第34話 寒

 

 目覚めた時、私の隣には流海がいた。


 パナケイアの病室の中。私達はシングルベッドで手を握り合って眠ったのだ。


 片割れは私に縋りつくように瞼を下ろし、穏やかな呼吸でそこにいる。この子の体内に毒があるなど信じられないほど落ち着いた表情だ。


 全部夢ならば良いと思う。全部嘘であれば楽だと思う。


 私は流海の黒髪を柔く撫で、カーテンの隙間から射し込む朝日に視線を向けた。


 ―― 涙さん、私は貴方と、貴方達と――友達になりたいんです


 耳にこびりついた言葉がある。それは一晩経っても離れなくて、呼吸が少し苦しくなった。


 どうしてそんなに優しいのか。どうしてそんなに良い人でいられるのか。私達はまだ出会ってひと月と少ししか経っていないではないか。


 怪我をする奴なんて放っておけばいいだろうに。そんなことをして朝凪達にどんな利益が生まれると言うのか。


 ―― お前達はお互いの明日が欲しいのに、どっかで生きることを諦めて、死んだ先に安堵を作って予防してやがる。そんな奴が幸せになれる訳ねぇだろ


 あぁ、うるさいぞ伊吹。お前に私達の何が分かる。


 私達は一度幸せを無くしたんだ。無くしてから幸せだったと気づいたんだ。もう一度幸せになりたいと思うのに、そうなる資格は無いと思っている私はいつも矛盾しているんだ。


 いつか私達は自分のヤマイに殺される気がする。それなのに幸せになりたいと叫んだって虚しいだけだろ。アテナで叫んだように、無駄な吐露に終わるだろ。


 いつか殺されるならば予防しても良いではないか。起こった「もしも」の先でも大丈夫だと言う安堵がなければ、いつもヤマイに怯える羽目になるではないか。


 ―― 一人で頑張らなくていいよ。流海君と二人だけで頑張ったりしなくていいよ。俺達も一緒に頑張るから、ね?


 やめてくれよ竜胆。そうやって優しくされる度に、私はお前達をヤマイに巻き込むことが怖くなるんだから。


 私の腰に回される腕がある。見ると目を閉じたままの流海が抱き着いていたから、私は片割れの黒髪を撫でるのだ。


「おはよう、流海」


 消え入りそうな、朝特有の声で挨拶をする。そうすれば流海は私の体に顔を押し付けて、瞼を開けることはしなかった。


「起きないで、涙」


 流海の指が私に縋る。私の衣服を引っ張って、起こしていた上体がゆっくりとベッドに沈められる。


「まだ、眠っていよう」


 白い毛布を片割れが引き寄せる。それにくるまって、抱き締められて、私の体は白に埋もれた。


「……起きたくないよ」


 流海が私の胸に顔を寄せる。可愛い片割れの腕が嬉しくて、今日も温かさを認識できた。


「そうだな」


 片割れの背中に腕を回す。目を閉じれば流海の香りがして、流海の体温だけを感じて、散らかる頭が溶けるように思考を放棄した。


 今日は日曜日。まだ朝日は昇り始めたばかり。大丈夫、大丈夫、まだ眠っていても大丈夫。二人で眠っていて、大丈夫。


 ―― お互いだけを見て、お互いだけを想うなんて、それは依存だ。


 うるさいよ。


 うるさい、うるさい……うるさいんだ。


 黙っておけよ。私達のことなんて、放っておいてくれよ。


 ―― 流海じゃないと、入れられないかい?


 ―― 俺達はまだ、入れないか?


 瞼の裏に浮かんだ先生達の姿がある。


 私は流海を抱き締めて、微睡みに逃げ込んだ。


 * * *


 あれから数日。空気が日々冷たくなる十一月中旬。


 私は、朝凪達から逃げるような生活を送っていた。


 パナケイアで二人を見かければ道を変えるし、どちらかの声がすれば会わないように予定をズラす。伊吹にはよく掴まるが、何を話せばいいのかよく分からず曖昧な対応しか出来ていない。


 アテナに行くことを朝凪や竜胆に止められないよう深夜に転移すれば、やはり向こうの世界は昼間だった。おかしは話だ。感覚を歪められながら材料集めに奔走し、帰ってきたら流海の傍で死んだように眠った。最近では家に着替えと食事にしか帰っていなかったり。


