第58話 決

 

 流海が咳き込んでいる。


 酷く咳き込んでいる。


 指の間から赤が滴る。


 暗い赤が重たく垂れる。


 背中を撫でてあげなくてはいけない。


 赤を拭ってあげなくてはいけない。


 ティッシュでは足りない。タオルを持って、駆け寄って、流海の両手から零れる赤を受け止めて、あげ、ないと……。


 頭の中で、私は血相を変えて流海に駆け寄っている。必死になって名前を呼び、先生達と共に流海を支えた。


 自分の手に血が付こうが何だろうが関係ない。喉が痛んで目の前が滲み、震える奥歯が自然と鳴った。


 しかし、それは空想に過ぎない。現実の私は一歩たりとも動けていないのだから。


 しゃがみこんで咳き込む流海は、たんが絡んだ音を立てて血を吐いた。


 私と流海の間に花弁が散らばる。私のギプスが外れたからって、大げさなくらい喜んだ流海が花束をくれたのだ。笑えない代わりにくれた花と白い包み紙には、不釣り合いな赤い斑点が飛び散った。


「流海、流海ッ! くそ、猫柳! 私の研究室に運んでくれ! 輸血パックを持ってくるから!!」


「あぁッ、流海、平気だ、大丈夫だからな、落ち着け、平気だ!」


 狐面をつけた柘榴先生と、ペストマスクをつけた猫先生が鋭い会話をする。白いパナケイアの廊下で、どうして二人しか流海の名前を呼んでくれないのだろう。


 一緒に帰ろうって、数分前まで話していたのに。治ってよかったって、数秒前に抱き締めてくれたのに。


 血だらけの流海を抱えた猫先生の「大丈夫だ」は、まるで説得力がなかった。


「……流海?」


 顔色の悪い片割れを見る。薄く目を開けた流海は苦渋の色を顔に浮かべて、悔しそうに奥歯を噛んだ。


「――ごめん、涙」


 その、一言で。


 感情が引き千切れる。


 滲みを受け止めていた気持ちが、音を立てて引き裂かれる。


 流海のたった一言が刃となって、私に被せられた優しさの布を切り刻む。


 ――涙さん、私達もいますから


 信じてしまった優しさが、私に首を吊らせる。


 ――二人ぼっちにならなくていいよ、一人で頑張らなくていいよ


 滲んで纏っていた布が手足に絡んで、自由が利かなくなる。


 ――逃げるな、空穂


 違う、私は優しい人達から逃げなかった代償に――流海の時間を犠牲にしたんじゃないかッ


 擦り切れた感情が発火する。


 私の足が床を蹴る。


 手足に絡まる感情を捨てて、捨てて、破いて、胸を掻き毟りながら。


「涙!!」


 柘榴先生の制止を振り切って廊下を駆ける。


 未だに左足は痛んだが関係ない、私の視界が滲むが関係ない、廊下を歩く誰にぶつかったって関係ないッ


 道具室に突撃して装備を一式奪い取る。帰り支度をしていた桜は目を見開き、何か言ったが関係ない。


 私は走りながら上着を羽織ってアルアミラを被り、ライオスを入れたペストマスクをつけた。


 帽子を被ってウォー・ハンマーを回し、転移室で乱雑に手袋を嵌める。


 掴んだ砂時計を逆さにして、腰には朧のナイフと、嘉音から奪ったリングダガーを引っ提げてッ


 早く変われと強く願う。


 早く砂になれ、早くアテナへ行かせろ、早く、早く、早く早く早く――早く!!


 浮かんだ優しい人達の姿に鼻の奥が痛くなる。誰もが私の手を掴み、繋いで、引き留めて、やめろと叫ぶ気がしてる。


 それでも、それでも、あぁ、それでもッ!


 私は、流海を捨てることなんて出来ないから。


 どうしても、何をしても、流海を救いたいからッ!!


