第61話 性

 

「涙ちゃんって好きな人いる?」


「流海ですね」


「んな分かり切った答え求めてねぇんだよ。片割れ以外で答えろっつーの」


「こっわ……」


 大学の図書館は中学校や高校とは比べ物にならないほど広かった。私が知る学校の図書室は教室と同程度の広さしかないが、大学ともなれば図書「館」である。室ではない。分かっていた筈だが、こうして書庫まで足を運ぶと自分の予想など足元にも及ばないと示された。


 地下に作られた書庫の蔵書量は恐ろしいもので、本棚は自動化されている。ボタンを押すことで本棚が動いて通路が出来た。しかし、私は初めて見る書庫に感動する暇もなく、口調が乱れまくっている樒に嘆息した。


 彼女は書庫に入ってから、大人しい口調になったかと思えば荒々しくもなり、かと思えばたおやかさを見せたりと訳が分からない。理解不能とはこの事だ。


「なーあー女子トークしよーぜー」


「しませんよ。書庫に入れてくださってありがとうございます。後は私など放ってくださっていいので」


「そんなこと言わないで? 私も涙ちゃんと一緒に居たいの」


 あぁ……考えるのやめよ。


 諦めた私はマッキの文献を漁る。どれを見ても推論調査ばかりであり、明確な数値や研究結果が示されたものは無かった。それはヤマイの文献でも同等であり、皇にプライドを捨てた懇願をしなくて正解だったと息を吐く。


 私の横にほぼゼロ距離で立っている樒は完璧な無表情だ。しかし空気は笑っている気がする。本当にやりづらい。皇以上にやりづらい。


 樒は個人ロッカーに入れていた女性ものの服に着替えていた。黒いハイネックワンピースに灰色のコートを着た樒は、私の肩口から文献を覗き見している。集中できないんですけど。


「涙ちゃんって何考えてるの?」


「なんでしょうね」


「アテナの戦闘員と仲良しなんですよね?」


「仲良しではないです」


 語弊がある言葉を訂正しつつ文献を本棚に戻す。ボタンで左右へ動く本棚を見つめていれば、樒は退屈そうに背後から抱き着いてきた。この人のパーソナルスペースどうなってるんだ。


「樒はもっと仰々しい人だと思っていたんですけど」


「探ってるんだよ、涙ちゃんはどんな性格の人なら受け入れられるのかって」


 樒の顎が私の肩に乗る。私は歩きづらさを感じながら次の本棚の通路に入り、マッキに関する文献を探した。樒の言葉に疑問を持ちながら。


「意味が分からないんですけど」


「涙ちゃんはどんな人が好き? お淑やかな人? 凛とした人? 甘えんぼな人? 私は皇樒の異性の姿ではあるけど、皇樒本人でないからね」


 樒が私の腹部で両手の指を絡めている。私は文研の目次を見下ろしながら、樒が出した学生証の写真を思い出した。目には〈ヤマイの基礎知識〉という目次が入り、ページを開く。