 アレスに来る「嘉音」達の相手もしていれば制服も直ぐに汚れた。だから新しい制服は買わなくても良いと伝えたのに、柘榴先生は制服を一式注文したと言う。どういうこと。有難いからこそ着られないと思って、新しい制服は箪笥たんすの肥やしになりそうだ。


 足元とか攻撃されたら靴も汚れてきて、かと思えば猫先生が新しい靴まで買ってくれた。切実に困る。


 いつも足を隠す意味で履いているタイツも駄目になったものが多く、今朝は全部洗濯中だと気づいて黒ストッキングを履く羽目になった。これでは傷跡を隠しきれていないではないか。足りない頭は壁に打ち付けて自戒済みだ。


 そんなある日の昼休み。私は足を隠すようにマフラーを膝掛けにし、昼食をとっていた。


 そこにやって来たのは今日もスーツ姿の柊葉介だ。


「空穂、朝凪と竜胆が探していたぞ、昨日も一昨日も」


「そうですか」


 適当な返事をして食事をし続ける。柊は本日二十九歳とのことだ。違和感が無いとか口が裂けても言えない。


 私は中庭の木陰に腰を据えている。柊は立ったまま木にもたれかかり、長居する気が無いと見て取れた。


「態々それを伝える為にここへ? 暇人ですね」


「お前の為ではない。今の状況では朝凪と竜胆が不憫に見えたからだ」


「ならばお伝えください。私に構っても時間の無駄だと」


 自分で詰めた弁当の中身を見下ろす。毎日何かしら変えるような気力はないので在り来たりな弁当だ。


 柘榴先生、猫先生と交代制でお弁当は作っているが、二人はいつも個性溢れるものを作るよな。余計に私のが味気なく見える。これ以上何かしようだなんて思ってないけど。


「お前は二人が嫌いなのか?」


 柊の問いに箸が止まる。卵焼きを割ろうとしていたのだが、中途半端な状況だ。


 私は、浮かんだ朝凪と竜胆の姿を見ないようにした。


「分かりませんよ。ただ優しく良い人達だからヤマイに巻き込みたくないと言いますか、怪我をする私に心を痛められても困ると言いますか」


 卵焼きを割って切り口を見つめる。汚くなったな。


 頭上では柊がため息を吐く音がしたが、私にはムカつく気力も湧いてこなかった。


「鈍感なのか、お前は」


 ―― 気づけよ鈍感


 柊と伊吹の声が重なったような気がする。そこで初めて顔を上げれば、呆れた青い瞳の男がいた。


「伊吹にも言われました。気づけよ鈍感、と」


「そうか。ならば間違いないな。お前は酷い鈍感女だ」


「喧嘩売られてます?」


「事実を言っているだけだ。空穂、お前は何が分からない? 何が分からず答えに迷う?」


「……朝凪達が私を気にかけてくれる理由です。私や流海に優しくしようとする彼女達は、一体どうしてそんなに良い人でいられるのか。理解が出来ない」


 私は分からない意味を口にする。


 彼女達は誰にでも優しいのか、八方美人なのか、偽善者なのか、はたまた本当に根っからの良い人なのか。


 私達は別に旧知の仲であるわけでもなく、ただ実働部隊ワイルドハントのメンバーだと言うだけだ。


 朝凪は私にアテナの説明をしてくれたから成り行きで最初のペアを頼み、竜胆は彼女のペアだったと言うだけ。別にパナケイア以外で会うような関係でも、雑談をするような仲でも無いのに。


 伊吹に至っては出会った頃から距離の詰め方が早い奴だと思った。人の言葉に勝手に突っ込み、人の考えに意見してって何様だ。あ、考えたら余計にイライラしてきた。


 分からない問いを繰り返し考えていると頭が痛くなってくる。そのまま額が熱くなって苛立つから、私は卵焼きを口に突っ込んでみた。


「お前は優しくされることに理由が欲しいのか」


 再び青い瞳を見上げてみる。柊は、食べ物を咀嚼する私に続けた。


「霧崎さんと猫柳さんにも、同じように理由を求めるのか」


 食べ物を飲み込む。


 苛立ちも飲み込む。


 これは、感情論ではないからだ。


 私は少しだけ間を取って、思ったままを口にした。


「行動でも感情でも、その裏には何かしらの理由がある筈です。私が他人に苛立つ裏には相手が私の思う理不尽や不利益を行ったから。だから私は怒ります。流海を助けたいのは弟に死んで欲しくないと思うから。弟が死んでしまっては私の生きる意味がなくなるからです」


