝された、私も重宝するものだから。
「私はパナケイアに向かっていたんです。涙さんは休みの日、流海さんの所に行くって霧崎さんから聞いていたので」
「……はぁ」
「その、やっぱり火傷は私のせいで、私、笑っちゃいけないって知ってたのに、あんな、勝手な……」
あぁ、まただ。
また、私は人から笑みを奪ってる。楽しいから笑った筈なのに。嬉しいから笑った筈なのに。幸せだから笑った筈なのに。私の傍にいることで人は笑顔を悪いもののように扱い始めてしまう。
朝から駄目な私の感情は重たく沈み、地を這うような言葉を吐かさせた。
「朝凪は悪くないですよ」
俯いていた朝凪の顔が上がる。見つめる瞳が私には綺麗すぎて、自分の弱く汚い部分を見透かされている気分になった。
「悪くないんです。悪くない。笑顔は何も、悪いことではないんです」
薬を握り締めている朝凪。彼女の手は少しだけ震えて、私は肩が重たくなった。背中に纏わりつく嫌な感覚は私の姿勢を悪くさせ、顔を下に向けていく。
――涙ちゃんの近くにいると疲れるよ
重たい記憶がのしかかる。
――空穂さんは……ねぇ
嫌いな経験が圧をかける。
私だって、私だって……私だって。
体の横で握り締めた拳は、自分を殴りたくて震えていた。
「お願いします。笑うことを、申し訳なく思うのだけは止めてください」
朝凪が履いている綺麗なブーツの爪先を見つめる。彼女がどんな顔をしているかは分からないが、私にはこれ以上の言葉を出せなかった。
頼むから笑う事を止めないで欲しい。お願いだから笑顔を悪者にしないで欲しい。
ずっと貼り付けていろなんて思わない。笑顔に四六時中囲まれている苦しさは片割れが経験している。ありすぎることも苦しくて、無さすぎることも苦しくて。
それでも私達は、笑顔を責めることなんて出来ないんだ。
笑いたくなったら笑ってくれよ。楽しかったら笑顔になって良いんだよ。笑いたくない時に無理して笑わなくても良いんだよ。
私も流海も分かってる。分かってるから。頼むから――
歯痒く言葉が煮詰まっていれば、歩道を横並びに歩く男四人に気が付いた。私は朝凪の肩を持ってショーウィンドーに体を寄せる。元々寄っていたが、あぁいう輩にぶつかったりすると面倒だと目に見えているのだ。
目を丸くした朝凪も気づいて頷く。その時、男達はじゃれるようにお互いを叩き、一番端にいた男が横に広がりやがった。
「あさな、」
声を掛ける前に男がぶつかり、朝凪のコートやブーツに珈琲が散っていた。
「って、おい邪魔なんだよ! どこ見てんだ!」
大学生くらいの男四人が立ち止まる。ぶつかった奴は珈琲ショップのコップを持っており、朝凪のコートには染みが広がっていた。
一気に頭へ血が上る。ぶつかっておいて何様だ。お前達は歩道に広がって歩いていたんだろ。確かに歩道に立ち止まっていた私達も悪いかもしれないが、ショーウィンドーにぶつかりそうなほど端へ寄っていただろうが。貴方は電柱や街頭にぶつかって「邪魔なんだよ」と文句を言うのか頭が沸いてやがる。
どこ見てんだとは言うが朝凪に後ろからぶつかったお前こそ何処を見ていたんだ。お前達の目は飾りか。節穴か。いらねぇならナイフで潰すか抉り出すぞ。その染められた後頭部をウォー・ハンマーで殴ったら目玉が飛び出してこねぇかな。先に頭蓋骨が潰れるか。どちらでもいいか。不要な目ならば処分しよう。
コートを見下ろして固まっている朝凪を私は見る。男は何も言わない彼女に苛立ったのか、「おい」と語尾の強い呼びかけをしていた。
あぁ、心底嫌いだ。
自分に比は無いとふんぞり返る態度の奴も。それを止めずにいる連れも。無視する道行く奴らも。朝凪と男の間に入る、自分自身も。
私は朝凪を背に静かに男を見上げていた。
「あ?」
