第3章 揺れる波間、揺れる心 1


 翌朝、レティシアは太陽が地平から顔を覗かせる頃には、ヒルベウスや供の奴隷達と、首都の北東にあるサラリア門にいた。


 早朝でも門はこれからローマを発つ人々で賑やかだ。

 レティシアの前には、二頭曳きの旅行用の立派な馬車が二台並んでいる。屋根付きの立派な馬車を、レティシアとモイアは呆気に取られて眺めていた。


 隣に立つモイアの頭は、包帯が巻かれていて痛々しい。ローマに残すことも考えたが、出血が止まっているのと、モイア自身のたっての希望で、同行することになったのだ。


 食料、食器、着替え等々、旅に必要な大量の荷物を奴隷達が馬車に積み込み終わると、一人の奴隷が、準備が整ったとヒルベウスに報告する。

 今朝、紹介されたオイノスだ。他にも一緒に旅をする奴隷達に引き合わされている。


 モイアと共に後ろの馬車に乗ろうとしたレティシアは、ヒルベウスに腕を引かれた。


「君は前の馬車だ」

 どちらも立派な馬車だが、扉の装飾など、明らかに前の馬車の方が凝った造りだ。


「君まで乗っては、後ろの馬車が手狭になる」

 御者を除いて、奴隷達は皆、後ろの馬車に乗り込んでいる。

「ですが……」

「わたしと二人が嫌だと言うなら、モイアも一緒に乗ればいい」


 突然、話題に上がったモイアが、滅相もないと、ぶんぶん首を横に振る。


「わたくしは後ろの馬車で結構です! 新参者ですから、他の方々に教えていただきたいことが色々ありますし……」

 訳ありで引き取られた身で、主人の馬車に同乗して、やっかみを受けてはたまらないのだろう。モイアの表情は必死だ。わがままを通すのは気が咎めた。


 乗り込むと、すぐに馬車が動き出す。街道の石畳を進むと、がたごとと揺れが伝わってくる。

「今日は夜まで馬車に乗り通しになる。ちゃんとクッションを敷いておかないと、体中が痛む羽目になるぞ」

 座席には、柔らかそうなクッションが幾つも置かれている。忠告に従って、座りやすいように位置を調節した。


「気候がいいのが幸いだが、カルヌントゥムまでは長旅だ。疲れや不調を感じた時は、遠慮なく言ってくれ」

「はい……」

 曖昧あいまいに頷くと、向かいに座るヒルベウスがずいと体を前に乗り出した。


「何か気になることでもあるのか? 一行の中で医者は君一人だ。医者が体調不良になっては誰が看る? 決して無理はしないでくれ」

 黒い瞳で覗き込まれて、心臓が跳ねる。レティシアは慌てて言い訳した。


「その、旅慣れていないものですから、実感が湧かなくて……。どういった行程なのですか?」

「そうだな、予定では――」


 ヒルベウスの説明によると、イタリア半島東岸のアンコーナまで馬車で陸路を進み、対岸のアクイレイアまでアドリア海を船で北上。

 アクイレイアから軍団が駐屯するドナウダヌビウス河沿いのカルヌントゥムまで、再び馬車で街道を進む予定らしい。


「順当に行っても、半月はかかるな」

 クッションにもたれ直したヒルベウスが軽く吐息する。

「旅慣れていないのなら、余計に疲れるだろう。何かあればすぐに言ってくれ」

「お気遣いありがとうございます」


 ギリシアから徒歩の旅だったのに比べれば、馬車の旅はすこぶる楽だが、ヒルベウスの気遣いを感じてレティシアは素直に頭を下げた。


 話題が途切れ、沈黙が落ちる。馬車が石畳を走る音が耳に届くだけだ。


「その……。君の母君はどんな方だったんだ?」

 沈黙を気詰まりに感じたのか、ヒルベウスが口を開く。


「母、ですか?」

 あまり触れられたくない話題に、声が震える。動揺を押し隠して、レティシアは当たり障りのない言葉を探した。


「娘の私が言うのもなんですが、とても綺麗な人でした。父のことを深く愛していて……」

 うつむいて、強張りそうになる顔をヒルベウスから隠す。

「本当に、仲睦まじい両親でした」

 決して嘘は言っていない。だが、これ以上深入りされては困る。レティシアは慌てて別の話題を探した。


「ヒルベウス様のお母様は、どんな方だったのですか?」

「……すまん。物心つく前に亡くなったのでな。わたし自身は、母のことをほとんど覚えていないんだ」

 ヒルベウスの返答に申し訳なくなる。


「すみません! 昨日、うかがっていましたのに……」

 自分の母から話題を逸らしたい気持ちが強すぎて、昨日聞いた話がすっぽり抜け落ちていた。


「いや、気にするな」

 あっさりかぶりを振ったヒルベウスが、ふと考える表情をする。


「母を知る人から聞いた話では、世話焼きな性格だったそうだ。高齢の親戚の家を訪ねたり、我が家で解放した奴隷が結婚や出産すると祝いの品を送ったり……。事情を知っていれば、きっと君のことも放っておかなかっただろう」

 突然、自分のことを言われてレティシアは小首を傾げる。ヒルベウスが苦笑した。


「昨日も言ったが、君はいとこだ。縁者を守るのは、次期家長として当然の務めだ。だから、君が妙な遠慮をしたり、負い目を感じる必要はない」

 ようやく言わんとした内容を理解して、レティシアは慌ててかぶりを振った。


「遠慮というか……。慣れないことが多すぎて、戸惑っているのです。ヒルベウス様のお気遣いには、感謝の言葉もありません」


「その他人行儀な口調が、遠慮だと思うが」

「私はヒルベウス様に雇われた身ですから」


 浮かれた挙句、醜態しゅうたいを晒したくはない。自分への戒めも込めてきっぱりと告げると、ヒルベウスの口元にからかいの笑みが浮かんだ。


「雇われ医師である前に、求婚された身ではないのか?」

 かあ、と瞬時に頬が熱くなるのを感じる。


「それは既にお断りしました!」

「わたしは諦めていないぞ。……無理強いする気はないが」


「当り前です! 無理強いされるくらいなら、舌を噛み切ります!」

 ヒルベウスを睨みつけると、すこぶる楽しそうな笑みが目に入った。


「そうやって言い返したり、平手打ちを食らわせたりしている時の方が、生き生きしているぞ」


「ひ、平手打ちのことは持ち出さないでください!」

 いたたまれない気持ちに、体を縮める。

 なぜだろう。今まで何を言われても唇を噛んでやり過ごしてきたというのに。ヒルベウスが相手だとうまくいかない。



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