 文献によればヤマイが先天性であることはほぼない。生活する上で突然発症し、確認され次第パナケイアに連行される。


 私は肩に顔を乗せている樒を見た。彼女の赤い瞳は私の手の中に向かっており、同じ文章を読んだのだろう。


 皇樒は、鏡に映った異性の自分と入れ替わるヤマイ。


「察したようだな? るーいちゃん」


 樒の空気が変化する。私の肌を撫でて、背筋に鳥肌を立てる嫌な空気に。


 私は文献を態と音を立てて閉じ、言葉を考えた。


「いいよ、そのまま言いな」


 人の頭の中でも読めるのかと本気で思ってしまう。そんな私の懸念を他所に、樒の空気は未だ体に纏わりついた。


「皇樒は元々一人ですよね」


「そうだな」


「ならば、鏡に映る異性はヤマイによって作られた存在になります」


「うんうん、良いね」


「……貴女が持っていた学生証、載っていた写真は皇樒でした」


「よぉく見てんじゃん」


 樒の細い指先が私の顎を撫でる。私は微かに目を細めて、自分に絡むヤマイに視線を送った。


「貴女は皇樒の、ですよね」


 無表情の樒の目が細められる。空気は満面の笑みでも浮かべたような柔らかなものだが、可視化されない笑顔は事故を呼ばなかった。


「せぇ~かい。ヤマイの具現化って言っても、たっだしいよぉ~」


 耳の奥に響く甘い声。彼女の酷く楽しそうな空気が私の全身を包んできた。


「私はね、樒から生まれたの。あの子が十三歳の時にね、ふわっと生まれたのが私。鏡に映った樒の写し。その意味分かる? 分かるよね? 賢い涙ちゃんなら分かるよね?」


 まるで、蛇のように。


 纏わりついた樒の手は私の顎を持つ。隙間を埋めるように体を密着させた彼女は、輝く赤い瞳で私を凝視した。


「貴女が映しているのは見た目だけ……中身は空っぽなのでは?」


「だぁいせぇかぁい」


 樒の空気が絡みつく。


「私の中身はスッカラカン。樒が十三年で培った性格も知識も私はゼロ! 経験も感情もなぁんにもない!!」


 樒は大げさな程に声を上げた。あぁ、彼女が読めないのはこういう所だ。


 皇には一定の性格が形成されていた。それは十三年間たっぷりと自分を作る時間があったからだ。しかし樒は違う。私が思い出したのは、樒が自分を説明した時だった。


 ――鏡の中ではふわふわした感覚だけど、記憶は共有してるし怪我や服装だって全く一緒。六時間以内に交代しないと体調不良を起こすから、こうして時間が来たら交代してるんだ


「考えてる。考えてるねぇ涙ちゃん。そうだよ。鏡に居る時は殆ど意識ないんだよねぇ。記憶は夢みたいに流れてくるし、怪我したら痛いけど。不思議だよねぇ、不可思議だよね。意識を無理に覚醒させてさっきみたいに騒ぐのも普段はしないからぁ、そりゃーもう私の性格形成ぐっちゃぐちゃなわけよ」


「ぐっちゃぐちゃ……」


 最初は淑やかな人だと思っていたのに、話せば話すだけ樒が分からなくなっていく。なんだろうな、この、空っぽのボウルに砂糖と油と唐辛子入れたような性格。


 私の肩に顎を乗せている樒は、穏やかな口調で語った。


「初めて入れ替わったのは学校だった。廊下の踊り場、大鏡。樒はとっても怖がってたね。でもちゃんと理解してくれたよ。理解しなかったのは周りの人。同級生も先輩も後輩も、親だって私を「樒」とはしなかった」


 唸るような低い声。私はこの人を、人格を形成できないまま育った子どもなのだと悟ってしまった。


 同時に皇について考えてしまう。十三歳の時に異性の自分が現れたら。それまで男だったのに、急に女である自分が生まれたら。


 想像するが、私は理解できるなんてほざけない。それは皇樒に対する冒涜だ。


 語る樒の声は穏やかなままだった。


「思春期って好奇心旺盛だもんね。体育の時間に樒が無理やり鏡に押し込まれたの。代わりに私が出たら、周りはみーんな男の子ばっかり。あぁ、今なら分かる。気持ち悪いね、気持ち悪いわ、気持ち悪いったらありゃしない」


 ――俺を守れるのは俺だけだ。だから俺は実働部隊ワイルドハントに入って、俺が狙われない平和な明日を求めてる


 皇はアテナの戦闘員を心底嫌悪していた。だから己の身を守る為に実働部隊ワイルドハントにいるのだと。


 けれど、もしもその言葉が全てでは無かったら。彼は戦闘員からだけでなく、ヘルスも同じくらい嫌悪して、全てから自分を守りたいのだとしたら。


 なんて、私は仮定しか立てずに耳を傾け続けた。


「勘違いすんなよ、私を囲んで笑っていた男達にも、遠くで笑ってた女達にも、何もさせてねぇから。させるもんかよ。樒が私に守るための言葉をくれたからな。頭の中で、ぼんやりとした意識でも叫んでくれたんだ。やられる前に――れってな」


 樒の指関節が鳴る。彼女は私の喉を指先で撫で、楽し気な空気を崩さなかった。


「私が最初に学習したのは暴力よ。私が私となる為に、樒の言葉に基づいて実践したの。樒の存在を糧にして、曖昧な私を私たらしめる意味を付けたの」


 樒の腕に力が籠もる。彼女は私を引きずるように移動を始め、文献コーナーを離れた。連れて来られたのは新聞コーナーであり、彼女は数年前の新聞を即座に手に取る。


 開かれたページには〈市内中学にてヤマイによる暴力事件〉と小さな記事が掲載されていた。重軽傷男女合わせて六人。場所は男子更衣室。ヤマイは無傷で教員に事情説明後、十八歳までパナケイアの保護観察下に入れられることが決定したと。あらまぁ。


