第6話 消
――君は笑いかけられると事故に遭うみたいだね
無機質な部屋でパナケイアの職員はそう告げた。
私の目を見て、無表情で。
全身に包帯を巻き、点滴を打たれ、ギプスを嵌めて、眼帯をつけた私に向かって。
――とても危険なヤマイだね。ヘルスを巻き込む確率が高い
その言葉は私を心配してはいなかった。
その言葉は私ではない誰かを心配していた。
その言葉は、私とは何ら関係ないヘルスを心配していた。
――るか……るか、は? るか、げんき? もう、痛いの、おわった?
切れている口内の痛みに耐えて問いかけた。
そうすれば医者は無表情のまま、私が求めていない言葉を渡してきた。
――彼は笑顔以外を向けられると事故に遭うようだが、もう少し厳密な特定をしたい所だね
瞬間、私は職員の頭を点滴スタンドで殴打した。
殴って、殴って、殴りつけて。
血飛沫が飛んだが殴った。
研究員が倒れ込んでも殴った。
相手が痛みを訴えても殴った。
だってそうだろ。
流海が痛いって言ってるのにお前達が止めないなら。
私だって止めてやらない。止めてなんかやるもんか。
怒鳴り散らしていた私は、傍にいた別の職員に取り押さえられた。
私の怪我なんてどうでもよかった。痛いなんて当の昔に無視が出来るようになったから。
どんなヤマイか確認するために、何度も、何度も、何度も何度も何度も怪我をしたのだから。
――お前らのせいだ
体内で燃えていたのは確かな熱だ。目の前の人間が憎くて堪らない。白衣を纏った者達全員が許せない。
――お前らのせいで、るかは、今、眠ってるんだッ!!
そんな叫びは届かなかった。
取り押さえられた私は鎮静剤を打たれて、印数五が刻まれた。
自分のヤマイなんてどうでもよかった。
自分の怪我なんてどうでもよかった。
許せなかったのは自分以上に流海が事故に遭わされて、集中治療室に隔離されていることだった。
弟を傷つけ続けた大人が憎かった。
ヘルスを守る為に私達のヤマイを特定した研究者達が許せなかった。
その結果、流海が生死をさ迷う事実に反吐が出た。
憎くて憎くて堪らない。
嫌いで嫌いで仕方がない。
あの子が何をした。弟が何をした。私の片割れが何をしたッ
だから私は許さない。
流海を傷つける奴は許さない。
流海に痛い思いをさせる奴は誰であろうと許容しない。
何度も死にかける程の痛みを経験してきたあの子を、これ以上傷つけるだなんて我慢できない。
――握り締めた硝子片で金髪の額を殴打する。
皮膚を裂いた感覚と血飛沫が飛び、私の頬に散ってきた。
「いッ、がッ!!」
悶えた金髪の額から血が流れる。傷を押さえた男の手の甲をもう一度硝子片で殴打すれば、私の右掌も切れた感覚がした。
血液で硝子が滑りそうになる。
皮膚を裂いた痛みは無視をした。
金髪に掴みかかろうとすれば蹴り返されて床を滑る。
だから硝子片を金髪に投げつけて、私は素早く流海を抱えた。
「流海、流海、流海ッ!!」
うつ伏せで倒れていた弟の体を抱いて、視界が滲む。
駄目だ、笑え、笑え。笑わなければこの子がまた痛いことになる。酷いことになる。事故が起きる。
だから笑え。頬を上げて目尻を下げて。どれだけ不格好でも「笑顔」だと認識される表情でいろ。
額を切っている流海は目を開けて、私を見上げてくれたから。
不格好に笑う私は片割れの頬に手を添えた。
流海は重たそうな首を起こして、私達は鼻先が触れ合う距離で目を閉じた。
大丈夫、大丈夫、大丈夫。流海の温かさはここにある。無くなってない。無くしてない。掛け替えのない片割れはここにいる。
「るい……涙、ごめん。もっと、気を付けるべき、だった……」
「いいよ、いいんだ。流海が無事ならそれでいい。話は全部あとで聞く。だから今は逃げよう……流海」
口が良く回った。
声は震えていなかっただろうか。
顔を離して片割れを見る。
火傷している流海の腕が痛々しくて、早く硝子片を取り除いて手当をしたくて。
ポケットに入れていたスマホを開こうとするが、血で滑って画面が反応しない。警察を呼んで救急車を呼びたいのに、それが許されなくて苛立って。
私は直ぐに流海を抱えて、「ペストマスクさん」を一瞥した。
「砂時計は見つけましたよ」
「――おいおいおいおい、余計なことしてんじゃねぇぞお嬢さん」
流海を抱いて部屋を出ようとした時――顔を勢いよく蹴り飛ばされる。
その勢いに驚きながら流海を抱き締めるが、脇腹も蹴られて腕が離れた。
クソ、クソ、クソがッ!
