第7章 夜気に香り立つ花 5


「言っても詮無い望みと知っています。それでも、私は男に生まれたかったのです……」

 自分の手を握るヒルベウスの手に視線を落とし、呟く。

 大きな手。こんな手が自分にあればと、叶わぬ願いに何度涙をこぼしただろう。


「……母は、愛する父の跡継ぎを産めなかったことを、死ぬまで悔いていました……」

 胸中にこごる暗い記憶を告白する。


 言いたくないと叫ぶ未練と、これ以上隠しておけないという諦念が声を震わせる。ヒルベウスから忌避の眼差しで見られるのは堪えられないと心が悲鳴を上げていたが、一度こぼれ出た感情は止まらなかった。


「体が弱かった母は、私の出産に苦しんだ後、子どもを授かれない体になりました。母はことあるごとに私を責めたものです。「お前が男に生まれていたら、誰もが認める立派な跡継ぎになれたのに。女のお前など、生むのではなかった」と……」


「腹を痛めて生んだ娘に、なんという暴言を……!」

 ヒルベウスが怒りもあらわにこぼす。我事ではないのに憤ってくれる心意気が素直に嬉しい。


「父は、男でも女でも関係ない。お前は大切な跡継ぎだと、私に医術を教え、愛してくれました。けれど……。母は、最期まで私を一度も愛してくれませんでした……」


 母に最期にかけられた呪いの言葉が甦る。

 母に愛されたいと願い、最後まで叶えられなかった自分があまりに滑稽こっけいで、泣きながら笑う。


「馬車の事故で亡くなったのは、父だけなんです。もともと、いくらか狂っていた母の心は、父の死に堪えきれませんでした。母は口を開けば私を責めました。なぜ、私が父の代わりに往診に行かなかったのかと。父の代わりに私が死ねばよかったと、何度も何度も……」


 レティシアだって、叶うなら自分が父の身代わりになりたかった。医師として尊敬されていた父が生き残れば、どれほど多くの人を助けられただろう。

 どれだけ村人に薬を作っても、病人の面倒を見ても、『狂女の娘』として村人に忌まれていた自分より、父が生き残った方が、母も村人達も喜んだはずだ。

 ――目障りな存在がようやく消えた、と。


 けれど、冥府の神は、残酷にも父だけを連れ去ってしまった。

 後に、一片の理性もなく狂った妻と、呪われた娘をのこして。


 レティシアは衝撃に口もきけないでいるヒルベウスを濡れた瞳で見上げた。

 冷静さを取り戻せば、この黒い瞳も村人達と同じ、忌避と嫌悪の眼差しに変わるに違いない。


 身も心も、切なさに千々に引き裂かれそうだ。

 けれど、ヒルベウスが道を誤るよりは、ずっといい。


「ヒルベウス様のお気持ちは、天にも昇るほど嬉しいです。でも、私にはヒルベウス様に想っていただける価値はありません。私は、狂女の娘なんですから」


 今まで母の死に様を誰にも明かしたことはない。レティシアは震える唇で、初めて母の死の真相を告白する。


「母は、父の死に堪えきれずに、葬儀の晩、私の目の前で自ら毒をあおって死にました。苦しみ悶え、これで父の元へ逝けると笑いながら」


 母の最期の笑い声は、今も耳の奥にこびりついて離れない。

 両手で耳をふさぎ、頭を振る。

 固くつむったまなうらに浮かぶのは、夕方見た軍装だ。凛々しさに見惚れると同時に、胸の奥に宿ったのは、恐怖の冷たい塊だった。


 レティシアは母ほど苛烈に愛を貫いた人を知らない。いつか、自分自身に愛する人ができた時、母のようにならないとどうして言える? 我が身に流れる血の半分は、狂った母のものなのだから。


「私には母の血が流れています。私、怖いんです。私も母のように狂ってしまったらどうしよう。愛しすぎて、心が壊れてしまうかもしれない。だって怖くて仕方がないんです。ヒルベウス様が軍の指揮を執られると聞いただけで、こんなに……っ」


