第84話 歳

 

 涙達がパナケイアに辿り着いた頃、伊吹兄妹の部屋では六人のメンバーが黙って向かい合っていた。伊吹いぶき小夜さよはソファの上で膝を抱え、部屋の空気が緊張したままであると傍観する。彼女の視覚以外の感覚が受信する。


 部屋には雨音が響くばかりで、それぞれが自分の頭で考えを巡らせ続けていた。


 パナケイアに何かできるのか。関わり続けていいのか。自分達は何を選ぶことが正しいのか。


 それは一人一人が答えを出さなくてはいけないこと。誰かに導かれて賛同するのでは足元が揺らいでしまうから、自分の答えを示さなければいけない。


 しかし、ただ一人。


 ひいらぎ葉介ようすけだけは、他の者と違う視点で立っていた。


 葉介は自分の前に座るさくら小梅こうめに視線を向ける。小梅は顎に指を添え、視線は一点を見つめて動かない。


 葉介は彼女の様子を確認するだけで、自分の中に確立した考えは持っていなかった。


 彼はそういう人間である。一人を想って、一人の為だけに立ち、一人の為だけに動く存在。


 葉介は背中側で腕を組み、雨で冷えきった肌を温めようともしなかった。


 * * *


「伝統を守りなさい。お前は従事する為に生まれてきた」


「はい」


 柊葉介の家柄や自分の立ち位置は、物心ついた頃から決められていた。


 柊の家は、パナケイアに多額の支援と研究開発をする桜家に代々仕える家系。祖父と祖母は桜家の前当主夫妻の秘書として従事し、父と母は桜家現当主夫妻の秘書として従事し、葉介は次期当主である小梅に従事する為に育てられた。


 小梅のいかなる疑問も探求も支えられるように勉学に励み、桜家という肩書に近づくよからぬ者を淘汰する武術を身に着け、自己主張しないことを自己として確立した。


 葉介にとっては従うことが当たり前。朝起きた時から眠る時でさえも、頭の中にあるのは小梅の予定や探求意欲に関する事柄ばかり。


 柊葉介は、桜小梅の後ろに控える為だけに育てられた。


 二人が初めて出会ったのは僅か五歳。葉介は自己紹介よりも先に、小梅に頭を下げるように親から言われた。


 小梅は小梅で、葉介の頭を上げさせるように親から指示を受けた。可愛らしい小梅の顔には年相応のはにかみも照れもなく、ただ淡々と言われたことをこなすだけ。


「顔を上げなさい」


「はい」


 幼い二つの声が凛と響き、二人はそこで初めて目を合わせる。桜色の瞳と、青色の瞳。


(じぶんは、この人の為だけに頑張るんだ)


 葉介は漠然と理解して、小梅を見下ろす。彼女の手が微かにスカートの端を握っていると気づきながら、少年は何も思わなかった。


 桜小梅は社会の基盤に近い部分を支える家の一人娘。継ぐ者として生を受け、導く者として学び、探求する者として育てられた。


 彼女は様々なものに感心を持った。どうして車が走るのか、どうして弱肉強食という言葉ができたのか、どうして感情があるのか、どうして会社があるのか、どうして上下関係が存在するのか。どうして、どうして、どうして。


 疑問で埋まる小梅に対し、葉介は答えるべくして溜めた知識を口にし、小梅はそこに己なりの考えを添えた解答を導いてきた。


 同じ方を向き、小梅は座って柊が斜め後ろに立つ。二人の立ち位置は確立されており、葉介は当たり前の日々に疑問を持つ事すらしなかった。


「どうしてパナケイアが存在するのですか」


「ヘルスを守る為です」


「どうしてヘルスだけが守られるのですか」


「それが摂理だからです」


「どうしてヤマイが存在するのですか」


「彼らに意味はありません。世界の乱れであり、汚れです」


「納得できません」


 十一歳の時、桜家の図書室にて。


 本に囲まれた席で、小梅は開いていた書籍を勢いよく閉じる。


 葉介は黙って小梅の動向を観察し、二人とも年齢に見合わない凛々しさで背筋を伸ばしていた。


 無表情の小梅は膝の上で両拳を静かに握る。


「偏った知識は欲しくありません」


「それは当主様のお望みとは違います、お嬢様」


「私は平等であり、公平な目が欲しいです」


「ヘルスの為の目をお育て下さい」


「ヤマイの方はどうなるのですか」


「ヤマイは害です」


「ならば、ヤマイは害であると私が納得できる説明をしなさい」


 葉介はそこで口を閉じ、小梅が望むならばと頭を働かせる。


 少年は機械的な声で、自分が小梅の為に培った知識を暗唱した。


「ヤマイは他者に害を成す存在であり事象です。社会の大多数を占めるヘルスが被害を受け、何も生み出さず、制御も出来ない事象がヤマイです。治療法が確立されていないヤマイは爆弾処理ができない爆弾と同等。いつ爆発するかも分からない事象に怯えるヘルスが守られずしてどうするのですか」


