第91話 凍

 

「朔夜君は、どうして流海君と涙さんを気にかけてるの?」


 パナケイアの廊下で、永愛は不意に問いかけた。彼の前では脹脛を斬られた抑制部署の面々が呻いており、光景に反して蜂蜜色は柔和である。


 朔夜は目の前で繰り広げられた暗殺未遂に何も言う事は無く、IDカードがなければ入れない治療室を開けた。中身はもぬけの殻であり、柘榴と蓮がいた様子はない。


 灰色の少年はやはり「実験室」を探さなければいけないかと嘆息し、永愛に対する返事も考えた。


 朔夜が、笑顔に呪われた双子を気にかける理由。それは朔夜の胸だけに仕舞われたきた事実のせい。一度流海に懺悔しようとしたが、拒絶された事項のせい。


 彼はトンファーを回し、誰もいなかった治療室の扉を閉じた。


「……自己満足だよ」


 * * *


 伊吹いぶき朔夜さくやは、妹の小夜さよがマッキになったことをきっかけに実働部隊ワイルドハントに入った。


 物心ついた頃から少年はヤマイ――肌が触れ合った部分を凍らせる事象を患っている。


 彼のヤマイは己にも他者にも危害を与える、印数六に相応しい事象と言っても過言ではない。


 朔夜は気づけば左手に印数があり、手袋越しでしか他人に触れられなかった。それは彼がかつて居た孤児院の院長でも、妹の小夜であっても変わりない。


 彼と小夜を捨てた親については顔も名前も、声も分からない。院長とは否応なしに離れてしまった。次の孤児院では責任感と加護欲で小夜の傍に居続けた。


 伊吹朔夜は、他人の温もりを知らないまま成長したのだ。


「小夜、小夜は……?」


「大丈夫だよ、今はもう落ち着いてる」


 凍える部屋にいた妹に、朔夜は言い知れない恐怖を覚えた。彼は化け物になる妹を恐れたと同時に、自分が天涯孤独になることを恐れたのだ。


 守る者が無くなった時、朔夜は自分の道が分からなくなってしまう。院長から妹を頼むと言われて、少年は一生懸命やってきたつもりなのに。壊れてしまいそうな心地で、心だけは冷えないように努力してきたのに。


 朔夜が優しくしたいと思ったのは小夜だけだった。妹だけは、兄として守り、優しくしていたいと思い続けていたから。


「……アテナに行く。アレスに来る戦闘員も相手する」


 人肌を知らない少年は、白い衣装で全てを覆い隠してしまった。


 朔夜は小夜がマッキになったことをきっかけに孤児院を出る。実働部隊ワイルドハントに所属することで給金を得て、自分達を恐れる者達から離れる道を選んだのだ。


 そんな朔夜の働き方は間違いなくオーバーワークだった。


 アテナでαやβ、γを採取する為に走り回り、アレスにやって来る戦闘員も出来る限り処理しようと武器を握った。彼の躊躇ない働きを他のメンバーは見ていたが、誰も強く止めることはしない。


 白い衣装に血をつけた朔夜には、誰の言葉も届かないと皆が分かっていた。


「ワーカーホリックだねぇ」


「止まりませんね、あれは」


「だろうな」


 皇は今日も軽快に狼牙棒を振り回す。葉介は転移室に消えた灰色を横目に、自分が傍に居たいと思う少女の元に戻っていった。


 朔夜は我武者羅に走り続けた。体内で巡る感情は、小夜がマッキになることを恐れていた。妹が化け物になることを止めてやりたかった。その為の薬はどれだけあっても足りない気がして、少年は渇望してしまう。


