第63話 棘
伊吹君と竜胆君を僕の部屋に通して、お見舞いというよりもお土産としてドーナツを貰った。この二人でドーナツ買いに行ったのかと少し思ったが、そんなことはどうでもいい。
僕は台所に立った。あれだけ涙からも猫先生からも、柘榴先生からも一人では入るなと言われた台所に、だ。最近は料理の練習する暇もなかったし、本当に久しぶりである。
「……お白湯は作れる気がする」
一人呟いてお湯を沸かす。お茶だとドーナツには味気ない気がして、あとうちにある飲み物は珈琲かココアかってところ。でも僕が淹れると味が極端になる。というかよく分からない味になる。裏面の表示通りスプーン山盛りで作っても美味しいと思える味にならないんだから、恐らく僕に料理の才能はないんだろう。それ以外の家事は出来るから許して欲しい所である。
「あ、」
ぼんやりと考えていたらやかんが鳴った。見たら完全にお湯が沸騰しており、真冬に飲むにしても熱すぎるお白湯が出来上がっていた。
「ま、いっか」
厚めのコップにお白湯を注ぐ。しかし、お茶と同レベルでドーナツにお白湯も気が進まない。普通に僕がこの食べ合わせをしたくない。でもうちに来てもお白湯しか出されないって分かったら二人も来なくなるかな。……そんな性格してないか。
ため息を吐きながら戸棚を開ける。時々涙がお白湯を作ってるけど、その時レモン果汁とか蜂蜜を入れてたんだよな。あれは美味しかった。
視線を動かして、パッケージもよく見ずにレモン果汁っぽいものをお白湯に入れる。蜂蜜なかったな。
「……あれ、」
傾けていた容器をよく見て、嗅いだ匂いにも首を捻る。……。
僕は黙って容器を戸棚に戻し、正しいレモン果汁の容器を取り出した。
「飲み物はお白湯だよ。でも一つ間違えてお酢入れちゃったから、まぁ楽しんで」
「なんて?」
「ひぇ……」
「大丈夫、二つはちゃんとレモン果汁入れたから」
「だからなんて?」
「わぁ……ロシアンルーレット」
部屋に入って飲み物の説明をしておく。伊吹君の笑顔は完全に引き攣ったものになり、竜胆君の顔は青白くなった。僕は無視しながら座卓にお盆を置いて、お酢入りではないコップを一番に取る。
「あ、レモン足りなかったら自分で入れてね」
「お前いま完全に安全圏取りやがったな?」
「俺こっち貰うね」
竜胆君が流れるようにレモンを入れたコップを取る。ロシアンルーレットだと彼が言っていたが、香りで直ぐに分かったのだろう。伊吹君は信じられないものを見る目で竜胆君を見つめていたので、僕は両手でコップから暖を取った。
「永愛? 俺の選択権どこやった?」
「いや、ほら、お酢入れて飲む人もいるっていばらちゃんも言ってたし、大丈夫だよ」
「あ、ごめん、味の保証は出来ない。味見してないから」
「流海ッ」
伊吹君は口角を引き攣らせながらコップを取る。嫌なら飲まなければいいのに。
「別に残していいよ」
「いや、押しかけた分際で出されたもの残すとか、無作法なことはしない」
あー……そういう一言が刺さるんだよな。
拒絶や誹謗中傷みたいな、傷つける感じとは違う。優しく丸い切っ先を埋め込まれる感覚。僕の隙間に刺さって、そこから侵入しそうになる優しさ。針ほど強くないのに折れることがないから、僕は隙間を広げられないように努めるんだ。
伊吹君はとことん律儀だと思う。もしかして宗教勧誘とか断れないタイプかこの人。良い人過ぎるとつけ込まれるんだよ。
考えて嫌になる。それから特に決めたわけでもないのに、僕達は同時に飲み物を口に入れた。
……?