「ヘルスによる模範解答はいりません。本に書いてあるままの言葉もいりません。私は、どうしてヤマイに誰も寄り添おうとしないのかと言う観点の話をしています。爆弾は好きで爆弾として作られたわけではないでしょう。爆弾が必ずしも害であるとは言えないでしょう。その爆発で瓦礫を吹き飛ばすことも、ビルの解体処理を成すこともあるのですから」


 小梅は人形のような無表情を葉介に向ける。葉介は桜色の瞳を見返し、逸らすことなど許されなかった。


「……申し訳ございません」


 解答を導けない葉介には謝罪するしか道が残されていない。望まれたことが出来ない己に価値はない。


 どれだけ厳しく育てられようと未だ子どもに変わりはない。葉介は自分の感情が微かに沈みかけていると気づき、揺れることなど許されないと自律に徹した。


 小梅はそこで初めて、表情を緩める。


 困ったように眉を下げ、寂しそうに微笑んだ。


「謝らないでください。私も、酷い質問をしてごめんなさい」


 それは、葉介にとって毒である。


 彼は穏やかさを向けられるように育ってはいない。笑顔を向けられるように育てられてはいない。優しさを受け止める精神が育っていない。


「ねぇ、葉介」


 柔らかい声で、小梅は従者の名前を口にする。


 親よりも、誰よりも大切に小梅は葉介を呼んでくれる。


 少年は背中で組んだ手に力を入れて、温かすぎる毒を飲み込んだ。


 何も知らない小梅は歌うように願っている。


「貴方は私と一緒に、正しい人になってくれますか?」


「それがお嬢様の望みであるならば」


「もう、葉介がどうしたいかを聞いているんですのよ?」


「自分はお嬢様が望むことを手伝い、支え、従います」


「貴方って人は……」


 呆れたように小梅は息を吐き、退屈そうに足を揺らす。


 葉介は彼女の様子を黙って見つめ、浮かんだ言葉を飲み込めなかった。


「お嬢様は、既に……正しいお方に近いかと」


 小梅は驚いたように目を瞬かせる。かと思えば満足そうに笑うから、葉介も顔から力を抜いていた。


「ありがとうございます。ですが今の私は、伝統と歴史しか知る権利のない偏った者です。それでは嫌ですの」


 微笑む小梅は立ち上がり、広い図書室を後にする。家の一角に作られた桜家の図書室はヘルスについて語り、ヘルスを守る事だけが正しいと主張し、ヤマイは疎ましい存在であると示す蔵書しかされていなかった。