 目の前が純白の世界に変わる。想像できうる天国に最も近い世界。最後に私がいた岩山の裾。私達を襲った瓦礫のつぶては変わらず地面に埋まっており、それが元からある正しい形のようにすら見えてしまった。


 私達にとっての毒が蔓延した世界。アテナの空気を吸って流海は苦しんでいる。あの子は何も平気ではなかったのに。何も大丈夫ではなかったのに。


 ――僕は元気だよ、涙


 ああ、あぁ、流海、流海、流海ッ


「――ッ、嘘つき!」


 ペストマスクを左手で覆い、ウォー・ハンマーで地面を砕く。麗しの世界の土では何にもならない。木の幹も水も、αもβもγも流海を救わない、治さないッ


 目の前で倒れ伏した流海が鮮明に蘇る。抱き締めていた体を突然離して、急いた顔で逃げようとする片割れの姿が浮かんでくる。


 いつもそうやって隠していたのか。平気なふりして私の手を握っていたのか。苦しいのを隠して、私にメディシンを投与して、あぁ、なんて、なんて、なんてなんてなんて!!


「――涙」


 背後からかけられた声に鈍器を振り抜く。


 甲高い金属音と共に見たのは、両手の五指に黒い指輪を嵌めた男の姿。灰色の瞳は私を凝視し、ハンマーの柄を両手で掴まれていた。


 戦闘員――嘉音の両手がウォー・ハンマーを凪ぐように落とす。流れるような動きに私は反応できず、嘉音に腕を掴まれた。


 黒い指輪を知っている。その内側には刃がついている筈だ。しかし今は仕舞われているようで痛みはない。


 無気力に引き寄せられ、くちばしに嘉音の顔が近づく。男は私を見つめて、岩山の洞窟に引きずり込んだ。


 夜を知らない世界の中で、周りの光りが届かない場所。薄暗い洞窟に入った瞬間、私の膝からは力が抜けた。嘉音は私の二の腕を掴んだまま少しだけ腰をかがめている。


「……どうしたの。俺の前で崩れるなんて、君らしくもない」


 降ってくる嘉音の声に反応できない。私はウォー・ハンマーを離してペストマスクを押さえ、掴まれたままの腕からは力を抜いた。


 無様に背中を丸めて息が荒くなる。瞬きするごとに浮かんでくる流海の姿に内臓が震えて、両目の縁が熱くなって、流海との約束に縋りついた。


 ――僕が死んだら、涙も死ねばいい


 そう、そうだ、大丈夫、私達はどこまでも一緒で、一緒、独りぼっちにはならないよ、大丈夫、平気、流海、るか。


 そこで、温かな夢が邪魔をする。


 ――笑顔をくれないかな、涙、流海


 ――優しい二人が、お母さんもお父さんも大好きだよ


 息が、止まりそうになる。


 夢が私を弱くする。


 お父さんの手が離れて、お母さんの手が離れて、流海の手も離れてしまったら。


 不安が私に伸し掛かる。逃げ道を準備していた筈なのに、大丈夫だと思って今まで走り続けていた筈なのに、今の私はそれでは耐えられなくなっている。


 泪が溢れて止まらない。胸の中心が痛くて堪らない。


 私を待ってくれた人達を知ってしまって、優しい滲みに安堵を覚えてしまったから。私の事も、私のヤマイも理解して傍にいてくれる人達がいると分かって、一緒にいて、姿を見て、楽しいと思える人達に出会ってしまって、私は、私は……ッ


「……死な、ないで……るかぁ……」


 弱く弱く萎んでいく。


 死んでほしくない。生きて欲しい。愛しい片割れに生きて欲しい。あの子を治したい。流海に元気になって欲しい。一緒に、一緒に手を繋いで、私は、私達は――幸せになりたい。


 自分達で準備した逃げ道に拒否感を抱いて、私はアテナに飛んできた。


 今まで立ち止まっていた自分に激怒して、爆発して、己の非力さに辟易して。


 優しさに包まれたままでは進めないと分かって。信じる時間すら惜しかったのだと後悔して。それでも、誰も悪くないのだと、私が弱くなってしまったのがいけないのだと、内側から怒りの棘に貫かれた。


