第7章 夜気に香り立つ花 6


 夜明け前の玄関広間アトリウムは薄暗かった。蝋燭の燃え残りが、夜の名残のようにおぼろな光を揺らめかせている。


「ヒルベウス様!」

 オイノスを従え、軍団基地へ向かおうとしていたヒルベウスは、背後から追ってきた声に驚いた。


「レティシア⁉」

 振り返ると、無人のアトリウムを小走りに駆け寄ってくるレティシアの姿が見えた。


「どうした?」

 今は奴隷達もまだ起き出していないほどの早朝だ。昨夜、夜更かししたレティシアが起き出しているとは、予想もしていなかった。

 姿を見れば離れがたくなると考え、眠っている間に出ようとしていたのだが、水の泡だ。


 よほど急いできたのだろう。レティシアは寝間着とおぼしき生成きなりのストラにパッラを巻いただけの格好だ。髪も解かれたままで、柔らかそうな栗色の髪が、走るたびに揺れている。


「よかった……。間に合いました」

 ヒルベウスの前まで来たレティシアは、荒い息を吐く胸元を片手で押さえる。


「お忙しいところを呼び止めてすみません。これを渡したくて……」

 レティシアが両手で差し出したのは、手の中に収まりそうなほどの小さな布袋だ。何だろうと思いつつ受け取ると、よい香りが漂う。


「ラベンダーやローズマリーなど、よい香りの薬草で作った香袋です。少しでも安らかに眠る助けになればと思いまして……」

「心遣い、感謝する」

 レティシアの気遣いが嬉しく、自然と笑みがこぼれる。

 昨夜、部屋へ送っていった時の言葉から、急いで作ってくれたのだろう。


「昨夜はあまり眠れていないのではないか?」

 心配になって問うと、レティシアはぶんぶんと首を横に振った。絹のような髪が肩を滑る。

「大丈夫です。手間のかかる物ではありませんから」

「ありがとう。大切にする」


 香袋を握りしめた拍子に、違和感に気づく。かさかさと柔らかい葉の中に、何か固い物が入っている。香木でも入れてあるのだろうか。

 興味を引かれて袋の口を開けると、


「駄目ですっ」

 レティシアの慌てる声が聞こえた。袋の口から顔を出したのは、小さな木製の人形だ。元は彩色されていたようだが、あちこち剥げてしまっている。


「これは……ララーリウムの人形か?」

 ローマの各家庭には、ララーリウムと呼ばれる小さな祭壇さいだんがあり、家庭の守護神ラーレスが祀られている。祭壇には家族の姿を模した小さな人形が一緒に祀られており、毎朝、家長が家族の健康を願って、祈祷きとうと捧げ物を備えるのが慣習となっている。


 手の中にある人形に覚えはない。優しげな顔立ちと髪型、わずかに残る塗料の色から、娘を模した人形だとわかる。


 レティシアを見ると、頬を薄紅色に染め、落ち着きなく視線を彷徨さまよわせていた。が、意を決したように口を開く。


「我が家に祀っていた私の人形です。生まれた時に、父が手ずから彫ってくれたんです。我が家はもう、捧げ物をする家長もおりませんから……故郷をつ時、持って出てきたんです」

 レティシアの視線が恥ずかしげに伏せられる。長いまつげが淡く影を落とした。


「女の身では、大隊長トリブヌスのヒルベウス様についていくのはかないませんから、せめて身代わりをお側に置いていただけたらと……」

 語尾が恥ずかしそうに消えた。乱れた髪の間から覗く耳が、先まで真っ赤に染まっている。


 隣にオイノスがいるのも忘れて、思わず抱き寄せる。レティシアが小さく悲鳴を上げた。


「……馬の支度をしてきます」

 気を利かせたオイノスが小さく呟いて、先に出て行く。

「あ、あの……」

 いつ他の奴隷達も起き出してくるかわからない。狼狽うろたえるレティシアの頬に手を添え、上を向かせる。


「大丈夫だ。まだ誰も起きていない」

 囁いて、問答無用で口づけると抵抗がやんだ。よほど恥ずかしいのか、頬も首筋も真っ赤で、手のひらに触れる肌が燃えるように熱い。


「……熱があるのではないだろうな?」

 心配になって問うと、栗色の瞳にきっ、と睨まれた。

「違いますっ。一体どなたのせいだと……」

 文句を言おうとする口を再びふさぐ。


「ありがとう。君がついていてくれるなら百人力だ。君はわたしの守護女神だからな」

「女神だなんて、とんでもありません。恐れ多いです」


 レティシアの吐息は甘く、このままずっと口づけしていたいが、オイノスを長く待たせるわけにもいかない。後で、どれほどからかわれるやら。

 夕べに引き続き、理性を総動員して顔を離す。


「エウロスの時も馬車の襲撃の時も、助けてくれたのは君だ。今回も無事に帰ってこられるだろう」

 心が浮き立つような幸せを感じるのは、何年ぶりだろう。


 親愛で結ばれた関係を築こうと心を砕いてきたフルウィアには裏切られた。同時に友も失った。

 血を分けたタティウスとは憎み合う仲だ。義母には毒殺をはかられるほど憎まれている。実の父であるネウィウスとも、政務や軍務で離れてばかりで、共に過ごした時間は少ない。


 もう、誰とも愛情に満ちたやりとりなどできないと諦めていたのに。

 愛情を示し、返される。些細ささいなやりとりがひどく嬉しい。周りを気にしなくていいのなら、レティシアを抱き上げて、くるくると回りだしたいほどだ。


「軍団基地は同じ町の中だ。休みが取れた時は、できるだけ帰ってくる」

「無理はなさらないでください。……御無事を祈って、お待ち申し上げております」

 はにかむレティシアに愛しさがこみ上げる。


「では……武運を祈っていてくれ」

 最後に、優しい口づけを落とし、今度こそヒルベウスはアトリウムを出た。

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