アレス編 嚆矢の章

第4話 偶

「プリンターの調子が死ぬほど悪い」


「コンビニ行こうか」


「……うい」


 検査後の入院生活が終わって数日。委員会用の資料を印刷しようとしたら家のプリンターが動かなかった。印刷中に電源が切れるってなんだよ。やる気ねぇな。頭の血管切れそう。


 再起動をかけたり何だりと私がプリンターと格闘していれば、背後から抱きついていた流海に提案された。私はしぶしぶ賛成し、しゃがんだ流海の背中にしなだれかかる。プリンターと保健委員長に苛立っている足には力が入らず、軽々と片割れにおぶられたのだ。


「たかだが数十円、されど数十円……」


「保健委員長に会ったら請求しなよ」


「手間賃付きでする」


「それがいい」


 流海におぶられたまま自室に入り、壁にかけていた荷物を掴む。常に持ち歩いている応急手当セットの鞄だ。それにUSBと財布も一緒に突っ込み、やはり背負われたまま階段を下りた。


「連れて行ってくれるのかい、片割れ君」


「提案者は僕だからね、片割れちゃん」


「やったぜ、流海の背中と言う特等席で楽できる」


「なんとこちらは涙専用席だったり」


「最高かよ」


 馬鹿を言い合いながら玄関に置いてある帽子を流海に被せる。自分にも帽子を被せれば、流海は私の靴を持ってくれた。気が利くねぇ、流石だ。


「じゃ、頼むよ流海タクシー」


「目的地はコンビニ、経路は路地裏で行きまーす」


「いえい」


 二人でふざけながら夕暮れの中に歩き出る。私は流海の背中で瞼を下ろし、上着はなくとも体温があれば温かいのだと実感した。


 ――夕方の時間帯は人の行き来が多い。だから基本的に流海が外に出るのは夜か早朝か、平日の人通りが少ない時間を狙ってと言ったところだ。


 だから今の時間帯は通りを歩けない。すれ違う人と一瞬でも目が合えばヤマイが発症するだろうから。笑顔以外を向けられていると流海が認識すれば事故が来るから。


 私も笑顔を向けられていると認識したり目が合えばアウトだが、ただ道を歩くだけで笑っている奴なんて早々いない。


 だから私の印数は五で、流海の印数は六なのだ。


 路地裏に入れば、瞼を透かしていた光が弱くなる。狭くて暗い道を選んで進み、少し迂回しながらコンビニへ、か。


 一つ隣の大通りとは違い、静寂が広がる場所は不思議な空気を作り出す。まるで私達だけ違う世界に入ったような雰囲気。響く流海の足音と揺れを体感する。


 陰鬱とした空気と秋の肌寒さが頬を撫でた。瞼を上げた私は流海の首に腕を回し直す。すると流海がゆっくりと立ち止まり、顔を斜め上に向けた。


「流海?」


「……涙、あの人どう思う?」


 唐突な質問を受けながら流海の視線を追う。


 路地裏から見上げる橙色の空。それは狭くて遠くて絵画のようだ。


 そこにある異物は酷く見つけやすい。


 ビルの屋上。ふちに立つ影がある。


 全身を覆う黒い上着に、黒いつば広の帽子。


 顔には何かを付けているように見える。それも黒い何か。顔だから……仮面だろうか。


 黒いそれは立ち方が覚束ない。体が左に揺れて右に揺れて、立っていたと思ったらうずくまって……。


 私は黙って流海の肩を叩く。片割れは地面に靴を置いて私を下ろしてくれた。靴に足を入れて爪先を地面に打ち付ける。


「ありがと。あいつ、自殺志願者だと思うか?」