 目の前の空気が動く。


 私の手を取っているのは流海ではない。猫先生でも柘榴先生でもない。朝凪でもなければ、竜胆でも、伊吹でもない。


 黒い短髪と灰色の瞳。中性的な顔をして、耳にはピアスの穴だけが見える。


 初めて出会った時、嘉音はピアスをしていた。沢山のピアスだ。それは正に個性であった筈なのに、次に出会った時には無くなって、今では薙刀も持っていない。


 徐々に嘉音を象徴するものが減っていると、そこで知る。彼の瞳は何を考えているのか読み取れず、私は呼吸を整えようと努めていた。


「それは、泣いてるってやつ?」


 問いかけられて、無言の肯定を返す。なけなしの抵抗に嘉音は息を吐き、私の嘴を叩いてきた。


「涙のお陰で俺の肩身も狭くなったもんだよ。朧からは敵視されるし、朝陽も夕陽も尾行しようとしてくれるし。まぁ二人は撒けるから良いんだけど」


 まるで世間話でもするように、嘉音は私の首を掴む。


「前までは個性の没収だけで済んでたけど、今は薙刀も使えなくなったんだよね。このままだと俺は殲滅団ニケの立場も没収されるか、最悪は名前のない奴に逆戻りだ」


 分からない話を嘉音がしている。なんとか泪を止めた私の頭は再熱し始め、空いた手が上着の中に入った。


 リングダガーを指先にひっかっける。刃を回して嘉音の足の横に突き刺せば、綺麗な岩の砕ける音がした。


「貴方の事情はどうでもいい」


 頭の奥で流海の声がする。何と言っているかは聞き取れない。


「貴方の感情なんてどうでもいい」


 声が増えて、猫先生や柘榴先生の声も混ざった気がする。


 嘉音は首から手を離し、リングダガーを握る私の手に触れた。


「なら聞かせてよ、涙の答えを。俺が行くのすら待てなくて、自分から飛び込んで来た君の正義を」


 二の腕を掴んでいた手が離れ、上着の襟が開かれる。


 手袋をしていない嘉音の手はアルアミラの縁に触れて、私は奥歯を噛み締めた。


 頭の奥で竜胆や柊の声がする。桜の姿が浮かんでくる。


 伊吹の険しい表情が目に浮かんで、いつもいつも、手を掴んでくれる朝凪の顔も……浮かんだ。


 しかし、私はもう止まってはいられない。後戻りなんて出来ない。


 流海の姿を見て決めたんだ。全てをかなぐり捨ててでも、私はアテナへやって来た。それが――答えだ。


 嘉音の指先が喉元に触れる。優しい滲みを上書きするように、消せないインクを塗り付けるように、私の喉に指をかける。


「私に触るだなんて……汚れて、壊れてしまえばいいのに」


「俺は壊れないよ。元に戻るんだ、君に出会う前の正しい俺に。だから壊れるのは涙一人だよ」


「私は壊れません。私の正義が成されるまで、這いつくばっても、どれだけ無様でも進み続けます」


 嘉音の目が細められる。首の一部がアテナの空気に触れて、私は微かな気持ち悪さを覚えた。


 奥歯を噛んで吐き気を耐え忍び、嘉音の目を見つめる。


 私の足を動かさなかった声を振り切って。迷わせていた優しさを見ないふりして。


 大丈夫だとうそぶいていた自分をあざけた。私の周りにいる、優しい人達とならば「きっと、いつか」と妄想してしまった。


 そんな時間、流海にはなかったのに。悠長な甘い夢に浸った私の愚かさを、泡立つ感情が責め立てる。


 私はリングダガーを握り締めて、嘉音の襟を引き寄せた。


「流海の為になる情報をください」


 嘉音の瞳が細められる。


「貴方が欲しい情報もあげましょう」


 男の口角が震えて、上がりそうになる。


「私の正義は、流海の為だけにある」


 戦闘員の口を手で覆って隠す。お前は笑ってなどいない。お前の笑顔など見たくない。


「その為ならば、私は――貴方が望む、最低なヤマイになってやります」


 嘉音の目が弧を描きそうになる。だから私は手を目一杯広げて嘉音の顔を隠し、男の手に首を絞められた。


「取引成立だ」


 首から体温が離れていく。


 その手で嘉音は私の腕を顔から離させ、目元を染めた笑みを向けてきた。


「ようこそ涙、最低な人。たった一人の弟の為に、害悪に成り果てろ」


