第38話 弱
気のせいに決まってる。
気のせいに決まってる。
気のせいでないといけない。
気のせい以外認めない。
これが事実であるなんて、認めない。
私は白いペストマスクをつけて、転移室の前にいた。星が瞬く夜のことだ。
肌寒さが廊下を満たし、衣擦れの音すらない静寂の空間。耳が痛くなるような空気に目を伏せて、左手はウォー・ハンマーを意味なく回した。重たい鈍器が空気を揺らす音は心地よく、呼吸が落ち着いていく。
無駄な音を作る私は現在、一人ではない。隣には両手で矢筒の紐を握り締めているメンバーがいる――言わずと知れた、朝凪いばらだ。
私はマスク越しに向けた視線を前に戻し、こちらから声を掛けることは一切しなかった。
「……涙さん」
「はい」
「本当に今日、行かれるんですか?」
「行きますよ。流海の大事な日ですし」
「そうですか……」
マイク越しに朝凪の声を聞く。自信のなさそうな声は彼女が眉を下げている表情を想像させた。私は返答だけに努めて目を伏せる。少しだけ痛い気がした額は、きっと昼間の事故のせいだ。
――今日は流海が初めてアテナに行く日である。
退院は明後日。柘榴先生と猫先生には心底渋る顔をされたが、流海が何かと言い包めてアテナへ行く許可をもぎ取ったのだ。
流海は「慣れる為にも、始まりは早い方がいいでしょ?」と小首を傾げていたが、それだけが理由ではない。分かってしまう私は否定が出来ず、流海の手を握り締めることだけした。
皇のヤマイを見た日、伊吹達と病室で話した嫌な日。血だらけだった上着は桜が綺麗に洗濯してくれた。新調したばかりだった帽子も綺麗に
――すみません、いつもありがとうざいます。手間を取らせますね
――いいえ、お気になされず。いつもお疲れ様です。あ、でも頑張りすぎはいけませんわ!!
――桜にその言葉を返しましょう。ウォー・ハンマーの関節作りも感謝していますが、仕事が早すぎでは?
――遠回しに褒めてくださるその姿勢、大好きですわ!
ペストマスクを被った桜の笑ったような声を聞いた。それはいつも通りの筈で、私も笑顔を認識していなかったのに。
私の頭には――照明器具が落ちてきた。
……昼間のことを思い出し、手当てした頭を帽子の上から摩ってしまう。甲高い悲鳴を上げた桜も困惑していたが、同時に何かを察したような空気もあった。
私はそれを見ないふりして、桜に考えを言わせないまま道具室を出て行った。頭を怪我することはよくあるから、鏡越しに血を流す自分を手当てして。
何もない。何でもない。これは私の誤認のせいだ。
病は気からと言う言葉もあるように、マイナスな方向へ気分を持っていかれたらそれこそ駄目になる。
だから考えすぎてはいけない。これこそ渦に嵌ってはいけない。気にしてはいけない。受け止めてはいけない。
私はウォー・ハンマーを握り締めて、更衣室の方から歩いてくる三人の白を見つめていた。
「……今日は、流海さんと二人が良かったですか?」
「そうですね」
朝凪の問いかけに素直に答えておく。そうすれば隣の彼女が肩を竦めた気がして、私は並んで歩くペストマスク達を見つめた。
一番背が高いペストマスクが目につく。腰に二振りの刀を下げているのを見るに竜胆だろう。
何も持たずに歩いているのは伊吹。今日も上着の下には使い慣れたトンファーを隠し持っているのでしょね。
クロスボウを持って腰に矢筒を持ったのが流海。ペストマスクや衣装で姿形が把握しにくいが、あれはまごうことなき片割れだ。
「涙、朝凪さん、お待たせ」
「待ってないさ」
「いいえ……流海さん、本当に行かれるんですね」
イヤホンを通して流海の声を聞くのは不思議な感覚だった。それは流海も思ったのだろう。ペストマスクの
「行くよ。涙と二人でも良かった」
「お前ら二人で行かせたら何しでかすか分からねぇだろ」
呆れた伊吹の声がしたかと思えば、流海の後頭部が叩かれる光景を見る。私の腕は脊髄反射で片割れを引き寄せて、伊吹から流海を遠ざけていた。私の可愛い片割れ君に気安く触れるでないよ。
流海の肩越しに伊吹を見れば、そこには肩を落としたペストマスクがいた。
「その秒速で発動する警備システム、自分にも発動しろよ」
「こちら流海専用のシステムとなっています」
「僕には涙専用の警備システムが常備されています」
「やだ格好いい好き」
「僕も」
「胃もたれするような愛を吐き散らすな」
再び流海が伊吹に頭を小突かれる。流れるように私の頭も叩かれたので、私と流海はお互いの頭を撫で摩った。帽子の上から軽く、軽く。ちょっと頭の傷に響いたではないか伊吹さんよ。
