第7章 夜気に香り立つ花 3


「君が願い事を言うなんて珍しいな。わたしの力が及ぶ事なら何でも尽力しよう」

 対面のヒルベウスに微笑んで見つめられ、動揺を抑えようと、もう一口ムルスムを飲む。酒精が理性を一撫でし、遠慮の代わりに大胆さを引き出す。


「あの、ネウィウス様の看病には支障が出ないようにしますので、毎日、数刻だけ町の診療所に手伝いに行ってもいいでしょうか?」


 よほど突飛な「お願い」だったのだろうか。

 ヒルベウスが目をく。レティシアは慌てて今日、足を痛めた女性を診療所につれていったことを話した。


「お願いです、診療所の手伝いに行かせてください!」

 タティウスに関する事柄は避けて事情を説明したレティシアは、深々と頭を下げた。


 もし許可が下りなくても、もう一度説得するなり、別の手立てを考えるつもりだ。治療を求める患者がいて、医者である自分がいるのに、見捨てることなんてできない。


「まったく……」

 呆れたような長い溜息が聞こえる。反対されるだろうかと、おずおずと頭を上げた。

「お願いというから何かと思えば……全く「お願い」になっていないではないか……」

 低い呟きが微かに聞こえる。


「反対しても君のことだ。諦めないのだろう?」

 見抜かれている。レティシアは素直に頷いた。


「はい。町の診療所が駄目でしたら、軍団病院を手伝わせていただけないかと考えておりました。そうすれば、少しでも軍医の負担が軽くなるのではないかと……」

 まじまじと見つめられ、居心地が悪い。

 ヒルベウスは鈍痛を覚えたように額に手をやり、もう一度、深い溜息をついた。


「どうなさいました? 頭痛があるのですか?」

 心配になって問うと、そっけなく首を横に振られる。

「頭が痛いのは病ではない。……わかった。診療所の手伝いを認めよう。軍団病院に行かれるよりは、マシだ」

「ありがとうございます!」


「……あんな男ばかりのむさ苦しい場所に、甘い蜜を放り込めるか」

 ヒルベウスの低い呟きと、オイノスがなぜか吹き出す音が聞こえる。が、浮かれるレティシアは気にしない。


「ただし!」

 ヒルベウスの厳しい声に思わず背を伸ばす。

「条件が一つある。オイノスは共に軍団基地に行くので無理だが、ゼリクか誰か、必ず供をつけろ。いいな?」

「それなら大丈夫です、モイアも手伝うと言ってくれていますので」

「モイアか……。まあいいだろう。ところで、その医者の素性ははっきりしているんだろうな? 信用が置ける者か?」

「はい。軍団病院にも勤めているイルクレスさんという方です」


 許可してもらったことに安堵する一方、タティウスについて黙っている罪悪感が胸を刺す。

 後でヒルベウスに怒られるかもしれない。だが、血を分けた兄弟が憎しみ合っているのをただ見ているだけより、ずっといい。


 新しく注がれたムルスムと一緒に、躊躇ためらいを飲み下す。蜂蜜入りだというのに、ひどく苦い。


「どうした? ムルスムが濃すぎたか? ……診療所の手伝いを決めたことを怒っているわけではない。困っている者を放っておけない性格は君の美点だ」

 顔をしかめていたのだろうか。ヒルベウスが優しく微笑んで慰めてくれる。


「……ありがとうございます」

 でも、と言いたい気持ちをこらえて、小さく微笑む。すぐに強張りそうになる口元を、杯を傾けて隠す。


 ヒルベウスに褒めてもらう資格がないのは、自分自身が一番知っている。一皮剥いた先にあるのは、腐臭を放つほどの浅ましさだ。


 人の役に立っている間だけは、自分の存在を認めてもらえる。忌避の眼差しが、たとえ一瞬だけでも弱くなる。

 誰にも存在を許されなければ――この身に刻み込まれた呪いの言葉と共に、消えるしかない。


 脳裏に甦ろうとする闇を、葡萄酒で流し込む。飲み慣れない酒精に惑わされ、頭がぼうっとする。


「甘くて飲みやすいからと言って、そんなに杯を空けていると、酔ってしまうぞ」

 杯から口を離し、ほう、と吐息したところに、ヒルベウスの注意が飛んでくる。


「すみません。なんだか喉が渇いてしまって」

「ほろ酔いになって薄く頬を染めた姿もあでやかだが……。ミントティーでも持ってこさせよう」


 あらかじめ作り置いていたのだろう。オイノスがすぐさまガラスの杯にミントティーを注ぎ、蜂蜜を一匙加えて、かき混ぜて出してくれる。


「ありがとうございます」

 礼を言って一口飲む。ミントの清涼感が、胸中のわだかまりを僅かに晴らしてくれる。


「そういえば、今夜の装いは麻なのだな。絹のストラも渡しておいたと思うが」

「はい。薄紅色のとても美しいものを。ですが、絹なんて贅沢品を身に着けるのは恐れ多くて……」

 モイアが熱心に勧めるのを必死に断って麻のストラにしたのだ。


「君に似合う色だと思って選んだのだが。もし気に入らなければ言ってくれ。わたしは女性の喜ぶ物には詳しくないのでな」

「気に入らないなんて滅相もありません! 見惚れるほど綺麗で……。あんなに美しい服はいつ着ればいいのか、わからないのです」


 大真面目に告げたのに、ヒルベウスはおかしそうに口元を緩めた。

「それほど気負うことはない。いつでも着ればよいのだ」

「ですが……」


「ではこうしよう。次に、二人で食事をする時に着てくれないか? あのストラを着た君は香り立つように美しいだろう。その艶姿あですがたを最初に見る幸運を、わたしにくれるか?」