気持ち悪さを堪えて顔を伏せる。駄目だ、今は笑ってない。顔が笑ってないから流海を見られない。流海に顔向けできない。
歯を食いしばって笑おうとすれば再び額を蹴り上げられて、視界が回った。
「ぐッ……」
「ほんとによぉ……絶好のチャンスなんだから邪魔すんな。大人しくしてろよ」
霞んだ視界に金髪を見る。額を拭い、手の甲の血を払う男は鬱陶しそうな顔をしていた。
その顔で流海を確認しようとしやがるから、私の堪忍袋の緒が切れた。元々切れていたものが綺麗に消失した。
金髪の足首を勢いよく引っ張って馬乗りになる。
赤い目は見開かれているが関係ない。
私は男の顔を拳で殴りつけ、襟を掴んで顔を寄せた。
「てんめッ!」
「その表情で流海を見るな」
額を勢いよく打ち合わせて怒気を向ける。敬語なんてクソ食らえ。額が痛んで
これ以上流海に怪我をさせる恐れがあるものは、なんだって許さない。体を張って止めてやる。
「あぁ……ヤマイかお前ら」
男が私の左手首を掴む。金髪の左手の甲を見れば印数二のサイコロがあり、私は奥歯を噛み締めた。
「だったら尚更邪魔すんな。ヤマイは仲間だと思ってんだぜ、一応。邪魔すんなら敵だがな」
「人の家に押しかけておいて何様だ」
感情が沸々と煮えている。
煮えて煮えて温度を上げ続け、全ての感覚が過敏になる。
だから耳は衣擦れを聞き取り、反射的に口角を上げたのだ。
流海が動いたと思ったから。
流海の足が確かに移動したから。
だから、だから、だから――
――「ペストマスクさん」が流海を抱えている意味は理解しなかった。
「……は、」
口角が引きつりながらも笑い続ける。金髪男の顔は床に押さえつけることで隠してみせた。
笑顔以外を向けてはいけない。意識が朦朧としていようとも、流海の顔はこちらに向いているから。「ペストマスクさん」が私の片割れを抱えて、砂時計を持っているから。
「待て、おい、お前ッ!!」
嫌な予感が背筋を撫でた。
今動かなければいけないと思って。今動かなければ全てが駄目になると思って。
金髪を放り出して、血で滑りながらも足を踏み出して。
「流海ッ!!」
流海も手を伸ばせば届く距離だ。
けれども片割れの腕は、方や火傷、方や硝子片の餌食だから。
伸ばせないと分かっているのに、それでも伸ばされることを望んでしまって。
無理やり引き上げた頬が痛かった。
「災いたる……ヤマイの、者はみな――死なねば、ならない」
それは苦しそうな声だった。
それは酸素が足りていないような声だった。
それは流海の声でも金髪の声でもない――「ペストマスクさん」の声だった。
流海の首に腕を回し、砂時計を逆さにする「ペストマスクさん」
何をしても変わらなかった砂の流れが逆になる。
やめろ、やめろ、何するやめろ。
「やめッ!!」
黒い上着に指先が触れかけて、それより早く――流海と「ペストマスクさん」が消えるから。
私は床に倒れ込み、心臓は早鐘を刻み続けた。
なんだ、なんで、今、なに、なんだ。
フローリングを触る。
そこには何もない。誰もいない。
壊れた窓から吹き込む風が硝子片を揺らした。
今ここにいたのに。今、なんて言った。なにが起こった。待て、待て、待てよ待ってくれ頼むからッ
血だらけの手で頭を掻きむしる。
部屋のどこを見ても流海はいなくて、「ペストマスクさん」もいなくて、訳が分からなくて。
流海、流海、流海はどこ。私の片割れ。私の弟。私の大事な――唯一の家族は、どこにいったッ
理解が出来なくて吐き気がする。
理解したくなくて眩暈がする。
体はまるで土下座でもするように崩れ込み、額がフローリングに当たった。
「るかぁ……」
目の縁から
不安に押し潰されそうで、胸の中心が空っぽになってしまったようで。
吹き抜ける隙間風が、私を内側から凍えさせた。
「あちゃー……こりゃ駄目だな、弟君は」
金髪の声がして、肩を軽く叩かれる。
だから私は勢いよく男の顔を殴り飛ばそうとして、それよりも前に拳を掴まれたのだ。
「残念だったなお嬢さん。お嬢さんが砂時計を持ってきたから、アイツは向こうに帰っちまった」
拳を振りほどけないまま金髪の声を聞く。
憐れむような、呆れたような声色で。
男の開いている手は私の肩を
「おいおい泣くなよ。俺は泣いてる女が苦手なんだ」
男が困ったように笑う。
だから私は左手で男の襟を軽く掴み、ゆっくり胸元に顔を寄せた。
「あ? 俺はそこまで慰める気ねぇぞ?」