流海は私の頭を優しく摩り続けて、伊吹は朝凪と竜胆に殴られていた。大変痛そうだ。
「涙さんの頭は! 駄目!」
「朔夜君、照明器具が落ちてきた話したよね? さっき、ついさっき!」
「あ……悪い」
「別に。平気です」
イヤホン無しで朝凪と竜胆の叱責が廊下に響く。よかった、今の悲鳴をイヤホンで聞けば鼓膜が死んでた。一瞬フリーズした伊吹は私に謝罪するから調子が狂いそうになる。コイツらと関わると染みばかり増えるんだ。
私は平坦な返事を口にして、流海に腕を引かれた。
見るだけで分かる。片割れが行くことを催促していると。
きっとこれ以上ここに居れば、仕事を終えた先生達が走ってきてしまうから。
私は頷いて転移室の扉をくぐった。
腕時計と砂時計について流海に伝え、片割れと手を握り合って。
「ここで一緒に転移しても、朝凪達と同じ場所には転移しませんよね」
「そうですね」
「手を繋いで一緒の場所に出されるのは最初だけだしね」
「見つければ良いんだろ。この死に急いでる双子を、向こうで」
「失敬な。生き急いでると言ってくださいよ」
「言い換えても一緒だ馬鹿」
どこかでしたような会話を伊吹と交わす。口数の少ない朝凪を気にしてはいけない気がして、竜胆の方も見られないまま。
流海は私の手を握る力を強めるから、私も覚悟を固めてみせた。
「それでは、さようなら」
私は砂時計を逆さにし、流海も真似てひっくり返す。
その時、私の上着を掴んだペストマスクがいた。
一番小柄な彼女は、始終握り締めていた矢筒の紐を離している。
「涙さん」
あぁ、止めて欲しいな。
その優しい声で呼ばれると、いつも落ち着かなくなるから。
「見つけに行きます、追いかけますから」
イヤホンは嫌いだ。聞き逃したい言葉を無理やり耳にねじ込んでくるから。聞こえませんでしたって言うことが出来ないから。
私はバレないように目を閉じて、自分が足先から砂になる感覚を持った。聞きたくないのに聞こえてしまうなら、せめて見ないように心がける無様な抵抗だ。
「逃げないで、くださいね」
朝凪の言葉を聞き終わってしまう。全て聞きたくなかったのに、聞き終わってから体全体が砂になった。彼女はそのタイミングすら図っていたのだろうか。良い性格をしているな。本当にやめてくれよ。
また、滲んで、広がって……寂しくなるだろ。
返事をしない私は奥歯を噛んで、瞼を透かした日の光りで目を開けた。
流海と固く握り合っていた手を解かない。私は片割れの手を握り直して、耳元に近づいて来たペストマスクを受け入れた。
マスクに籠りそうな小さな声は、それでも確かに私へ届く。
「……二度目だ」
「……もう一人でなんて来させないよ」
「ありがとう……あの時は、こんなに綺麗だなんて思わなかった」
「……懐かしいかい、流海」
「そうだね……不思議だよ、とても。嘉音って人の言葉の意味が癪だけど理解できる」
「癪だけど」
「癪だけど」
流海と顔を見合わせる。ペストマスク越しだが、今の片割れはきっと笑顔では無いのだ。
握った手を指先で撫でる流海の声は、酷く自信がなさそうだ。
私は砂時計を上着のポケットにしまい、五指できっちりウォー・ハンマーを握り直す。もう片手はずっと流海と繋いでいたい所だが、そういう訳にもいかないのだ。
流海はボウガンに矢を装填してから腕時計を確認する。私は周囲を見渡して、今日は嘉音が待ち構えていなかったことに微かな疑問と気楽さを覚えていた。
「一番近くは、γって所かな?」
「そうだな。行くか」
「うん」
マスクを押さえてイヤホンで会話する。逐一こう言った行為を取ることは面倒ではあるが、これ以上ペストマスクの厚みを抑えてしまうと危ないと桜が肩を落としていた。我慢か。
私は流海と共にγの木に向かう。小走りに進めば流海も着いて来られるようで安心した。
「僕に合わせなくてもいいよ」
「置いて行きたくないんだよ」
「あれ、僕の体力が結構下に見られてる」
「下に見ている訳ではないさ」
でもさ、流海、分かるかい。私のこの不安が。
パナケイアから退院しても良いと許可が下りたと言う事は――見放されたとも取れるのではないか。
ヘルスの為の検査を続けてきた奴らが流海を手元に置かなくなったと言う事は、流海の治療法は本当に柘榴先生一人に委ねられてしまったのではないか。
最初は純粋に嬉しかったのに、後から後から不安が沸き上がる。
流海の中にある毒がまだ種だとしたら? それがいつ芽を出すか。いや、もしかしたら一気に花を咲かせるかもしれない。
大人しく眠っている毒は共生している訳ではなく、体内で流海を殺す日を待っているのだとしたら?