 だから、アテナの戦闘員にも目をつけられたのだろう。


 ある日、朔夜の足が的確に撃ち抜かれた。


 体勢を崩した少年は地面を転がり、たまたま動いたトンファーで銃弾を弾く。肝を冷やした朔夜は、息つく暇なく鳩尾を蹴り飛ばされた。


 少年はペストマスクの下で噎せ、肩や二の腕、脇腹を銃弾で撃たれてしまう。


「ッ、ぁ、が!!」


 呻く朔夜の体を足蹴にし、仰向けに転がした殲滅団ニケ。端正な顔を黒髪で隠し、凍てつく瞳を細めた男だ。


 朔夜に向かって銃を構えた殲滅団ニケ――おぼろは、無感動な表情でペストマスクを見下ろした。


 意識の霞んでいた朔夜に、朧の行動を理解することなど出来ない。ただ全身が痛く、呼吸するのも一苦労で、訳も分からない走馬灯が流れるだけだ。


 もしも自分が死んだら、妹はどうなるのだろうか。世界を見られない妹は、誰か優しい人に出会えるのだろうか。


 朔夜の頭を埋めるのは後悔と不安ばかり。だから少年は、混濁しそうな意識で手を動かそうとした。


 その手の甲を朧は撃ち抜く。血飛沫が飛び、朧は灰色の目を細めていた。


 殲滅団ニケの彼は、トンファーを持ったヤマイを記憶している。自分達の任務を高確率で邪魔するヤマイであり、常に手袋をした存在だ。


 手袋は印数が大きい証だと朧は踏み、アレスでマッキにした方が効率的だと値踏みした。


 もちろん朔夜は朧の思惑など知らない。少しでも動けば撃たれる痛みに視界が滲み、譫言うわごとが漏れた。


「……しにたく、ねぇ、まだ、死ね、な、ぃ」


 流れる走馬灯には酷い言葉ばかりが浮かんでくる。朔夜はそんな過去も社会も嫌悪して、酷い世界に妹だけを残したくはないと願っていた。


「しね、ない、まだ、は、っ、さよ……」


 朧はくぐもった朔夜の言葉を聞き取れない。無様に地面を掻くペストマスクの姿は愚かにしか見えず、朧は最後の弾丸を確認した。


 マッキにするだけの理性決壊薬はまだ投与できていない。嘉音が使う薙刀のような刃物であればもう少し量を入れることが出来るのだが、朧が使うナイフはその時ちょうどメンテナンス中だった。先日、アレスで樒と対面した時に刃こぼれを起こし、数本折られてしまったからである。


 朧は銃で相手の移動能力を削り取り、最後は刃物で理性決壊薬を投与することを基本スタイルにしていた。的確に、堅実にヤマイを排除し、アテナで瀕死に持ち込んだ実働部隊ワイルドハントはアレスに帰してマッキにさせる。そうすれば他のヤマイも巻き込めて一石二鳥となるのだから。