「んー……気の迷いを起こして柵を超えたけど、やっぱり怖気付いたって感じに見えなくもない」


「あの格好は一張羅だって?」


「黒い上着につば広帽、仮面もつけてって凄いよねぇ」


「夜のニュースにでも取り上げられそうだ」


 笑顔で流海と視線を合わせる。無表情の片割れは私の手に指を絡めてきたので、何事もなく握り返した。息をするように、当たり前のこととして。


 流海の手を握り締めて周囲を確認する。


 路地裏とは意外と物が多い。


 ビルに入っている飲食店のゴミ袋が出ていたり、段ボールがあったりする。


 さて。


「あの黒い奴は生きたがりか」


「死にたがりか」


「判断できない場合は」


「取り敢えず予防策を立ててみようね」


 ビルを見上げたまま言葉を並べる。今日も今日とて流海とは息が合い、私達は何事もなく意見を合致させた。


 流海と手を繋いだまま路地裏を歩き回る。視界に入った段ボールとゴミ袋、発泡スチロールを抱えられるだけ抱えて。蹲っている黒を時折見上げながら。


「ここら辺かな?」


「多分、きっと、恐らく。自信はない」


「涙に自信がなかったら僕にもないよ」


「流海に分からないことは私も分からないのと一緒だな」


「それだ」


 お互いに駄弁だべりながらゴミなどを重ねていく。落下した場合の地点を予想して、即席でクッションになりそうな物を運んできて。


 ビルの高さは四階程度。逆光だし蹲っている姿勢だから黒い奴の体躯は予想できないが、出来る限りのことはしてやろう。


 生きたがりか死にたがりか、判断できないのだから。


「「あ、ネットはっけーん」」


 流海と声が揃い、緑のネットを重ねたゴミや段ボールの上にかけてみる。


 見上げた先にいる黒い奴の体はやはり揺れており、自然とため息が出た。


 屋上には柵がある。柵があるのに黒い奴は外側にいる。


 持っていたウェットティッシュで流海と私はお互いの手を拭いた。指先まで丁寧に。終われば近くのゴミ箱にゴミを捨てる。


 少し距離を取りながら屋上を見上げ続ければ、揺れていた黒い奴はとうとう落下した。


 足を滑らせたように落下した。


 屋上の縁を掴み切れずに落下した。


 黒い上着をはためかせて、黒い帽子を飛ばして、悲鳴も上げずに落下した。


 その軌道を私と流海は無言で見つめ、作っていたゴミ山が激しい音を立てる。


 袋が破れて段ボールや発泡スチロールが弾ける音がけたたましく響く。


 ネットに絡まりながら地面に転がる黒い奴。


 打撲音らしきものも聞こえたが致し方ないだろう。普通に何もなければ頭蓋骨が砕けるような高さなのだから。


 うつ伏せに倒れて動かない黒い奴を見下ろしてみる。


 流海は私の肩に手を回して頭に頬を寄せてきた。


 だから私も流海の腰に腕を回して息をつく。


 お互いの体温を感じて、お互いの脈を感じて、お互いの呼吸を感じて。


「んー……私は気絶に肉まん一つ賭ける」


「なら、僕はギリギリ意識があるに肉まん賭けよ」


 お互いに肩と腰を叩き合う。


 夕焼け色が濃くなるような気がして、黒い奴の肩は微かに震えた。


「……ぅ……ッ」


「あ、意識あるな」


「やったぁ、肉まん奢ってね」


 流海が頭の上で声を揺らす。笑っているようだが、これは私への笑いではない。賭けに勝ったことに対する喜びの笑顔だ。誰にも向いていない笑みだ。肉まん一つで可愛い子だねぇ。