流海が死ねば私も後を追って死んでみせよう。それでもさ、それはつまり、流海の死体を私は見なければいけないことだと最近気が付いたんだ。
呼びかけに答えてくれない流海を見るなんて、本当に私は生きていけなくなるんだろうな。
あぁ、流海、私の唯一の片割れよ。私は死ぬことを恐れはしないが、お前が死ぬことはやっぱりどうして恐れてしまうよ。
お前に生きていて欲しい。生きて幸せになって欲しい。誰にも幸せを願われなくたって、私はお前の幸せを願うから。お前と一緒に生きて幸せになりたい私と、自分に幸せになる資格なんてないと
「涙は怖がりだよね、本当に」
「あぁ、そうだよ。私は怖がりさ」
「その怖いなって思うことを吐き出しても僕は許すのに」
並走する流海を見る。耳に直接流れ込んでくる声を聞かない選択肢は準備されていない。
「何の事だか」
小さな抵抗をしてしまう。無駄な抵抗だとは分かっていても、事実を述べられるまでの時間稼ぎがしたかった。
だって私の心は落ち着いていない。今の自分を気のせいだと言い聞かせて、これは嘘だと現実逃避に走っているのだから。
それに流海が気づいていない筈がない。気づいているから流海は早めにアテナに来ることを望んだのだ。私がヤマイを少しでも発症させるリスクが少ない世界で、お互いに正面から言葉を交わせる時間を望んだのだ。
「僕より今メディシンがいるのは、涙の方だと思うな」
「いらないさ。全部流海が貰っていい。私は平気だから」
「涙に追加したい項目ができた。怖がりで、泣き虫で、可愛くて、嘘をつくのがとても下手」
「その四拍子だけ聞けば私は純粋無垢な女の子になれそうだ」
「実際涙は純粋無垢な女の子だと思うけど。僕しか知らないってだけで」
「純粋で無垢な子は敵にスカートの中身を見せたりしません」
「待って初耳その相手誰だよ処す」
「物騒」
声を上げて笑っておく。流海の雰囲気が頭から氷を被ったレベルで冷たくなったが、時間稼ぎにはちょうどいい。怒って口調が壊れた君も可愛いね。
深いため息と共にマスクの中で何か呟く片割れは、意外にも早く話題を戻してきた。
「まぁ初耳の話題はアレスでゆっくり内容を聞くとして、涙、自覚してるよね」
「何の事だか」
同じ言葉でまた濁す。流海はそれに呆れたりすることなく、私の肩を軽く叩いてくれた。
それだけで呼吸が苦しくなったのは、走っているからではない。
私は空いてる拳を握り締めて、少しだけ俯いて走った。
「……気づかない訳ないだろ。何年、このヤマイと付き合ってると思う」
「もう十年を過ぎたよ」
「あぁ、あぁ、そうだよ、そうだ……そうなんだよ」
事実を受け止めるのが怖い時がある。
流海の時もそうだった。病室のベッドで眠る片割れを見た時は、全て嘘であればいいと叫びを上げた。
朝凪達の時もそうだった。友達になりたいとか、叱ってくれるとか、そういう優しさを受け止めるのが怖くて逃げ回った。面と向かう事を拒絶した。
猫先生と柘榴先生にもそうだった。出会った頃、二人が「先生」の枠から出て来ないことを受け止めたくなくて、もう両親が帰って来ないことを認めたくなくて、泪に暮れた日があった。
事実とは残酷だ。けれども目を背け続けることなど出来ない。何故なら自分で既に「それが事実」だと気づいているのだから。
私は走る速度を上げて、流海はそれについて来た。
あぁ、思っていた以上に体力がついたね、片割れ君。
私は右耳を押さえつけて腹から声を出す。
それでも声が揺れてしまったのは、やはり走っているからではない。
「私のヤマイ――進行してるよ」