「……貴方、私に笑いましたね」
「いやいや、なんだよ急に敬語で気持ちわ、りぃ……」
過敏な耳が嫌な音を聞いた。
倒れないように備え付けてある棚が揺れる音だ。
男は気づいたように私を突き放そうとするから、私も負けじと男の服と腕を掴み続けた。
視界に影が出来る。嫌な影だ。
「おい!!」
「残念ですね――巻き込まれてください」
なんだか全てがどうでも良くなった。
流海が消えた。目の前で消えた。それは私が砂時計を持って来たからだと言う。
流海、流海、流海はどこだ。
どんな怪我も痛みも苦しみも、死の縁だって我慢できる。諦められる。
それでも、それでもさ。
流海がいない。
その事実だけは、耐えられないから。
それが私は何より辛いから。
金髪を巻き込んで――私は棚の下敷きになった。
* * *
誰かが笑うと事故に遭う。
誰かの笑顔が消えていく。
笑ってくれたのに。楽しそうだったのに。悪意なんてなかったのに。
笑ってくれた子の顔から楽しいが消えるのは、私のせいだ。
私のヤマイは人から笑顔を奪っていく。
笑っていた人の顔を青くさせ、白くさせ、泣かせて怖がらせて痛がらせて。
最低なヤマイだ。最低な事象だ。最低な存在だ。
別に奪いたいわけではないのに。顔を曇らせたいわけではないのに。
笑顔が消えるその瞬間が、嫌いで嫌いで堪らないから。
誰も私に――笑いかけないで。
――目が覚めた。
不鮮明な視界。不鮮明な意識。不鮮明な場所。
私を覗き込んでいる影がある。黒い影だ。
黒で思い出したのは、「ペストマスクさん」
得たいが知れなかった存在。結局なにも分からなかった都市伝説。
そいつと会って、全部が滅茶苦茶になった気がする。
――災いたる……ヤマイの、者はみな――死なねば、ならない
そんな言葉が耳の奥で再生されて、流海が……。
流海。
「……るか」
上手く回らない舌で名前を呼ぶ。それでも返事はなくて、自分の手が握り締められているとそこで気づいた。
視線を動かして点滴スタンドを見る。そこにはメディシンと輸血パックが下げられており、私は瞬きを繰り返した。
「るい、涙、聞こえるかい? 涙ッ」
震える声が聞こえた。
霧がかった頭で顔を動かし、見えたのは黒い髪の女の人。
それが柘榴先生だと気づくのに数秒使い、私の手を握り締めていたのは猫先生だったとそこで知る。
何度か経験したことがあるこのやり取り。定型的で、それでも情緒を乱す安否の確認。
私は閉じそうになる瞼を努めて上げ続けた。
「……わかる。大丈夫、だから」
柘榴先生に応えて猫先生の手を握り返す。柘榴先生は私の額を何度も撫でてくれるから、自然と息を吐いてしまった。
猫先生が祈るように私の手を額に当てる。その温かさを感じていれば、脳裏をよぎる姿があった。
私は点滴スタンドを勢いよく揺らして起き上がる。
「流海は」
ベッドが軋む音を立てる。
頭に巻かれた包帯も、頬に貼られたガーゼも気にならない。
左肩が痛んだがどうでもいい。
胸に潜む不安に比べれば何でもない。
「流海は、どこ!!」
猫先生の手を強く握り返し、柘榴先生の腕を掴む。二人が目を見開いた姿を見逃さない。
それが私の胸を吹き抜ける不安を大きくするから、体に鳥肌が立った。
「柘榴先生、猫先生、変な奴に手を貸したん、です。黒い上着とペストマスクをつけた奴。そいつを家に連れてって、砂時計を探して欲しいって言われたから、いや、無断でそういうことしたのは謝ります。ごめんなさい。でも、あぁ、クソッ! 金髪、見たことない金髪、そいつも来て、流海が怪我して、訳が分からなくて、ほんと、なんだよ、何なんだよッ!!」
呼吸を深くできない。思考がまとまらない。口調があやふやで支離滅裂になる。
柘榴先生も猫先生も悪くないのに苛立ちをぶつけるような言い方をしてしまう。そうすればより自分に苛立ち始めるから呼吸は浅くて、最悪な循環だ。
柘榴先生に背中を撫でられる。私は気づくと肩で息をしており、猫先生は痛い程に手を握ってくれた。
「涙……流海は、別の病室にいる」
猫先生の声に顔が上がる。体の中心を吹き抜けていた冷たい風の威力が弱まり、それでも不安は拭えない。
「どこですか、行きます」
「涙」
「行かせてください」
「落ち着いて涙、まずは自分の怪我を、」
「流海に、会わせてッ!!」
体が震えて、不安の風が再び吹き抜ける。
――お母さんと、お父さんは?