 ――今の私達を見た他人はなんと言うだろうか。


 どうして直ぐに手を貸さないのかと罵るだろうか。なぜ倒れている人に駆け寄らないのかと怒るだろうか。何を悠長な態度を取っているのかと人格を否定されるだろうか。


 しかし残念ながら、そんなことはどうでもいい。


 私達は他人に心を砕く程の気力がない。他人に気を使う前にお互いのことを気遣うのが私達だ。


 私の最優先事項は流海である。流海との平穏が大切で、流海の平和を害する奴は許さない。流海との日常を邪魔する奴は許容しない。


 今回は流海が黒い奴に興味を持って立ち止まった。それでいて二人とも黒い奴の真意を判断できなかった為に見つめてみた。


 それだけだ。それ以上でも以下でもない。


 私は流海の腰を抱き寄せて確認した。


「近づいてもいいと思うか」


「良いんじゃないか」


 片割れから許可を得て黒い奴に近づいてみる。流海は私の手首を緩やかに掴み、隣に並んだ。


 黒い奴は頭をこちら側にしてうつ伏せになっている。その顔にはくちばしがある黒い仮面が付けられており、地面には赤黒い液体が広がっていた。


 遅れて落ちてきた帽子を拾う。つばの広いそれは少し端がほつれており、よく見れば黒い奴が着ている服も薄汚れていた。


 ――ペストマスクさん


 ふと、脳裏を駆けた都市伝説を思い出す。


 黒の装束に黒いペストマスク。人を食べるだとか実験施設に送るだとか、誰かが言った噂話。


「は……ッぅ」


 また黒い奴がうめく。「ペストマスクさん」の腕が地面を掻く。


 都市伝説は信じる方だ。自分の存在が逸脱気味だし、不可思議な事象を否定することは流海や自分を否定することに繋がりそうだから。


 だから良くない都市伝説の部類に入るであろう「ペストマスクさん」には近づかないのがきっと正しい。信じているのだからそう行動するのが正解だ。勝手にビルから落ちたし。


 人が二人は入れそうな距離を開けて、「ペストマスクさん」の前に流海としゃがむ。これは自衛の距離だ。何も疑わずに近づくなんて愚の骨頂だろ。いや、ゴミを積んだ時点で馬鹿だったのだろうか。それだと流海まで馬鹿になるから嫌だな。ムカつく。


 血溜まりは地面にゆっくりと広がり続けていた。赤黒い鉄の匂いをさせるそれは、よく嗅いだことがあるものだ。


「こんにちは」


 力のない「ペストマスクさん」に声をかける。呻き声からして仮面の下は男だろうか。それともそう聞こえるだけで性別なんて無いのだろうか。


「怪我してるんですね」


 もう一度声を投げておく。初対面の相手には誰であっても敬語だ。マナーだと思ってる。「はじめまして」で相手の年齢も分からないままタメ口をきく奴は嫌悪対象にぶち込んでおくのが常だ。基本的に流海以外には敬語なんだけどな。