一口飲んだお白湯を口から離す。目の前では伊吹君が激しく噎せ込み、竜胆君は泣きそうな顔で眉間に皺を寄せていた。
「あれ、美味しくない」
「流海、おま、分量ッ!!」
「る、か君、これ、お白湯に対してレモンどれくらい入れたの?」
青い顔で苦笑する竜胆君に聞かれる。伊吹君はうるさいくらい噎せてるけど無視しておいた。僕は台所での行動を振り返り、瞬きをしてしまう。
「味がしっかりした方が良いと思ったから、お白湯二にレモン八、くらい?」
「あぅぁ……」
「俺が言うのも悪いけど、ほぼ原液じゃねぇか」
「その方が美味しいかなって、ドバドバ入れちゃった。面白いくらい不味いね」
追いレモンはいらないくらい飲み物がすっぱい。おかしいな、涙が作るとあんなに美味しかったのに。涙はどれくらいの比率で入れてたんだろう。
一口含むだけで胸焼けしそうな飲み物を見つめていれば、軽く噎せた竜胆君に聞かれた。
「流海君って、料理苦手?」
「うん。壊滅的に駄目だと思う」
「今まで調理実習とかどうしてたんだよ……」
「調理実習、参加したことない。僕がいると危ないし、免除されてた。家では涙達が作るか、一緒にしてくれる」
中学校の頃を思い出しても、僕は調理室や理科室には入れてもらえなかったな。保健室や支援教室で先生と一対一の勉強が殆どだった。それを考えたら、僕は人よりも調理する機会が少なかったのかもしれない。涙や柘榴先生が根気強く教えてくれてるから気づかなかったな。練習の成果は一向に出ないけど。掃除や洗濯ならできるのに、なんで料理だけここまで駄目なのかな。
自分でも不思議に思っていれば、竜胆君が立ち上がった。
「だ、台所借りてい? 飲めるくらいに調整した方が良いと思うって言うか……一緒に見てるから」
蜂蜜色の目を見つめる。柔らかく笑う彼は肩を竦めていた。
「折角入れてくれたし、全部飲みたいなぁ……なんて」
また刺さる。
また、入り込む。
気遣いは弾き返すのが難しいから嫌いなのに、伝わらないんだよな。
僕は飲み切れそうにないお白湯を見下ろして、食べるものを粗末にするのは駄目だよなと言い聞かせた。
「うん、いいよ」
「ありがと。朔夜君は立てる?」
「立てる。普通に水が飲みたい」
恐らく今は笑えない伊吹君を見ないようにして、三人で下に行く。僕は竜胆君と台所へ向かい、伊吹君は顔色悪く洗面所へ行った。
竜胆君は追加でお湯を沸かすのをフォローにしてくれる。ついでにお白湯の作り方を教えてくれた。
「沸騰したら蓋を外して、その後も十分から十五分くらい沸かすんだよ」
「蓋して沸いたら終わり、ってわけでもないんだ」
「俺もそう思ってたけど、違うんだって」
楽しそうに笑う竜胆君の横顔を見る。彼は分かりやすいんだよな。その知識を誰から教わったのかなんて、わざわざ確認する必要もない。
僕は沸騰したやかんから蓋を外し、嫌がらせ気味に聞いてみた。
「朝凪さんから教えてもらうの、楽しかった?」
「えッ」
「他には何を教えてもらったのかな」
底に生まれる気泡を見つめる。首を赤くした竜胆君は笑って言葉を濁すばかりだ。
「べ、つに、何も」
「へぇ」
涙が気づいているかは知らないけど、竜胆君と朝凪さんの関係は複雑だ。複雑すぎる。お互いに優しすぎて、相手を想いすぎて、身動きが取れてない。でもお互いにその関係を望んで諦めてるから、第三者では解けない所まできてる。
恋人とか付き合ってるとかそんな可愛い関係ではないって分かる。観察してたら見えてくる。朝凪さんは竜胆君を見てないし、竜胆君もそれで良いって笑うんだから。
「純愛なんて存在しないんだよ」
視線を沸騰するお湯から離さず、隣で息を呑んだ竜胆君の気配だけ察しておく。洗面所で何度もうがいをしてきたらしい伊吹君にも気づいたけど、僕は顔を見なかった。どうせ今の彼は笑えないだろうから。
「ぁー……悪かったな流海、嫌な態度とって」
「え、伊吹君なんか嫌な態度とった?」
お湯を眺めながら首を傾けてしまう。口を拭いているらしい伊吹君は律儀なので、僕が思わない何かを考えているんだろう。
「急に来たのに文句言ったし、調理実習に参加できてないとか思えてなかったし、悪かったなって感じた」