「まぁ、相手の自業自得ですよね」


「だぁぁぁよねぇぇぇぇ! 男子更衣室に女子いるのおかしいって書けよマジ無能なブァァァァカヘルスッ!」


 性格の安定しない樒が書庫に響く声で肯定する。鼓膜が耳鳴り起こすだろ。私が言うのも何だがこの人の情緒は大丈夫だろうか。不安定の域を超えて決壊してるだろ。


「それでもね、なんにも知らない私のせいで、樒も窮屈な青春を過ごしちゃって。だから私は次に学んだ、空気を読むって事と、初対面の人にはいい子に見せたいから、丁寧に接する事。あと、暴力は誰にも気づかれないようにって事」


 つつましやかに喋る樒は数えるように指を折る。だから私と最初に会った時、無駄に寄り添うような態度だったのか。耳元では「涙ちゃんには失敗しちゃったけど!!」と叫ばれて再び耳鳴りがした。声量考えろよ。


 私は新聞を元の位置に戻し、少ないヤマイとマッキに関する文献漁りを再開した。駄目だな、どれも〈原因不明〉とか〈治療法無し〉しか結果出してない。無駄骨か。マッキの原因や共通点を知る研究でも見つかれば、そこから逆算してヤマイ抑制の研究に発展するとか思ったのに。


 私が考えたのだから、きっと今までの研究者や柘榴先生だって考えたに決まってる。それでも、私は嘉音と話す機会がある。今まで誰もアテナの奴らとは会話が出来ないと思っていたが、それは間違いだったのだから。


 例えどんな約束を結んでいようとも、どんな過程があったとしても、私は嘉音と話が出来る。アレスの誰も知らないことを知る機会がある。


 その為に私も、提供できるだけの知識がいるんだ。


 ヤマイに関しても、マッキに関しても。パナケイアに関しても――実働部隊ワイルドハントに関しても。


 私はあーだこーだと文句を垂れる樒を横目に、皇の言葉を思い出した。


 ――俺は基本的にアテナへ行かないし、プラセボとかメディシンも正直どうでもいい


「樒にとって、プラセボやメディシンは毒ですか」


「あぁ、猛毒だよ」


 平坦な即答にこめかみが痙攣する。


 彼女はヤマイそのもの。メディシンはヤマイを抑制する薬――樒を動けなくする毒になる。


 そりゃ、プラセボにもメディシンにも興味ないか。


「涙ちゃん達にとっては救いの妙薬でも、私にとっては煮詰まった劇物でしかないんだぁ。まぁ、どうでもいいけど」


 樒は静かに目を閉じる。


 私は自分のヤマイが嫌いであり、流海のヤマイも嫌いだ。だからメディシンやプラセボの研究が進めば良いと思っているが、樒からすれば自分を殺す研究が進んでいることになるのか。