 朔夜に対してもこれだけ痛めつけていれば暫くの間は大人しくなるだろうと仮定し、引き金になる残量はアレスで投与しようと結論を出した。


 朔夜は無意識のうちに砂時計を出し、震える手で逆さにする。朧は無表情のまま銃口を向け、砂になる手前の太腿を撃ち抜いた。


 血だらけの朔夜は息も絶え絶えに転移室に戻る。そこに居合わせた永愛といばらは顔面蒼白となり、朔夜は集中治療室に入れられた。


 三日三晩昏睡状態となった朔夜は、目覚めた瞬間、小夜に叩かれた。覚醒していなかった意識は強烈な平手で引き上げられ、朔夜は妹を見る。


「ばか、おにいちゃんの、ばかぁ……!!」


「さ、小夜ちゃん!」


「気持ちは分るけど、今、いまは落ち着いてっ」


 ベッドに横になり、自分がメディシンを投与されている様子を朔夜は確認する。彼の目はそのままいばらと永愛に押さえられた小夜に向かい、唖然とした。


 包帯をぐしゃぐしゃに濡らして、小夜が泣いている。鼻先は真っ赤になり、朔夜の頬を打った掌は兄のヤマイによって凍っている。


「さ、よ、おまッ」


「馬鹿!! お兄ちゃんのばぁぁぁか!!」


 小夜は素手で何度も朔夜の頬や額を叩く。その度に兄妹の皮膚は凍っていくのに、小夜は止まらなかった。


「こんな、無茶、いやだ、ぃやだ、嫌だよぉ」


 小夜は人目もはばからず泣きじゃくり、朔夜の体の上に伏せてしまう。凍った掌を握って、布団の上から何度も兄の体を叩きながら。


 朔夜は傷に響く痛みも他所に放心してしまう。いばらと永愛は困った顔で右往左往し、朔夜は包帯の巻かれた手を見た。


 兄の手が妹の頭に乗る。ゆっくり撫でられる頭に小夜は声を上げて泣き、朔夜は静かに瞼を下ろした。目尻から、熱い雫を一粒ずつ流しながら。


「……ごめんな、さよ」


 渇いた喉で、震える声で、朔夜は謝罪する。小夜は病室に響く嗚咽と共に悪態をつき続け、兄に約束させた。


 怪我をしたら直ぐに引く。

 決して、決して命を懸けるような無理はしない。


「分かった!? そうしないと、お兄ちゃんなんて、大っ嫌いになるんだからね!!」


「わかった、分かった、から……ごめん」


 朔夜は暫くの間、小夜に謝り続けた。いばらと永愛は眉を下げて苦く笑い、朔夜は二人にも謝罪する。


 その日から、朔夜は少しでも怪我をすれば引くことを覚えた。


 アレスではヤマイを救う事を優先し、怪我をすれば戦闘員を深追いせずに逃走経路を考える。アテナでも同様に、怪我をしないようにすることを念頭に置いて材料採取に励んだ。結果、実働部隊ワイルドハントとして活動する頻度は変わらずとも怪我の率は格段に減った。


「……見誤ったか」


「朧がちゃんと殺しとかないから」


「後のことを考えたら効率的だっただろ」


「そりゃそうだけど、アイツ、理性決壊させるだけの投与難しくなっちゃったよ」


「また撃つさ。それが殲滅団ニケの仕事だ」


「そうしてよね」


 黒いペストマスクをつけた朧と嘉音かのんが、朔夜を遠くから観察する。ヤマイを連れて大通りに出た朔夜は二人の存在に気づいておらず、朧と嘉音の足元には救われなかったヤマイが倒れていた。


 印数一の女と印数三の男、それに印数二の老人。朔夜が連絡を受けたヤマイの人数と合わない事に焦りを覚える一方で、嘉音はリングダガーを回した。


「たす、たすけ、」


「黙りな害悪」


 弱いヤマイはその場で殺す。


 嘉音のナイフは印数三の男の喉を裂き、絶命している女と老人の上に転がされた。


 助けられなかったヤマイを見て、抑制部署に所属する蓮がどれだけ心を痛めるかも知らないで。嘉音と朧は自分達の正義を掲げている。


 朔夜は助けられなかったヤマイに奥歯を噛み、それでも妹の為にアテナへ飛んだ。


 全てを救う事は出来ないと学んで、自分が救いたい者だけ救えていれば良いだろと気持ちを切り捨てて。


 アテナを駆ける朔夜はトンファーを握り締め、気づけば一年近く実働部隊ワイルドハントとして活動していた。


 白銀の世界を駆け、残りはγを採取すれば良いと言える時。灰色の彼は林の中で見てしまう。


 突如視界の端に現れた黒いペストマスクと、抱えられた一人の少年を。


 勢いよくペストマスクを剥いだのは、朔夜を瀕死まで追い込んだ朧である。


 彼の腕の中では、黒髪の少年が藻掻いていた。


「はな、せ、ぁ、ッ、な、はッ」


 少年は喉を掻き毟り、毒の空気を吸い込んでしまう。


 指先は痙攣し、暴れる足は力なく地面を蹴る。


 朔夜は思わず林に身を隠し、朧と少年を観察してしまった。


 朧は噎せながら少年を離し、色の悪い顔で深呼吸を繰り返す。


 少年は喘ぐように襟を掻き、左手につけた手袋を毟り、意味もなく頭を抱えていた。


 朔夜は見る。少年が血を吐いて悶える姿を。左手に印数六が刻まれいてる姿を。


 毒に侵食されるヤマイ――空穂うつほ流海るかは、恐ろしく美しい世界で血を吐き続けていた。


(あいつ、ヤマイだ。嘘だろ、なんで、ペストマスクしてねぇし、やべぇ、このままだと、アイツ死んで、死、おい、ま、俺、どうしたら)