 まるで今までの社会を表すように、今までの家の在り方を示すように。


 だが、桜小梅は歴史に沈まない。彼女の「どうして」は止まらない。


 彼女は自分の目で見て、自分で考える人になりたいと願っていたから。


 図書室を後にする彼女に葉介は続く。彼女が歩いた道が彼の道になり、小梅の足跡を追っていくのが葉介だから。


 本だけの部屋から外へ出た小梅は、陽光に照らされながら笑っていた。


「葉介、世界は広いんです。人の個性は無限に存在します。たった一つの言葉で縛れるほど、私達は簡単な生き物ではないと思いますのよ」


 葉介は青い瞳で小梅を見つめる。柔らかな毛先を結った少女は微笑んで、いつも自分の斜め後ろにいる少年の手を引いた。


 じわりと浸透する毒に葉介は口を結ぶ。引かれるままに足が動く。


 葉介の冷えた手先に、温かな熱が伝染した。


「私の望むことをしてくださるなら、願いましょう。柊葉介、私に着いて来て、一緒に色々なものを見てくださいね」


 それは、命令と取るには穏やかすぎて。


 指示だと取るには柔らかすぎて。


 唇を噛んだ少年は、少女の手を弱く握り返していた。


「お嬢様が向かう所でしたら、何処へでも」


 微笑み返した葉介に、小梅は嬉しそうに口角を上げる。


 二人は広い邸宅の庭を歩き、街へ出て、自分達のどうしてを解決する答えを、見識を、探していった。


 それでも――アレスが優しかったことなんて、一度も無い。


 十二歳の冬、眠っていた葉介に異変が起きた。


 それは眠りから覚醒へ進む微睡みの中。


 突如として、葉介は全身に走る痛みに呼吸を奪われ、嘔吐感と共に意識を浮上させた。


 関節が軋み、眩暈がしては呻き声が零れる。骨と筋肉の形も変わり、気づけば葉介は叫んでいた。


 今まで出したこともないような悲痛な音で泣いて、喚いて、唾を吐いて意識を落とす。


 次に目覚めた時、自分の体が変わっているとも思わないで。


 破れた衣服に、背中を染めている冷や汗。冷えた体の異変は直ぐに分かり、葉介は自分の両手を見た。


 固くなった掌に太くなった手首。足のサイズや長さも変わり、浅く呼吸している自分の声はどこか低い。


 姿鏡まで歩こうと立ち上がった時、葉介は視界の高さが違う事に困惑した。


 早鐘を打つ心臓と、吐きそうな不安感に押し潰されないように。


 一歩一歩を踏みしめて、葉介は鏡の前に立つ。


 そこにいるのは、銀髪と青い瞳をもった壮年の男。


 葉介が手を動かせば同じように動き、掻き毟った喉は痛い。


 葉介の目には泪が浮かび、鏡の男は両目から雫を零していった。


 柊葉介――起床時に体の年齢が変わるヤマイ。


 彼は己の変化に愕然とする。どれだけ頭から冷水を被ろうとも、どれだけ皮膚を抓ろうとも現実は変わらない。


 葉介の頭に最初に浮かんだ言葉は、小梅の傍にいられなくなるだった。


 彼は確かに怯えていた。聡明な桜色の傍にいられなくなることに。守ると決めている人の隣にいられなくなることに。支えると心に決めた人の温かさを失うことに。


 異変を聞き付けられた葉介は問答無用でパナケイアに連行される。自分の手足の長さにも、体の重さにも慣れていない瞬間に。


 パナケイアでは直ぐに実験が繰り返された。葉介の証言を元に眠ることが引き金であると仮定され、麻酔を打たれては目覚めることの繰り返し。


 葉介は目覚める度に激痛に悶え、自分が害する者になってしまったのだと打ちひしがれた。


 平均的な子どもよりは成熟した思考を持っている葉介も、まだ子どもであることに変わりはない。


 彼は自分の痛みに喘ぎながら、左手に刻まれた印数一に意識が眩んだ。


「葉介っ」


 身体年齢が二十歳相当になり、帰宅が許された時。待っていたのは血相を変えた小梅であった。


 葉介は大きく開いた小梅との身長差に奥歯を噛み、苦く苦く顔を歪めた。


「……申し訳、ございません」


 絞り出された謝罪に小梅の感情が傾いてしまう。


 その日から、桜家と柊家での葉介への対応は変わった。


 今まで課してきた勉強も武術も取りやめ、何もさせなくなった。期待をやめたという態度で放任し、まるでいない者のように扱ったのだ。


 葉介は周囲の態度を受け止めた。彼は仕える為に生まれ、育てられたのだから。害あるヤマイになった以上、手を伸ばされる理由は無い。


 自分の変化に追いつけていない少年は、眠ることに恐怖を覚え、起床には常に痛みを伴った。体の節々が身体年齢の急速変化によって悲鳴を上げ、皮膚は伸縮して血管が荒ぶる。


 それでも葉介は、体の痛みも受け入れた。


 ヤマイとなり、小梅の傍にいられなくなったことも受けいれた。


 彼は与えられる全てを受け入れて、拒否しないように育ってしまったから。


 小梅は一人で学び続けた。隣にいた筈の存在は前触れなく会えなくなり、柊家は葉介の代わりをどうするかと囁くばかり。


 葉介は毎朝変わる自分の体を見下ろして、学校に行けば驚かれる日々だった。


 初等部には似つかわしくない風貌に教師達は困り、生徒達はザワついてしまう。小梅と同じトクソーテス学園に通っていた葉介は、幼稚園から初等部まで同じだったクラスメイトから白い目で見られ続けた。