 伊吹には依存だと言われた関係。私か流海が死ねば、残った片割れも一緒に死ぬ。それは逃げであり諦めだと伊吹は口にした。


 それはきっと正しいだろう。彼の考え的にも世間の見方的にも。


 しかし、私と流海にとってはそれが正しいのだ。私達の正しさが世間にとって異端であっても構わない。私達の関係に口を挟むな鬱陶しい。


 臆せず怪我する者に優しくすることは正しいのか。自分を貫く者には寄り添うことが正解なのか。拒絶する者を掴まえることが正しさなのか。


 それは綺麗事だと私は思う。


 綺麗に綺麗にラッピングされて、その中身や魂胆が分からないから恐ろしいとさえ思うのだ。


「……朝凪達の優しさは、一体何なんですか? 伊吹はどうしてお節介を焼くんですか? 彼らは無条件に優しい聖人だとでも? ヤマイで怪我をし、アテナでも怪我する私を憐れむ精神ならば御免です。私達は憐れまれたり助けなければいけないと思われるほど弱くない。友達になりたいとも言われましたが、友達とは何ですか。関係に名前をつけようと何だろうと、私や流海がヤマイで怪我をすることも、朝凪達がそれに巻き込まれるかもしれない事実は変わらないではないですか」


 ―― 友達になりたいんです


 黙ってくれよ。綺麗事ならいらない。綺麗な感情なんていらない。綺麗な人間なんていない。


 根っからの優しい人なんて、いないだろ。


「ならばそう聞けばいいだろ、馬鹿」


 柊に頭を小突かれる。私は不覚にも目を瞬かせてしまい、青い瞳の男は肩から力を抜いていた。


「分からないならば聞け。思い込みで否定する前に。お前や弟を気にかけてくれる存在は貴重なんだろ。一人で悩んだって答えなど出ないだろうに」


 木に凭れるのを止めて歩き出した柊。お説教がしたかったのか、お小言が言いたかったのか。


 私の脳裏には桜色が浮かぶから、どちらも違うと結論付けたけどな。


「優しさの奥側を探ったって、疲れるだけだぞ」


 そう言い残した銀色の後頭部を見つめる。私は目を細めて、食べた気もしないまま弁当箱を空にした。


「……うわ」


 教室に戻ろうと立ち上がった時、ストッキングが伝線してキレそうになったのは個人的な話だ。


 * * *


「……足が死ぬ」


 生脚が寒風に晒される放課後。


 伝線したストッキングを履き続ける精神を持っていなかった私は、体育用に持っていたくるぶしソックスに履き替えた。


 体育は長袖長ズボンでするからいいが、制服だと傷だらけの足が丸見えなので大変遺憾である。二度とストッキングなんて履かない。


 しかも今の季節は十一月。運動部に所属している訳でも代謝がいい訳でもない私の足は寒さに震え、冷たい風に殺意が湧きそうだった。


 誰だ、女子の制服はスカートだって決めた奴。生足の寒さは尋常ではないぞ。膝から下が出ているだけで寒いし、スカートだから太腿とかも寒くて結果的に全身寒くなる。


 しかも私の上はワイシャツに体操服の上着、マフラーと言うヘンテコな格好であるため防寒が足りていない。キレそう。


 パナケイアへ向かう道の遠さを実感しつつ、スカートがもっと長くならないかと思案する。元々折ってはいないのだが、高校生になっても背が伸びたから膝が出ているのだ。駄目だ寒い。