 満場一致の最善策など存在しない。推奨された道具を使うか使わないかは、当人の自由だ。


 私は静かに息を吐き、樒の手を柔く叩いた。


「そうですね。どうでもいい」


「あら、意見が合うわね」


「ですね……そろそろ口調統一してくれません?」


「はぁい。ではでは、どれが涙ちゃんの中の私らしかった? 大学やパナケイアでは明るめお淑やか系でいってるんだけど」


「どれでもいいですよ、樒が楽なので構いません。貴女にも好き嫌いあるでしょ?」


「いや私そういうのねぇんだよ。グダグダ言わずにさっさと決めろや」


 横暴。


 口の奥まで出てきた文句を飲み込み、少しだけ考える。耳元で「早く早く」と急かされるが私の速度を乱すな。


 これまでの会話を思い出す。書庫の中で、彼女が最も彼女らしくあったのはいつだ。


 それはきっと……過去を語った時ではなかろうか。


「じゃあ、口悪い感じのやつで」


「マッジ涙ちゃん趣味わっる!! もしかしてマゾ? 罵られたい系!? まぁいっけどね! 普段と違う性格の選択どーも、お礼にチュッチュしてやろう!」


「いや結構です」


 樒は飛び跳ねながら私の頬に唇を突き出してくる。私は掌で彼女を静止し、何の収穫も得られない文献漁りを止めた。


「あっれぇ涙ちゃん帰っちゃうわけ? つまんねーから買い物行こう、女子会、ショッピング! 荷物持ちさせてやっからさぁ! ついでに涙ちゃんの服も買ってやろう!」


「結構です」


「は? 先輩命令拒めると思ってんの? 何様? もしかして指を食いちぎられてぇと?」


「そんな訳ないでしょってイダダダダ」


 拒否で出していた手を噛まれる。そりゃもう思いっきり、指噛みちぎられるのではないかと思える勢いで。


 しかし、私の中の「皇樒」はそうである。


 横暴で口が悪く、自分勝手に、自分中心に動き回る奴だ。


 だから、彼のヤマイである樒が穏やかであることに疑問しかなかった。お淑やか口調で私を気遣い、寄り添い、模範解答のような良い人である彼女は違和感だらけである。


 周りに苛ついて指関節を鳴らす姿こそが「らしい」と思って、私は樒に、皇のように口悪い態度を望んだ。


 不意に齧られた指を解放されたと思ったら、握られて引きずられる。自由人か。


 私は書庫から連れ出され、そのまま大学からも離れていった。


「まずはスカート見るぞ、お前のスカート。大丈夫だ金はある」


「買い物行く気ないですし、行ったとしても買いませんし、買うとしても自分で払います」


「遠慮すんなよ後輩。私達は永遠と動いていられるからな、バイトの掛け持ち数すげぇんだ。実働部隊ワイルドハントの給料もあるし、そこらの大学生よりは稼いでるだろうよ」


「そんな時間あるんですか?」


「賢い涙ちゃんなら察してるだろうによぉ。まぁいいか。私と樒は六時間ごとに交代する。相手に引き継がれんのは鏡に怪我や服装だけだ。記憶は目で見たからこそ引き継がれるが、疲労は違う。んな目にも鏡にも映らねぇものは交代すりゃリセットってことだよ」


「へぇ……鏡の中は休憩中、現実では眠らずに動き続けられるってことですか」


「ま、そう言うこった」


 喜々とした空気で、無表情の樒は私の手を離さない。


 あぁ、面白い情報を知って嫌になる。


 そんなに語ってくれるなよ。もっと疑り深く、注意深く生きとけよ。


 私は語られる彼女達のヤマイを理解しながら、目を細めていた。


 その時スマホに戦闘員が訪れた連絡が入る。樒は舌打ちし、私はこれ幸いとイヤホンを耳につけた。


「北区二ブロック目、及び東区四ブロック目にてアテナの戦闘員を確認。実働部隊ワイルドハントは至急行動を。相手戦闘員は各三名、ヤマイは現在路地裏を逃走中。ヘルスを巻き込むことは決して無いように」


「東区は私といばらちゃんがいるから行けるよ!」


「よろしく雲雀ちゃん、いばらちゃん。北区は誰か行けそう?」


「あ、その声は樒ちゃんだ! 女の子の方だ! お久しぶりです!」


「はーい、久しぶり」


 目の前で口調が百八十度変わった樒に思わずため息を吐いてしまう。彼女は私の手を離さず、棗からは純粋な喜びが感じられた。


「北区は僕と伊吹君で行くよ」


「ぇ、流海」


 私の心臓が一気に冷える。返事をしたのは流海だったから。私の中には動かなくていいと言う願いと、どうして伊吹の名前を出すのかと言う疑問が沸き上がった。


 それがイヤホン越しに伝わってしまったのか、片割れは私を安心させるように話してくれた。


「大丈夫だよ。僕を信じて、涙」


 ほだされる自覚がある。溶けるように、安心してしまう自分がいる。心配で堪らない気持ちが、流海の声で、言葉で、閉じ込められる。


 私は一瞬だけ奥歯を噛み、祈るように目を閉じた。


「ずっと、信じてるよ……流海」


「……ありがとう」


 そこで通信が一度切れる。私はイヤホンを外し、樒の目を見た。


 彼女は赤い瞳で私を射抜くと、仕方がなさそうに肩を落とす。そんな樒に私は軽く会釈し、金髪のヤマイは気だるげに鞄を肩にかけ直した。


「買い物はおあずけー、ってか」

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