 結果として、葉介は初等部最後の年を在宅で卒業し、その後は公立中学へ編入した。


 毎日違った年齢で現れる葉介は、奇異の目を向けられながら日々過ごす。


 中学一年生にして、葉介は悟っていた。ヤマイになってから知ってしまった。


 この世界は、ヘルスしか受け入れられないのだと。


 どれだけ自分がヤマイを受け入れても、周りがそれを許さないのだと。


 葉介の痛みを誰も知らない。毎朝激痛と共に目覚めることも、身の丈に合った服を選ぶ難しさも、明日自分がきちんと歩ける年齢であるかも分からない恐怖を。


 歩けない年齢まで退行したら、一人では体を動かしにくい年齢まで進行したら。明日の自分はどんな姿で、どんな容貌で、何が出来るのか。


 漠然と明日が分からない不安感。


 彼には何も残っていない。安心できる明日も、自分の意義も、桜小梅の傍に立つ権利も。


 彼から小梅を取ったら何も残らなくなってしまう。小梅を支える為だけに育てられたのに、突然それを取り上げられたら虚無である。


 葉介は何も言われず、何もさせられないまま、自分の存在意義を見失いかけた。生きる意味が見えなくなった。


 そんな時、やっぱり運命は読めないから。


「小梅お嬢様が……」


 ある日、家の者がざわついていた。


「あぁなんと」


 その日、小梅はパナケイアにいた。


「そんなまさか」


 なぜならば、彼女もヤマイを発症してしまったから。


 葉介がヤマイを発症して、半年後のこと。


 桜小梅――名前を呼んだ相手の被虐性欲マゾヒズムを格段に上昇させるヤマイ。


 昼間、彼女が学校で同性の名を呼んだ時、相手の様子が変わったのだという。


 縋るように小梅に迫り、己を傷つけてくれと懇願され。


 小梅は、誰の名前も呼べなくなった。


 桜家にとっての幸いは小梅のヤマイを受けたのがその生徒一人だけであったこと。小梅は直ぐに自分で判断し、友人を柊家の者に任せ、自分の足でパナケイアに向かったのだ。


 葉介はその日、半年ぶりに小梅と顔を合わせた。


 桜色を揺らす彼女は儚く笑い、二十代の葉介は口を真横に結んでいる。


「もう、貴方を呼べませんわね」


 小梅は自分のヤマイを理解して、小さく肩を竦める。彼女の華奢な体には、次期桜家の当主がヤマイになったという圧が乗っていた。


 しかし、幸か不幸か小梅のヤマイは口にしなければ特定されない。誰かが傍でフォローし、隠し続ければ大きく表沙汰にはならない。


 そう考えた大人達だったが、ヤマイの傍に居たがる者もいないのが現実。


 だから同じヤマイである葉介は選ばれた。


 一度捨てられた箱の中から取り出されたのではなく、同じ場所に小梅が入れられたのだ。


 自分の前で眉を下げた彼女に、葉介は何も言えない。今は何も伝えられない。


 唇を噛んで直立する葉介は――笑いそうな感情を噛み締めていたのだから。


 それは表現しきれない擦れた感情。


 取り上げられた相手が自分と同じところに落ちてきてくれた。


 彼女の隣に並ぶ許可を貰えた。


 小梅が自分の前にいる。自分の指針がそこに立つ。己は再び、彼女の声を、言葉を、考えを聞ける。支えられる。守っていける。彼女の為に動くことができる。


 柊葉介は、桜小梅がヤマイになったことを、この世で唯一喜んだ人間であった。


 彼は自分の為では動けない。小梅の為でなければ学ぶことも、動くことも出来はしない。小梅の為でなければ頑張れない。


 葉介はほくそ笑みそうな自分に呆れながら、小梅の前で頭を下げた。初めて出会った日のように。初めて彼女と引き合わされた時にように。


 責められてもおかしくない感情を隠した少年は、汚れなき眼で少女を見た。


「名前を呼ばれずとも、俺は何でもします。貴方の傍で、お嬢様だけの味方でいましょう」


「……ありがとうございます」


 小梅は柔らかい髪を揺らして葉介の手を取る。


 顔を上げた葉介は、再び小梅の後ろに控える権利を獲得した。

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