「そんなことか。何も気にしてないね」
「お前なぁ……」
「伊吹君も竜胆君も、凄く損する性格してるよね」
竜胆君の合図で火を止める。その間に深くて大きなマグカップを出して、僕はそれぞれの飲み物を移した。まるでままごとだな。雑にもほどがある。お客様対応としては零点だ。
「損する性格は、初めて言われたな」
「竜胆君は顕著だと思う」
竜胆君は朗らかに笑い、三つのマグにお湯を注いでくれた。鼻についたレモンの匂いが緩和される。
マグに口をつけた竜胆君は嬉しそうに顔を緩めて、常に笑っていられる人はいるもんだなと思ってしまった。
「飲めるよ、流海君」
「……そっか」
マグを手に取って、薄まったお白湯というか、レモン水を口に含む。それは涙が飲ませてくれたものと似通った美味しさがあったから、自然と感想が口から出た。
「おいし」
「ね、朔夜君の方は……あー……」
竜胆君の視線を追って伊吹君に目を向ける。灰色の彼はマグから口を離すことなく一気に飲み干しており、震える手でシンクに空のマグが置かれた。
「ごちそうさまでした……」
「お粗末様」
「……わり、ちょっと、トイレ借りる」
「出て左ね」
「おう、」
伊吹君が僕に顔を見せないまま廊下に消える。僕はレモン水を飲んでから、空笑いしてる竜胆君を見上げた。
「ココアの淹れ方知ってる?」
「え、うん」
「教えて」
「……」
口角を上げてる竜胆君に見つめられる。今の伊吹君にココアを作ったら嫌がらせに追い打ちをかけると思ったんだけど。
「分かった」
竜胆君が満面の笑みを浮かべる。僕は言葉が足りなかったことを理解しつつ、訂正する気も起きないのでそのままココアを作ることにした。
「流海君、量、ストップ、量! それだと味薄くなっちゃうから!」
「え、さっきはお湯が足りなかったから、今度は増やそうと思ったんだけど」
「うーん、極端!」
* * *
「伊吹君、今どんな気分?」
「胃の中が味の大戦争起こしてる」
「災難だね。うちに遊びに来たりするからだよ、よりにもよって僕一人の時に」
まぁ基本的に一人の率が高いんだけどさ。
悔しい事実を脳内で確認しながらドーナツを食べる。味が薄めのココアも飲んだ伊吹君は、机に肘をついた両手で顔を覆っていた。今はどうやら笑える気持ちではないらしい。大変だね。
竜胆君は苦笑が通常の顔なのかと思えるくらい同じ表情をしているから、僕もわざとらしく口角を上げていた。
「それで? 涙がおかしいって何」
特にこれ以上話題を引き延ばすつもりはなく、伊吹君がうちに入った口実を確認する。伊吹君は両手で顔を隠したまま少し間を作り、竜胆君はマグを口から離していた。
「あいつ、怪我が最近減っただろ」
「良いことだよね」
「パナケイアの施設も入れる場所や普段は入れない場所を確認して、色々動き回ってるみたいだって朝凪が言ってた」
「どんな施設があるか気になったのかも」
「葉介とも何か話してるみたいだぞ」
「二人って同じ高校だから」
「流海」
伊吹君の声が真剣みを帯びる。笑っているようには聞こえないけど、それは僕の頭が起こすバグだ。もしかしたら彼は顔を隠す手の向こうで笑ってるかもしれない。なんてね。
僕は少しだけ苛立ち、顔に出さないまま首を傾けた。
「回りくどいよ、伊吹君。単刀直入に言って」
「アイツが何考えて動いてるのか、流海は知ってんのか」
知ってるよ。
そう、即答したかった。
今までなら涙のことは大概答えられた。他人から指摘されることなんてなかった。他の人が知らなくても僕は知ってることが普通だった。
しかし今の僕は、涙が何を考えているのか知らない。
知らない、分からない、聞けてない――教えてもらえてない。
当たり前だった優越感が崩される。見ないふりをしていた不安感が伊吹君によって押し上げられる。
僕は視線を少し逸らして、唇に残った砂糖の味を舐めとった。
「悔しいけど、知らない」
「そうか……空穂が一人で動いて、今まで良い方向に転んだことねぇだろ。何してんのか聞けねぇか」
「聞いてどうするのさ。知った所で、誰にも涙を止める権利はないよ」