言葉にすれば戻れない。私はそれを気のせいだとは言い続けられない。照明器具を受け止めた頭は、事実を受け止めるには傷だらけ過ぎる。
私は無意味にウォー・ハンマーで近くの宝石の木を殴打し、甲高い音で鼓膜を満たした。この腕の震えは疲れからではないと知ってるさ。
「笑顔を見てないのに発症した。顔が見えなくても、笑っているんだろうなって私が思ったら事故が来た」
皇の時もそうだった。桜の時もそうだった。
「あぁ、なんで、なんでだよ。私のヤマイは私にどこまでも優しくない。笑っているんだろうなって思うだけも駄目なのか。それを証明する表情を見ていないのに。目を合わせていないし、明確に笑われてるって認識したわけでもないのに。誤認かもしれない範囲で襲うなよ。かもしれないを許さないなんてやめてくれ、私の中に浮かぶもしかしたらすら否定するなよッ」
もう一度通りすがりの木を殴る。通り魔のようなその行為を流海が責めることはなかった。
体の奥から湧き上がる不安と不満と嫉妬と
感情がぐちゃぐちゃになって、自分のことをもっと嫌いになって、息苦しくてもどかしくて怖くてつらくて憎たらしくてッ
様々な方向に向いた感情の矢印が私を引き裂くのではないかと思ってしまう。私と言う理性の皮を破り捨てて、内側から見るに堪えない醜い感情が晒される気がしてしまう。
私も化け物に成り果てるのかと嫌になる。
化け物になって止められる側になるのかと息が詰まる。
どうしてこんなに呼吸を害されるのか。アテナの空気もアレスの空気も、私を優しく満たしてくれない。
「涙、それ以上は駄目」
不意に手首を掴まれて、足が驚きに笑ってしまう。一気に力が抜けた私は、流海の胸に抱きとめられた。
早い鼓動をペストマスク越しでも聞き取って、私を嘴で小突く片割れが愛しくて。
「進行は、怖いね」
「……あぁ、怖いよ」
自分が化け物になるのかと恐ろしくなる。
「不安だね」
「不安でたまらないさ」
私のヤマイはきっと周りを大いに巻き込む。
その時流海を巻き込んだら? 他の――先生や、朝凪達を巻き込んだら?
「……しんどいね」
「今にも、窒息しそうな程に」
私が化け物に――マッキになっても、流海が止めてくれる。
それでも怖くて不安で、しんどくなる。
私の手を取ってくれた朝凪達を巻き込んだら。叱ってくれる先生達や伊吹に怪我をさせたら。もしも流海を、私が死なせてしまったら。
だから嫌だったのに。優しい人はこんなにたくさん、いらなかったのに。
マッキになってもプラセボを打てば戻ってこられる。私はまだマッキになったことが無いから。
けれどもその後はどうだ。そこにいつも通りなんて無いに決まってるのに。私に今日も染みを落とした朝凪達は、きっと、いないのに。
「僕が止めるよ。それで僕は、僕だけは、ずっと涙の傍にいるから」
耳をそばだてないと聞こえない声で流海が言葉をくれる。私を安心させる為の言葉をくれる。
私は流海の背中に手を回して、酸素を求めるように片割れのマスクに嘴を寄せた。
「「――真っ二つの刑にしようか」」
瞬間、私の背中を殺意が撫でる。
私と流海は咄嗟に横へ跳び、地面を叩き割った二つの巨大な斧を見ていた。
息が揃った動き。二つのクレセントアックス。黒い髪を揺らす同じ顔をした少年達。
「へぇ、「朝陽」と「夕陽」か」
私はマスクの中で呟いて、流海と共に武器を構えた。
双子の瞳は私達を射抜き、斧が美しい地面から上げられる。
あぁ、殺意をくれ。私が私を思う時間すら与えない程の、強い感情をくれ。
そうすれば私はまた、少しだけ事実から目を背けていられるから。
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