 まぁそんなことはどうでもいい。ていうか反応ねぇな、「ペストマスクさん」よぉ。


 地面に視線を向けて、流れる血の量から傷の程度を推測した。私の手首を掴み続ける片割れと。


「この傷はビルから落ちる前のものだと思うんだが、いかがでしょうか片割れ君」


「きっとそうだろうね片割れちゃん。服に血が固まってる部分があるし」


「オーケー。なら自殺志願者って想像は消えるな。この傷を自分でつけたならそこに留まってるだけで死ねる」


「そうなるね。この人あれかな。都市伝説のペストマスクさん」


「だと思ってるよ」


「良かった。涙も都市伝説を知ってるなんて驚いたけど」


「風の噂だよ。それで、この都市伝説が負ってる傷をどうみるかだけど……食べようとした人間に返り討ちにあったのか」


「実験施設に入れようとしたモルモットにでもやられたのか」


「もしくは全く別の理由か」


「ビルから落ちてきたし、やっぱりこの人が生きたいのか死にたいのか分からないや」


 小さく呻くだけの「ペストマスクさん」を流海と一緒に見下ろし続ける。血は流れ続けており、せた仮面が揺れていた。


 ここで悲鳴を上げる可愛い性格はしていないが許せよ。残念ながら怪我も血も慣れ親しんだ友達だ。ムカつく。


 私は再度「ペストマスクさん」に呼びかけた。


「救急車呼びますか? 放っておきましょうか?」


 答えない「ペストマスクさん」は指先を動かしたが直ぐに脱力したらしい。ムカつく。


「手当しますか? 不要ですか?」


 鞄に入れてある応急手当セットを出してみるが無関心。ムカつく。


「水を買ってきましょうか? 止血をしますか?」


 問いかけても無反応。ムカつく。


「意識はありますよね。助かりたいのか死にたいのか、意思表示してくれます?」


 やはり無反応。ムカつく。


 ムカつく、ムカつく、ムカつく。


 私は包帯とガーゼを持った片手を脱力させ、爪先まで迫った血を見下ろした。


 ムカつくなぁ。


 流海に手を離させ、一人で立ち上がる。流れる血を踏みにじって。


「涙」


「平気」


 片割れと言葉を交わして自衛の距離を詰めれば、初めて「ペストマスクさん」は顔を少しだけ上げた。


 鳥の顔が微かにこちらを向く。その嘴を掴んで顔を寄せれば、息を呑んだような音を聞いた。


 なんだ、ムカつくなお前。


「質問に答えてください鳥頭。答える気がないなら呻かないでくれますかね、わずらわしいので」


 再び足元の血を踏みにじって、そのまま「ペストマスクさん」の体を仰向けにさせる。黒い体を跨いで鳥頭を見下ろすと、相手は初めて慌てたような素振りを見せた。


 なんだ、動けるんじゃねぇか。


「貴方は死にたいのか生きたいのか。残念ながら私も片割れも判断しかねます。ビルから落ちてきたわけですし、危ない場所に立ってたのは貴方なわけですし。私達には貴方を気にかける義理なんて無いんですよ。気にかけざるを得ないような態度とるくせに、いざ声をかけたら無視するってどうなんですか。無視するなら元々気づかれないようにしてください。死にたいなら呻かず喚かず気づかれずに黙って死ぬのがいいですよ。死にたくないならそれ相応の答えを出してください。以上です」


 慌てていた「ペストマスクさん」の手が固まる。


 は、ふざけんな。


 誰が固まれって言ったよ。


 意思表示しろって言ってんだよ鳥頭。


 苛立ったので指が鳴る。


 そうすれば鳥頭は再びせき込み、地面を掻いていた腕が動いた。


 それは震えながら私の靴の爪先に触れる。そのまま今度は足首を掴んでくるから、私は意思表示に頷いた。


 瞬間、流海が勢いよく都市伝説さんの手を叩き剥がす。苛烈ですな。


「決まったよ流海、鳥頭は生きたいらしい」


「そうらしいね。救急車呼ぶよ、この血だと輸血が必要そうだ」


「ありがと。その間に応急手当しとくわ」


 流海は無表情に立ち上がり、私は微笑みを携える。そうすればお互いに事故を起こすことは無く、顔を突き合わせて会話が出来るから。


「お、い……なに、を」


 再度足首を掴まれる感覚がして下を向く。


 倒れたままの「ペストマスクさん」は荒い呼吸で、流海の動作が止まっているとも視界の隅で理解した。


「ペストマスクさん、輸血がいると思うので救急車呼びます。その間に応急手当しますね」


「……きゅう、きゅうしゃ、って、なんだ……」


 あ、駄目だ。コイツ会話が通じないわ。


 私は笑顔で流海を見る。真顔の流海は眉を痙攣させ、二人でもう一度「ペストマスクさん」を見下ろした。


 その時「ペストマスクさん」の服の裾から金属音がする。


 落ちたのは――ナイフ。


 柄も持ち手も恐ろしいほど綺麗な白色で、刃は透き通るような青さをもったナイフ。


 私は笑顔のまま首を傾け、真顔の片割れがスマホを仕舞ったと分かっていた。


「……これ、救急車呼ばない方がいい気がしてきた」


「賛成だな」


 再び流海と顔を見合わせて、同じ方向に首を傾ける。その間にも「ペストマスクさん」は深く噎せている為、私と流海は同じことを考えた。


「応急手当して家に連れて帰ろうと思うが、どう思う片割れ君」


「怖いけど……同じこと考えたし、賛成するよ片割れちゃん」


「大丈夫、流海になんかしようとしたらぶっ飛ばす」


「涙に何かしようとしてもタダじゃおかないよ」


 私は笑って指を鳴らし、流海は真顔で息を吐く。


 そうと決めた私達は「ペストマスクさん」の体を触診し始めたのだった。

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