「いいや流海、空穂を止められるのも、アイツの話を正面から聞けるのも、今はまだ……お前だけだ」
伊吹君の言葉が刺さる。それは、信頼の棘。僕の隙間に深く刺さって、弱い所を傷つけないように入り込んでくる柔らかい棘。
やめてくれって思う。涙の足を引っ張るばかり、雁字搦めにしたがるばかりの僕を頼ろうとするなんて。
同時に不満が湧いてくる。どうして君がそんなことを言うのかって、どうして伊吹君は僕と涙とずっと気にかけてるのかって。
胸の中心を指で掻く。僕は机の縁に視線を落として、病室で笑う涙を思い出した。
――何のことかな
涙が背中を向ける。僕から離れる。僕の為に、どこかに行こうとする。
――もう、足は止めない。
「……涙は、何も教えてくれないよ。僕にも、誰にも」
言葉にすれば悔しくなる。しんどくて、歯痒くて、自分が涙に対して出来ないことがある事実を噛み締めた。
酸素が欠乏するように、光が遠ざかるように、心臓の鼓動が弱まるように。
僕の知らない涙がいることに、呼吸が危うくなった。
「涙を変えたのは僕だ。僕が黙ってたから、涙に心配をかけたから……涙は、僕の為に何かしてる」
胸の中心を少し叩く。今日はまだ落ち着いてるし、涙の前ではもう吐いてない。自分のプラセボは確保しようと思うのに、それは涙に止められた。もう行かないでって。
――涙、平気だよ
――嫌だ、行くな流海、行かないで、お願いだから行かないで、お願い、お願いだよ……お願い
涙は、自分がどんな顔をしてたのかきっと気づいてない。切羽詰まったような、酷い笑顔。今にも壊れそうな表情は悲愴っていう表現が正しくて、僕は涙を抱き締めた。
「僕は涙の足を引っ張るばかりなんだよ。何の役にも立ってない。役立たずの片割れなんだ」
「流海君、そんなことは、」
「あるんだよ。だから期待しないで。涙の行動がおかしいって伊吹君達が思ってるなら、悪いのは僕だ」
「違う、流海も空穂も悪くねぇんだ」
伊吹君の言葉に笑顔が痙攣する。彼は顔を覆ったまま唸っているから、竜胆君が場所を移動した。
僕の向かいに竜胆君が座って、彼と背中合わせに伊吹君が座る。竜胆君は微笑を浮かべて僕と対面していた。それが何だかいじらしくて、胸の中心が痒くなる。弾きたい棘が上手く抜けなくて、落ち着かない。
あぁ、涙、この気持ちって凄く嫌だね。
伝わらない同意を胸に竜胆君を見つめる。彼は苦笑して、少しだけ後ろを振り返った。
「朔夜君」
諭すような声に肌が引き攣る。
人の感情には聡くなったと思ってる。だからこそ分かる。竜胆君が良い人で、伊吹君も良い人だってことを嫌でも受け止めてしまう。
僕は奥歯を噛んで、だからこそ二人が嫌いなのだと納得してしまった。
「……俺が悪いんだよ、流海」
「は?」
伊吹君の言葉を
それが顔に出ていたんだろう。笑みが顔から落ちた気がして、竜胆君は目を少しだけ丸くした。それでも口角を上げ続けた彼は目立たずとも凄いと思う。
「空穂が
「僕らの怪我を君が背負うなよ、僕らの痛みは僕らのものだ」
伊吹君の言葉を遮る。彼の大きな主張を、叫ばれる前に黙らせる。
彼が何を言いたいのかも知らないまま、彼が何を言いかけたかも知らないまま。
涙が
それを、何がどうなって君のせいにしてるんだよ、ふざけるな。
今の告白が出会った時から僕と涙を気にかける伊吹君の真意ならば、知りたくないと思った。知ることに意味がない。過去は変わらないし嘆いたって元には戻らない。なら不必要なことは知らないまま、心揺れ動かされることなんて最小限がいい。
「聞かないよ、伊吹君。君が勝手に何かを背負っていたって、それは君のせいじゃない。君は関係ない。勝手に反省して勝手に嘆くなよ。ここは告解室でもないし、僕は司祭でもないんだから」
部屋に静寂が落ちる。僕は口を結んで呼吸を整え、伊吹君は何も言わなかった。竜胆君は困惑したように微笑を浮かべ、部屋の中から声が消える。
それが少し続いた時、静寂を切ったのは三人のスマホの音だった。
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