 ―― 涙は寒がりだよねぇ


 頭の中で仕方がなさそうに抱き締めてくれる流海が浮かぶ。今すぐにでも弟の胸にダイブして暖を取りたい私は、全ての信号に引っかかる運の悪さに辟易した。


 幸いなのは、流海から届いた嬉しいメッセージがあることだろう。


 横断歩道で立ち止まる私は、顔を綻ばせながらスマホの画面を見ていた。


 〈退院日が決まったよ〉


 退院。


 流海が退院。


 検査や経過観察期間も終わって、ずっと入院していなくても問題ないとされたらしい。今の所は大丈夫だ、と。


 メディシンの投与で毎日パナケイアへ通う必要があるものの、家に流海が帰ってくる。それだけで私は体が軽くなり、マフラーに顔を埋めてしまうのだ。


 流海とのメッセージ画面の見つめる。喜びの反応を返し続けていれば、不意に画面が切り替わった。映し出されたのは近辺の地図だ。


 ……クソが。


 私の気分は一気に急降下し、鞄に入れてあるワイヤレスイヤホンを耳に入れた。


「北区三ブロック目、及び南区一ブロック目にてアテナの戦闘員を確認。実働部隊ワイルドハントは至急行動を。相手戦闘員はそれぞれ四名。ヤマイは両者共に郊外へ誘導されている模様。なお北区戦闘員一名は別行動。ヘルスを巻き込むことは決して無いように」


 決まり文句のような通達を聞いてため息が出た。街中にパナケイアが張り巡らせた防犯カメラが戦闘員の位置を特定する。私には北区の地図が表示され、赤い点の一つが近くにいた。


「南区は私と鶯が行くよ!!」


「おう、任せた棗。北区はワーカーホリック組の学校があったな」


「ワーカーホリックのつもりは無いですけど……そうっすね」


「自覚しろよコラ。俺も今は北区にいるから合流する」


「別行動の一人は私が近いので行きます」


 棗の宣誓や皇の指示、伊吹の返事を聞きながら一つのビルの上を見る。


 誰も空を見上げて歩かないこの時代。一人視線を上げた私を見下ろす黒いペストマスク。


 まるで誘うようにきびすを返した奴を追う為、私は爪先の向きを路地へと変えた。


 鞄から黒い布に包んだ武器を出す。それは二カ所に関節を付けて折り畳めるようにしてもらった、愛用のウォーハンマーだ。


 パナケイアの外でも持ち運べるように要望を出した結果、多節棍の要素である関節を組み合わせてもらった訳である。


 桜は二つ返事で作業し、数日前に完成させてくれた。ナイフも持ってはいるが、私が使いやすいのはやはりウォー・ハンマーなのだ。


 私は路地裏でハンマーの関節を合わせていく。そうすればいつも見ている長さになり、軽く手の中で回しても違和感が無かった。


 さすが桜。ゆるふわの見た目からは想像できないほど武器や実験に対する熱意が感じられる。人は見かけに寄らないな。


 私は鞄を近くに置き、ふと濃くなった影を見た。


 空を仰いで黒を見る。


 飛び掛かってくるのはリングダガーを持った黒いペストマスク。


 私は後ろへ地面を蹴り、戦闘員――「嘉音」が足を着くか着かないかの場面でウォー・ハンマーを振り切った。


 素早く膝を曲げて避ける「嘉音」に舌打ちしそうになる。その黒いペストマスクを砕いてやろうと思っているのに、いつも上手くいかないな。


 足を踏み込んだ時に「嘉音」が一歩も二歩も後退する。正に飛ぶようにと言う表現が正しい避け方には焦りが見えて、私は眉間に皺を寄せた。


「ちょ、」


「……はい?」


 様子がおかしい「嘉音」を見て私も戦意が削がれていく。折角新調して貰った武器を使える機会なので思う存分振り回したいのだが、どうにも相手の意識がそぞろなのだ。


 ペストマスクを押さえた「嘉音」は、もう片手を腰に当てて固まっている。私は運動靴の爪先を地面に打ち付けて、たたずむ「嘉音」を見つめていた。


「なんですか。今日は戦う気力が無いのに来たんでしょうか?」


「なんですかはコッチの台詞なんだけど。なんでそんなに足出してるの。なんなのその服。は? 意味分かんなくてキレそう」


「……あ?」


 よく分からないが怒られている気がする。私は傷だらけの足を見下ろしてから、今まで制服でも「嘉音」と会ったことがあると考え直した。それから一応、アテナにいる奴らの服装を思い出す。


 ……まさかな。


「……これ、普通に制服なんですけど」


「君いっつも足真っ黒だったでしょ」


「今日は諸事情で真っ黒はお休みです」


「ヤマイの奴らは脳みそまで腐ってるわけ?」


「それはヤマイに限らずアレスの女子及びスカート好き全員を敵に回しましたね、骨砕きの刑に処します」


 私は苛立ちながらウォー・ハンマーを構え、何やら怒っている「嘉音」を見つめてしまった。


 ……いや、やる気だせよお前。

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