 朔夜の背中を冷や汗が伝う。体は硬直し、悶える流海と彼を見下ろす朧で視線が釘付けになった。


 朧は流海を見下ろし、自分のナイフが無いことに気づく。それでもこのまま流海を放置すれば、間違いなくヤマイが死ぬことは分かっていた。


 脳裏に自分を手当てした双子の姿でチラついても、転移する寸前に手を伸ばしていた空穂うつほるいの姿で浮かんでも。


「……ヤマイは、死なねばならないんだ」


 朧の呟きは流海にも朔夜にも届かない。彼は散漫な動作で踵を返し、朔夜は動けないままだった。


 朔夜は朧を畏怖している。自分を半殺しにし、何度もアレスではヤマイを手にかける瞬間を見て、あの灰色の目に慈悲など無いと覚えてしまったから。


 朔夜は、自分の足が震えていると気づいた。


 今、自分はまだ朧にも流海にも気づかれていない。実働部隊ワイルドハントとしてここにいるのは材料の為であり、小夜の為だ。


 だから、自分には流海を助ける理由がない。同じヤマイだとしても知らない相手で、既に吐血している少年はきっと長くない。


 それに、自分が飛び出しても確実に救える保証はない。既にαとβを採取しており、身軽な状態とは決して言えないのだから。


 ――君達は優しい子だ。でもね、出会う人すべてに優しくしようだなんて思わなくていい。自分の心を大事にしなさい。優しくしたいと思う人にだけ優しくして良いんだ。友達になりたいと思った人だけ大切にしたって、この世界では許される


 朔夜の頭で院長の言葉が回る。朔夜は温かい言葉を、自分を納得させる為に反芻した。


 出会う人すべてに優しくはできない。自分の心を大事に、大事に。救えない者はいる。見ず知らずのヤマイを無理して救う義理はない。自分の優先はプラセボの材料で、朧には勝てないから、だから、だから、今は無視していい。見過ごしていい。見放していい。


