第7章 夜気に香り立つ花 4
官邸の奥向きは
ヒルベウスが言った通り、食事の間に太陽はすっかり沈み、半月が中天にかかろうとしている。
列柱の
回廊に置かれた青銅製のベンチの一つに、ヒルベウスはレティシアをそっと下ろし、隣に腰かけた。夜気の中、百合や
「昼間なら咲き誇る花が楽しめたのに、残念だな」
「ですが、薄闇に佇む花々も風情があります」
中庭をじっくり見るのは初めてだ。よく手入れされた中庭の中央には、
「ヒルベウス様は酔ってらっしゃらないんですか?」
ヒルベウスはレティシア以上に葡萄酒の杯を空けていたはずだが、先ほどの足取りに危なげなところはなかった。
「いや、少しは酔っているぞ」
伸ばされた手が、頬に触れる。
「ほら、自制心が弱くなっている」
「ご冗談をおっしゃらないでください」
ヒルベウスの手に自分の手を添え、頬から離そうとした。が、逆に指先を掴まれる。
「小さな手だな」
ヒルベウスの唇が手の甲に触れる。温かく乾いた唇。洩れる息から、酒精の気配がする。レティシアはあられもない声が出そうになるのをかろうじて
「指も細い。力を入れたら壊れてしまいそうで、不安になる」
唇が甲から指先へとすべる。
「わ、私はヒルベウス様のような大きな手に生まれたいと願っていました」
レティシアの手をすっぽりと包み込む大きな手に、夕方目にした軍装姿が甦る。
上背のある鍛えられた体。長い指の大きな手。
胸の中に沈んでいた叶わぬ願いが、思わず唇からこぼれ出る。
「私もヒルベウス様のように、男に生まれたかったです」
「それは困るな」
思いがけずきっぱりと言い切られて、戸惑う。背けていた顔を戻すと、ヒルベウスは生真面目な表情で続けた。
「わたしを男色家にするつもりか?」
声があまりに平坦で、冗談を言ったのだと
「ヒルベウス様を男色家だと疑う者など、一人もおりません」
「わたしが言いたいのはそういうことではない」
ヒルベウスの声が不機嫌そうに低くなる。再び右手に口づけられ、肩が小さく震えた。
「君が男では、求婚できないではないか」
真っ直ぐ見つめられて告げられた言葉に、心が射抜かれる。
衝撃にくらくらする頭で、告げられた言葉を必死に理解しようとする。
求婚? 誰が誰に?
ありえない、と理性が叫ぶ一方で、感情が喜びに舞い上がる。
歓喜を外に出すまいと、震える唇を強く噛み締める。浮つく心を理性で必死に押さえつけた。
「少しではなく、ひどく酔ってらっしゃるようですね」
声が震えてしまわないようにするには、気力を振り絞らなくてはならなかった。
ヒルベウスがレティシアを求めるのは、確実に自分の血を引く息子を得る為に、貞操の確かな処女が必要なのだと知っていてさえ、喜びが抑えられない。
少なくともヒルベウスは、レティシア自身を見て、求めてくれる。
レティシアが誰の娘であるかを関係なく見てくれる人は、今まで誰一人として、いなかった。
だが、それは単にヒルベウスが知らないだけだ。レティシアに流れる血がどれほど
「酔いに任せて言ったのではない」
低い声音には、怒りが宿っている。
「わたしが冗談で求婚するような男だと思っているのか?」
「いいえっ。……ですが、私はヒルベウス様に想っていただけるような者ではございません」
「身分のことを言っているなら――」
「違います!」
叶うのなら、ヒルベウスの腕に身をゆだねてしまいたい。
レティシアは激しく
「ヒルベウス様はご存じないのです。私の半分に、どれほど呪われた血が流れているか」
「どういうことだ?」
黒い瞳がレティシアを射抜く。いつもだ。いつもヒルベウスは真っ直ぐに人を見る。
真っ直ぐな眼差しが眩しく、嬉しくもあり、同時に、これ以上隠してはおけないのだと痛感する。
今まで、誰一人としてこれほどレティシア自身を求めてくれた人はいなかった。気を抜けば、すぐに心が舞い上がる。泣きたいほど嬉しい。
それでも。求婚を受けることはできない。
レティシアにかけられた呪いは、心の芯までがんじがらめに縛っている。自分には、ヒルベウスに求婚される資格などない。
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