「歩道の端に立ち止まっていた私達にも多少の比はあるかもしれませんが、ぶつかったのはそちらですよね。歩道を四人で横並びに歩いていれば邪魔になるとお分かりにならないんでしょうか。そのくせ目の前にいる人は全て自分の為に避けてくれると? この子は貴方に背を向けていたのに、後ろから来た貴方に気づいてもっと避けろと? 私達は貴方達に気づいてより端へと寄りましたが、じゃれて広がったのはそちらですよね。何様でしょうか」
「おま、なんだ、」
「聞いているのは私です。強い語尾で威圧する暇があるならば説明しなさい。この子はどうすれば邪魔ではなかったのか。後ろから来ていた貴方にこれ以上どんな配慮をするべきだったのか。珈琲を零されたこの子はこの後どうすれば良いのか」
「う、うるせ、」
「答えなさいと言っています。節穴の目だけではなく耳も機能していないんですか」
男が完全に言い淀む。私は右の爪先を上げて勢いよく地面に打ち付け、催促するように音を立てた。面白そうな雰囲気を出していた他三人も顔色が悪くなっているが知った事ではない。私は答えろと言っているのだ。それはそれは納得がいく説明をしてくれるのだろ自己中共が。
「朝凪、火傷していませんか。珈琲ならば近くのトイレとかの水道で洗った方が……朝凪?」
答えない男を一瞥してから朝凪を確認する。そこには汚れたコートを見下ろした、顔面蒼白の朝凪がいた。
大切な物だったのか。お気に入りだったのか。
違う、この子の空気はそう言ったものではない。
朝凪はハンカチをコートに押し当てて、青白い顔を
「どう、しよう。こんな、こんな格好じゃ、私、わた、し、あ、っ、ど、しよう。なんで、そんな、ごめんなさい、あぁ、あぁ、どうしよう、どうしよう……」
震える手でコートを見つめ、顔に冷や汗を浮かべている朝凪。
私は彼女の手を取って直ぐにその場を離れ、答えられなかった男達を見逃すことにした。
珈琲は湯気立っていなかったから男共に啖呵を切ってしまったが、先に朝凪だったな。失敗した。
服飾店が入っている近くのビルに入ってトイレを探す。直ぐに見つけてベンチに朝凪を座らせた私は、彼女の前に膝をついた。
「朝凪、どこまで取れるかは分かりませんが上着を洗ってきます。貸してくれますか」
「る、ぃさん、ごめ、ごめんなさい、私、わたし、は……」
朝凪の手は震えながらコートを脱いで渡してくれる。その肩に自分が羽織っていた上着を置き、私はトイレの水道の前に立った。
外だからどうしようもないが、ハンカチで取り敢えず水分を取るか。
私はハンカチで染みになりそうな部分を押さえて、ふと気づく。いつから自分はこんな世話焼きになったのかと。
顔見知りだから。同じ
色々な理由をこじつけてコートを叩く。ハンカチに移る珈琲の染みは、徐々に大きく広くなった。
最近の私は変だ。
仲良くなりたくないのに。友達なんて欲していないのに。流海がいればそれでいいのに。
柘榴先生の指先や、猫先生の優しさに泣きたくなる時がある。伊吹からの問いに即答することが出来なかった。
――お前は放っておけるのか? 朝凪や永愛が怪我をしてても。無理に動こうとするのを見ても。その時も無関係だって言いきれるか?
ほら、また染みが広がった。
「……そりゃ、流海も心配するよな」
呟いて蛇口を捻る。ハンカチを濡らしてコートを叩けば、少しずつ珈琲の色は薄れていった。
私はコートを叩き続ける。こんな風に私の中にある滲みも取れていけば良いのにと思いながら。
弱々しくなっていく自分に嫌気がさして、頭の奥では今までヤマイに巻き込みかけた人の悲鳴が響いていた。
「……まだ、取れねぇか」
私はそうして暫く、染みが広がらないように手を動かし続けていた。
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