 何度も何度も朔夜は自分に言い聞かせる。苦しみ悶える流海の姿を目に焼き付けながら、少年を助けない理由を作って、自分に刷り込んで。


 それでも、その時。


 流海は血反吐と共に、誰かの名前を呼んだから。


 逃げかけた朔夜は、その場を離れられなかった。


「る……ぃ」


 それは、流海が愛してやまない片割れの名前。


 足を止めた朧は、目を見開いて流海を見た。


 朔夜は浅い呼吸で二人の動向を見つめてしまう。


 朧は動く気配のないまま流海を凝視し、油汗をかいた流海は地面を爪で掻いた。


「るい、ごめ、るい、るぃ……るい」


 朔夜の耳に、微かに流海の言葉が届く。痰の絡んだ酷い声でも、小さく消えそうな声でも、朔夜は確かに聞き取った。


 その姿は、死にたくないと思った自分の姿と被るから。


 死ねないと零した自分よりも、誰かの名前を呼んで泪する少年が尊く見えたから。


 気づけば朔夜は、駆け出していた。


 地面を強く蹴って、砂時計を握り、きっと、きっと、一緒に帰れると希望的観測を巡らせて。


 命を懇願しない流海に朧は硬直してしまう。


 その理由も知らないまま、朔夜は流海の腕を掴み、砂時計を逆さにした。


 朔夜の体と流海の体が同時に砂になる。実働部隊ワイルドハントでもなく、パナケイアが準備した砂時計を持っていない流海は「物」として認知されたのだろう。


 朔夜は転移室に倒れ込み、血だらけで気絶している流海に叫んだ。


「おい! 起きろ、おいって!!」


 確認すれば、脈は微弱に続いている。呼吸も浅く細いがしている。


 ペストマスクを外した朔夜は流海を抱え、自分が知る中で最もまともな研究員の元に駆け込んだ。


「霧崎さん!!」


 突然の訪問に柘榴の手から資料が落ちる。


 悲鳴を上げた彼女は、血だらけの流海を抱えた。


「なんで、流海、るか、るかッ!!」


 泪する柘榴の目が朔夜に向かう。少年は彼女の目に、喉を締め付けられた。


 柘榴はすぐさま流海を治療室に運び、蓮の元には家に戦闘員が現れたと連絡が入る。


 目まぐるしい騒動の中で、朔夜は治療される流海と涙を見た。


 悲痛な声で二人に呼びかける柘榴と蓮の姿を見た。


(俺……なに、考えたんだっけ)


 ――例えヤマイが悪いものだと言われ続けても、君達自身が悪い人になった訳ではないんだよ


 朔夜の耳の奥で院長の言葉が響く。少年は左胸を掻いて、掻いて、掻き毟って、自分が見捨てかけた少年から逃げ出した。


「伊吹、教えてくれるか? どこで流海を見つけたか」


 憔悴した蓮に問われた時、朔夜の喉で言葉がつかえた。柘榴の目元は赤くなり、朔夜の体温が上がっていく。


 彼は流海を見放そうとした。見捨てようとした。そんな真実は……語れない。


「……パナケイアの近くに、倒れてたんです。俺はそれを、見つけただけ、です……すみません」


 朔夜の口から零れたのは、弱々しい説明だった。柘榴と蓮は少年の言葉を受けて、安堵と不安を混ぜ合わせた顔で感謝する。


「ありがとう、流海を見つけてくれて」


「本当にありがとう、伊吹」


 二人の言葉に、朔夜の顔は火を噴くように熱を帯びた。少年は、震える唇を隠すように頭を下げてしまう。


「俺が見つけたって、言わないでください。誰にも、本人達にも」


「そんな、伊吹、どうし、」


「お願いします」


 朔夜の声が震えている。蓮と柘榴は困惑した顔を見合わせたが、少年の頼みを呑んだ。


 灰色の少年は誰にも言わなかった。アテナで見た光景も、自分が何を思ったかも、どう行動しようとしたかも。


「参ったぜ。あの双子、よりにもよって朧の傷を手当てしてたんだぜ?」


 怪我をしていた皇に声を掛けた時、朔夜は金髪の彼から愚痴を零された。先輩は「折角のチャンスをー」と首を鳴らしていたが、朔夜の目の前は歪んでしまった。


 自分は、ヤマイだと分かった流海を捨てようとしたのに。

 流海と涙は、素性も知らないペストマスクを見捨てなかった。


 朔夜の心は罪悪感で埋め尽くされる。呼吸が痛くて、自分の行動を責められている気がして。


「止めとけ棗。これは褒めちゃいけない勝ちだ」


 路地裏で涙と初めて対面した時、彼女に称賛を送った雲雀を朔夜は咄嗟に否めた。


 脳裏には吐血しながら涙を呼ぶ流海が浮かび、目の前の少女は片割れの為に血を流していたから。


 血を血で洗うような涙の行動に、朔夜は閉塞感を覚えた。


 自分がもっと早く助けていれば、流海が吸う毒の量は違ったかもしれない。涙が実働部隊ワイルドハントに入ることはなかったかもしれない。そんな彼女の行動を止める権利は自分には無いかもしれない。


 罪悪感と共に涙と邂逅した朔夜は、流海が目覚めたと聞いた時、少年が生きていることに安堵していた。


(俺は、人殺しにならなかった)