――亡くなったよ
――……なく、なった?
――あぁ、君達のヤマイに巻き込まれてね
全身に鳥肌が立って息が苦しい。嫌な言葉を思い出して、嫌いな光景を思い出して、嫌悪する空気を肌が思い出す。
お願いだから、お願いだから、お願いだから。
私から流海まで取らないでッ
柘榴先生と猫先生に
困らせていると分かっている。困惑させていると自覚がある。
それでも私は我慢できない。流海のことだけは、片割れのことだけは譲れない。
二人は私の手を握ると、顔を苦く歪めた。
「……涙、流海はとても危ない状態で見つかったんだ」
病室を出る。ここはパナケイアの病室だと言われながら。
「……ごめんよ、傍に居なくて」
柘榴先生が私の背中を支えて、猫先生が手を引いてくれた。どうして二人が謝るのだろうか。分からない。
足首が重度の捻挫を起こしていると言われたがどうでもいい。
歩けば響く痛みなんて日常的だ。
体のどこかが痛むだなんて慣れっこだ。
痛むことこそ日常だ。
だから、片割れがいない非日常を元に戻すんだ。
「流海は……重度の血液不足と毒素による体内損傷、意識は混濁して未だに目覚めていない」
柘榴先生が努めて平坦な言葉をくれる。
私は窓越しにベッドで眠る流海を見つめて、彼女の言葉を聞いていた。
「目覚めたとしても……流海はもう――長くない」
言葉は全て私の中に入ってくる。
入ってくるのに理解できない。
理解できないのではない――理解したくないのだ。
ベッドに繋がれた流海に刺さる無数の点滴も。
弱く続く心電図も。
呼吸を補助する酸素マスクも。
全部、全部、全部ッ
「るか……」
視界が滲んで窓硝子に縋る。
「うそだ、なに、なんで、なんだよ」
言葉が見つからなくて壊れていく。
言葉の羅列が崩壊していく。
「なに、したんだよ。るかが、なにした。なんで、ふざけ……ッ」
窓硝子を渾身の力で叩いても流海には届かない。
点滴スタンドが倒れて猫先生に羽交い絞めにされる。
柘榴先生が私の顔を抱き締めて、視界から流海が隠された。
「ふざけんなよッ!!」
力の限り叫んだって時間が戻る筈もない。
何が悪かった。
何が駄目だった。
何が問題だった。
「お前たちは悪いことをしたんだ。問題だらけの悪いこと」
割り込んだ声の主の方に顔を向ける。
そこにいるのは私と同じように包帯やガーゼで手当てされている金髪野郎だから。
私はカテーテルを腕から引き抜き、点滴スタンドを握り締めた。
猫先生を押し飛ばして柘榴先生を振り払う。
人が想定できる以上の力を出す為の原動力は感情の中にある。
それは優しさではない。
それは心配ではない。
それは悲しさではない。
それは――怒りだ。
金髪の頭を点滴スタンドで殴打する。
廊下に血飛沫が飛び、同時に私の頭も殴打された。
体が揺れて壁に激突したがどうでもいい。
点滴スタンドを握って私を見下ろす金髪野郎は、薄く血を流す額と前髪を掻き上げた。
「敵の味方は敵だよな、お嬢さん」
「うるせぇ殺すぞ不法侵入野郎」
「哀れなお前に、説明と選ぶ道をやるようにって言う上司の命令で来てやったんだぜ? 俺は」
「待て
柘榴先生が私と金髪の間に入る。猫先生は私の肩を支えて、金髪は目を細めていた。
「そのまさかだよ、霧崎さん」
点滴スタンドのタイヤ部分が振り下ろされる。
それは柘榴先生の顔の横を過ぎ、私の眼前に示された。
「ようこそ~空穂涙ちゃん。お前は――異質に足を踏み込んだ」
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