「は、はい……」

 ヒルベウスの黒い瞳とぶつかり、思わず目を伏せる。


 今夜のヒルベウスの眼差しは、いつもと少し違う気がする。眼差しに不可視の炎が宿っているかのようだ。見つめられると体の奥があぶられるようで、顔を伏せて逃げ出したくなる。


 食事はもう終盤だ。オイノスが食後のデザートを供してくれる。三角形に綺麗に切られたケーキにはぎっしりとさくらんぼとクリームが詰まっており、上に塗られた蜂蜜が蝋燭の炎を反射して輝いている。


 レティシアも年頃の娘だ。甘い物には目がない。しかも、こんな豪華なケーキを目にしたのは生まれて初めてだ。

 口に入れたとたん、口の中に蜂蜜の甘さとさくらんぼの爽やかな酸味がふわりと広がる。蜂蜜に漬け込んださくらんぼを使っているらしい。

 噛むとさくらんぼの中から甘酸っぱい蜜が飛び出してくる。酸味と甘みのバランスが絶妙で、いくらでも食べられそうだ。


 今夜の料理はどれもこれも、貧しいレティシアが食べたことのない美食ばかりだが、このケーキが一番おいしい。


「気に入ってくれたようだな。よかったら、わたしの分も食べてくれ」

 嬉しさが顔中に溢れていたのだろうか。ヒルベウスが肩を震わせながら自分の前にある皿を押しやる。


「そんなっ、ヒルベウス様の分を取るわけにはいきませんっ」

 滅相もないと断ると、ヒルベウスは葡萄酒の杯を傾けて笑った。


「甘い物はあまり得意ではないのだ。葡萄酒の方がいい。君が食べてくれるなら助かる」

 気を遣ってくれる物言いに、素直に甘えることにする。

「ありがとうございます」

「……嬉しそうな顔で食べるな」

 レティシアの様子を見守っていたヒルベウスが柔らかに微笑む。


「すみません! 意地汚かったでしょうかっ?」

 慌てて口の中のケーキを噛み下すと、ヒルベウスは笑顔のままかぶりを振った。


「違う。相手が幸せそうな顔で食べていると、こちらも幸せな気持ちになるという話だ」

 ヒルベウスの眼差しに、居心地の悪い思いを味わう。


 なぜだろう。見守るようなヒルベウスの眼差しは、亡き父に似ている。しかし、父の眼差しに安心を覚えた記憶はあれ、逃げ出したいような居心地の悪さを感じた経験は、一度もない。


 なぜ、ヒルベウスの黒い瞳はこれほど心をざわめかせるのだろう。逃げ出したいのに、なぜか視線が離せない。


 レティシアはミントティー、ヒルベウスは葡萄酒を飲み干して食事が終わる。

「ごちそうさまでした。こんなにおいしいお食事は、生まれて初めていただきました」

 幸福感に満ちた息をもらし、丁寧に礼を述べる。

 お世辞ではなく、今夜の食事はレティシアの人生の中で一番豪華でおいしかった。こんな贅沢が許されていいのだろうかと、今更ながら不安になってしまう。


「満足してもらえたようで何よりだ」

 席を立ち、隣へ歩み寄ったヒルベウスが手を差し伸べる。

「ありがとうございます」

 ヒルベウスの手に自分の手を重ねて立ち上がろうとする。が、思っていたより酔いが回っていたらしい。たたらを踏んだ体を、力強い腕が支えてくれる。


「すみません。思っていたより、酔っていたようです」

「顔色も変えずに杯を空けていたから、意外と飲める口かと思っていたが……。そうでもないのだな」

 ヒルベウスの声に混じる苦笑の響きにうつむく。


「おいしかったのと緊張していたのとで、飲み過ぎてしまいました……」

「緊張か」


 ヒルベウスの笑んだ声がする。離れようとするより早く、ヒルベウスに横抱きにされる。

「ヒルベウス様⁉」

「酔っていては歩くのもままならないだろう。中庭で少し酔いを醒まそう」


「だ、大丈夫です! 自分で部屋まで戻れます! 下ろしてください!」

「すっかり日も沈んだ。もし部屋へ戻ってから気分が悪くなって、モイアの手をわずらわせては気の毒だろう?」

「いえっ、大丈夫ですから……っ」

 抗議を取り合わず、ヒルベウスは横抱きにしたまま、乱れのない足取りで食堂を出ていった。


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