 朔夜は、駆け出した涙達とは違うことを考えていた。流海が自分を覚えていたらどうすればいいのか、恨まれて非難されたらどうすればいいのか。少年は微かな不安を持っていたのだ。


 しかし、そんな気持ちは直ぐに吹き飛んでしまった。


 何も知らないようにメンバーの鞄を持って、一人何食わぬ様子を装って近づいた時。


 涙は、目覚めた流海を見て泣いていたから。


 どれだけ怪我をしても顔色を変えず、血だらけでもアテナに行こうとしていた少女が、泣いていたのだ。


 静かに静かに、嗚咽を零すことも無く、微動打にすることもなく。


 朔夜の呼吸が止まる。


 柘榴に背中を撫でられる涙の泣き顔は、美しくすらあったのだ。


 口を結んだ朔夜は、病室に踏み込んだ涙から目を離すことが出来なかった。


「アテナのペストマスクを助けたんだってな」


 涙の頭を思わず撫でてしまうのは、自分の事を直視して欲しくないから。


「でも……そうだよな。お前らは悪い事、してねぇよな」


 彼は双子の行動を肯定していた。同じヤマイを見捨てようとした自分よりも、得体の知れない相手を救った二人の方が美しいと感じていたから。


 朔夜は双子を見つめるようになった。流海の為に走り回る涙が心配で、涙を想って動き始めた流海も気がかりで。


 アテナの洞窟で双子が「ペストマスクは朧だ」と知っていた時、朔夜の心臓は重く拍動した。


 二人が知らない筈の事。それを何故知っているのか。自分のことも流海は気づいているのか。もしかして二人は、アテナの戦闘員と繋がりを持っているのではないか。


 震えた朔夜は、双子に思わず武器を向けた。双子を疑い、自分の醜い行いも暴かれているのではないかと怯えたから。それが杞憂だったとも知らないで。


 朔夜は常に罪悪感を隠して双子を見続けた。吐血する流海を見て、一人で走ろうとする涙を見て、鳩尾を握り潰されるような心地を抱きながら。


「お前らと友達になりたいと思ってるのが、朝凪と永愛だけだと思うなよ」


 その心は、いばらと永愛とは違うけれども。


 心配しているのも本当。双子に離れていって欲しくないのも本当。友達になりたいのも本当なのに。


 双子の今は自分のせいだと自戒する朔夜は、友達になれば許される気がしていた。


「伊吹、貴方と朝凪は似ています。自分の周りで起こる悪いことは全て自分のせいだと抱えてしまう。朝凪はそれを伝えてくれる分まだマシですが、貴方は誰にも告げないから尚更質が悪い」


「だから、流海に伝えようとしたら怒られたんだよ」


「だってそれは伊吹が背負わなくていいことですから。聞く前に怒るでしょうね」


 朔夜はテラスで自分の唇に触れた涙を思い出す。


 それは、彼が初めて感じた人肌の温もり。初めて触れられて他人の温かさ。


 黒い瞳は朔夜を射抜き、灰色の彼は体温を跳ね上げた。


(どうか、そんな綺麗な目で、俺を見ないでくれよ……見透かさないでくれよ)


 一度間違えかけた朔夜は、双子に本音を伝えない。伝えないまま勝手に背負って、勝手に追いかけて、勝手に心配するのだ。


 もう、道を見誤ってしまいたくないと自分に言い聞かせて。


 ――みんなに好かれる人にならなくていい。分け隔てない温かさなど持たなくていい。ただ、共にいたいと想った人の隣に立てる人でありなさい。守りたいと想った人を傷つけない人でありなさい


(分かってる、分かってるよ、院長。俺はもう、間違えない)


 朔夜はトンファーを握り締めてパナケイアを駆ける。


 双子が救いたいと願った人達を見つける為に。

 双子の隣に立てる人になれるように。

 パナケイアを、戦闘員を、決して許さないと心に刻んで。


 自戒を続ける灰色は、己の道を決めていた。



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