 洞窟の壁に亀裂が入る。


 私は優しい人達を、胸の温まった雪の日を、繋いでもらった手の温かさを――切り離した。


「ありがとう嘉音、最悪な人。私の正義の為に、踏み台になりなさい」


 洞窟が崩れる。嘉音が私を抱えて外に飛び出す。


 私はわざと瓦礫に腕を当て、男と共に外へ滑り出た。


 美しい陽光が私達を照らす。乱れた襟元を正せば、瓦礫にぶつけた腕よりも、触れられた喉の方が痛かった。


 * * *


 αとβと、γ。


 それをはち切れんばかりに詰めた袋を持ってパナケイアに戻る。


 果樹園を守る戦闘員の骨を砕いて血を浴びて、いつの日かのように、私は血だらけだ。


 足が重たいのは血を吸ってしまったから。肩に力が入らないのは疲労から。背中にある圧迫感は心配から。


 流海の元へ突き進む。柘榴先生の研究室へ歩を進める。


 血だらけで歩く私をパナケイアの職員達は横目に見るだけだから、私は前だけ向き続けた。


 扉を開けば、輸血をしている流海がいる。ソファベッドに腰を下ろし、色の悪い顔をして。


 猫先生と柘榴先生もその場にいて、どこから聞きつけたのか、朝凪に竜胆、伊吹までいやがった。


「ッ、涙!」


 誰もが顔を隠した研究室。流海は私の名を呼んだ。


「涙、その血は、」


「大丈夫、全部返り血です」


 柘榴先生の言葉を遮って袋を差し出す。重たいウォー・ハンマーを握り直し、ペストマスクを少しだけズラしながら。


「柘榴先生……作ってください、プラセボを。できたメディシンの投与権は全部流海にあげます」


「……あぁ、」


 袋を受け取った柘榴先生の手を掴む。彼女は肩を揺らして私を見つめるから、私は聞かずにはいられなかった。


「……知ってたんですか、柘榴先生と、猫先生は……流海のこと」


 分かり切った答えを求めてしまう。柘榴先生は狐面の向こうで顔色を悪くした気がする。猫先生はペストマスクを確かに揺らした。


「涙、僕がお願いしたんだ。言わないで欲しいって」


 流海の声がする。見れば眉間に皺を刻んだ片割れがいるから、私は軽く笑ってしまった。


 柘榴先生から手を離して、ペストマスクとアルアミラを外す。つば広帽を胸に当てて、自分の胸の内を隠すようにして。


 私は、力なく笑った自覚があった。


「……そっかぁ」


 呟いて、静かにきびすを返す。


 点滴スタンドが揺れた音がしても振り返らずに。重たくなった上着を脱ぎたくて、血だらけでこの場に居たくなくて。


「涙、待ってッ」


 研究室を出る時に振り返る。猫先生と竜胆に肩を支えられた流海は、正に死にそうな顔で私を見つめていた。


「大丈夫だよ、流海」


 笑っていろよ自分。流海の為に笑っていろ、どれだけ醜くても、全ては流海の為だ。


「もう、足は止めない」


 言い残して研究室を後にする。


 帽子にペストマスクとアルアミラを入れて脇に抱えれば、追いかけてくる二人の足音がした。


「涙さん、あの、」


「……空穂」


 朝凪と伊吹に呼び止められる。私は振り返らないまま呼吸を整え、嫌に静かな声を吐いていた。


「平気ですから……着替えてくるだけです」


 朝凪の喉が詰まっている気がする。伊吹が言葉を探している気がする。


 私はそんな優しい想像ばかりして、二人の元から立ち去った。


 更衣室に辿り着き、隣接するシャワー室に入る。ウォー・ハンマーを外に立てかけて個室の扉を締めれば、詰められた上着の襟を開けた。


 首に残った指の痕を、鏡越しに確認する。


 きっと直ぐに消えるのに、私の網膜にはずっと残ってしまうのだろう。


 嘉音の声を思い出す。喉についた痕に触れる。


「……私は間違ってない」


 それは自分に言い聞かせる言葉。


 私を鼓舞する、非道の言葉。


「私の正義は――流海を生かすことだ」


 鏡越しに言い聞かせた私は、汚れた上着を脱ぎ捨てた。

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