 胸の内に巣食う恐怖を思わず吐露とろして、己のあやまちに気づく。


「違うんです! これは……っ」

「違わない」

 体ごと背けた肩を、大きな手に掴まれる。頬に手を添えられ、ヒルベウスの方を向かされる。


「もう一度、言ってくれ。わたしは期待してもいいのか?」


 熱くかすれる声。

 レティシアの唇が震えるが、言葉にならない。

 頬に添えられていた手が滑り、ヒルベウスの親指が唇をゆっくりと辿る。


「教えてくれ。君に無理強いはしたくない」

 視線がぶつかる。夜の闇よりもなお深い色をたたえた瞳。


 想いを隠さねばと理性が止めるより先に、唇は勝手に言葉を紡ぎ出していた。


かれております。自分でも抑えきれないほどに」

 「ですが」と激しくかぶりを振る。


「私の想いなどお捨て置きください。ヒルベウス様に釣り合わぬことなど、はなから承知しております。あまりに身分違いなのですから」


 秘めていた想いを知られてしまった恥ずかしさに、手を振り払って逃げようとする。が、逆に有無を言わせず抱き寄せられた。

 耳元で囁くヒルベウスの声が、熱く耳朶じだを震わせる。


「よく思い出せ。わたしが一度でも、身分の違いをいたことがあるか?」


 ふる、とレティシアは首を横に振った。ヒルベウスが身分差を口にしたことは一度もない。

「ですが……」

 なおも言い募ろうとした口元を、ヒルベウスの人差し指に押さえられる。


「もう何も言ってくれるな。自分のげんを破って、その体に言って聞かせたくなる」

 ヒルベウスらしくない物言いに、言葉が詰まる。


「無理強いはしない。嫌なら引っ叩くなり噛みつくなり、好きに逃げてくれ」


 頭の奥がしびれるようなヒルベウスの声。レティシアは、身動きもできずにゆっくり近づいてくる黒い瞳を見つめていた。

 途中で恥ずかしさに堪えきれず、目を閉じる。


「んっ……」

 唇が触れた瞬間、洩れた声は、自分のものかヒルベウスのものか。


 全身に甘いさざなみが走る。ヒルベウスの熱い指先が頬から顎、首筋へと下っていき、鎖骨に触れんとしたところで、不意に離れる。


 目を開けたレティシアが見たのは、固く握り締められた拳だった。


「駄目だな。これ以上君にふれていると、理性が溶けてしまいそうだ」

 熱っぽくかすれた低い声に、ヒルベウスが情熱を理性で押さえつけているのを知る。


「君に不誠実な真似はしたくない。死ぬ気はないが、明日をも知れぬ身なのでな」

 耳元で囁かれる真心のこもった声。


「だから」

 ヒルベウスの腕に力がこもり、強く抱きしめられる。


「無事ローマへ戻ったら、もう一度、求婚させてくれないか?」


 幸せに気を失いそうになる。こぼれそうになる涙を固く目を閉じて押し留め、こくりと頷く。


「ヒルベウス様のご無事を、心から祈っております」

 心の底から告げると、呻くように名を呼ばれた。


 燃えるような唇に己のそれをふさがれ、吐息が混じりあう。

 生まれて初めて味わう甘美な激流に翻弄される。


「く……」

 苦しげに呻いて先に身を離したのはヒルベウスだった。


「そんなに甘く応えてくれるな。自制が利かなくなる」

 レティシアが答えるより早く立ち上がったヒルベウスが、手を差し伸べる。


「もう夜も更けた。部屋まで送ろう」

「ありがとう、ございます」

 立ち上がり、手をつないだまま歩き出す。


 酔いはもう醒めているはずなのに、まだ心はふわふわと浮き上がっている。雲の上を歩いているような心地だ。

 夜気に混じる花の香り。今ならここが神々の住まう天空のオリュンポスだと言われても信じたかもしれない。


 同じ屋敷の中だ。中庭から自室へ、あっという間に着いてしまう。ヒルベウスが扉を開けてくれる。

 微かなきしみを立てて扉が開き、動いた夜気に薬草の匂いが流れ出す。モイアと薬草の仕分けをした後、すり鉢で潰したりしていた為だ。


「安眠効果が高そうな部屋だな」

 苦笑めいた声が聞こえ、部屋へ入ったレティシアは呆れられたかと振り返る。しかし、目に入ったのは優しい笑みだ。


「おやすみ。よい夢を」

 レティシアが言葉を返すより早く、ヒルベウスが扉を閉める。


「あの、ヒルベウス様も……っ」

 扉に取りすがる。しかし、ヒルベウスの意思を尊重して、開けはしない。


 今、開けてしまえば、決して戻れぬところまで行きついてしまう――。そんな確かな予感があった。

 扉の向こうのヒルベウスへ、精一杯の想いを乗せて告げる。


「ヒルベウス様も、どうか健やかな眠りを――」

 今夜だけではなく。明日からもずっと、どうか御無事で――。


「ありがとう。ではな」

 柔らかな低い声。足音が聞こえなくなっても、レティシアはずっと扉に身を寄せていた。


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