第8章 秘密の交換条件 1


「ありがとう。祭壇ララーリウムに戻してくれ」

「はい。前を失礼します」


 寝台に半身を起こしたネウィウスの言葉に、レティシアはネウィウスの膝の盆を取った。

 盆の上には青銅製のラーレス神の小像と、捧げ物の果物が盛られた器、香炉、家族四人の人形が置かれている。先ほど香を焚いたばかりの香炉からは薄く煙が立ち上っている。


 レティシアは部屋の片隅にある祭壇に盆を戻した。本来なら、ネウィウス自身が祭壇の前で朝の祈祷きとうを行うのだが、動けないので便宜的な措置だ。


 盆を丁寧に戻し、レティシアはヒルベウスをかたどった人形を見つめた。

 ヒルベウスが軍団基地へ行ってから、今日でもう十日になる。

 指揮官ともなれば、よほど忙しいのだろう。便りは一度もない。前線の軍団勤めでは、便りがないことこそ良い便りだろうが、心配は尽きない。


 祈りを込めて人形を見つめていると、奴隷が運んできた朝食を食べていたネウィウスから声が飛んだ。


「ヒルベウスが心配かね?」

「っ」

 心中を見抜かれて言葉に詰まる。レティシアの動揺をよそに、椀の粥を匙ですくいながら、ネウィウスは淡々と告げる。


「昨日、ヒルベウスから報告書が届いた。この十日の間に何度か出撃して、小規模な戦闘をしたそうだ。敵は略奪は行うが、正面きっての会戦は避けているらしいな。クォーデン族が反乱者の中でも主戦論を唱えているらしい。ボヘミアに住む大部族・マルコマンニ族が参戦するという噂も流れているが、さて……」


 後半、己の思考に沈み、考え深げに呟いていたネウィウスは、レティシアを見て優しげに微笑んだ。


「そんな顔をせずともよい。ヒルベウスは怪我一つないそうだ」

「よかった……」

 ほ、と心の底から安堵の息をつく。

「ふむ」

 と頷いて匙を置いたネウィウスが、じっとレティシアを見つめる。


「一つ、聞きたいのだが。君とヒルベウスは特別な関係なのかね?」

「っ⁉」

 寝台の隣の椅子へ戻ろうとしていたレティシアは、予想外の問いかけに動揺してつんのめった。膝が木の椅子に当たり、大きな音を立てて倒れる。


「す、すみませんっ」

 慌てて椅子を起こし、迷った末、腰かける。ネウィウスは黙って再び匙を取り上げた。


 朝の祈祷を手伝った後、朝食をとるネウィウスに問診し、公務の書類を持ってくる役人と入れ違いに退室して、イルクレスの診療所に行くというのが、ここ十日の朝の流れだったのだが、今朝はとんでもない罠が待ち受けていた。


 椅子に座って唇を噛み締める。ネウィウスはどこまで知っているのだろうか。官邸の奴隷から、報告があったのかもしれない。

 息子についた悪い虫を追い払うのなら、ヒルベウスが不在の今が、絶好の機会だ。


 悪い方へと転がる予想を、深く息を吐いて追い出す。

 ヒルベウスは気難しいと言っていたが、レティシアに対するネウィウスはいつも穏やかで優しい。体を治すのが第一なのですから、公務を無理しないでくださいというレティシアの願いも聞き入れてくれた。


 父の面影を感じさせるネウィウスを、レティシアは慕い、尊敬している。ごまかす真似はしたくない。

 もう一度、深呼吸して心を落ち着け、覚悟を決める。


「どこからお話しすればよいか、わかりませんが……。ローマを発つ前に、ヒルベウス様に求婚されました。その場でお断り申しあげましたが。ヒルベウス様は、無事にローマに戻ったら、もう一度、求婚してくださると言ってくださいました……」


 話している間に心臓が騒ぎ出し、頬が熱くなる。ネウィウスの顔をまともに見られずうつむく。


「求婚⁉ あの堅物がか⁉」

 よほど驚いたのだろう。ネウィウスが素っ頓狂な声を上げる。


「ここへ来た日に、婚約を破棄したとヒルベウスから聞いていたが、まさか……」

「身分違いは重々承知しております。ネウィウス様をご不快にして申し訳ありません」

「確かに、かなりの身分違いだな。口さがなく言い立てる者には事欠かぬだろう」


 ネウィウスの穏やかな諭しに、いたたまれない気持ちが倍増する。元老院議員の嫡子が、一介の平民を妻に迎えようとすれば、どんな嘲弄を受けることか。


 レティシアが侮蔑を受けるのは構わない。もう慣れっこだ。だが、自分の存在がヒルベウスに迷惑をかけるのかと思うと、それだけで身が縮む。深く下げた頭を上げられない。


 と、ネウィウスの手が髪に触れた。不器用な手つきで頭を撫でられ、驚いて顔を上げる。


「勘違いするな。驚きはしたが、わたし自身は反対する気はない」

 レティシアを見るネウィウスの目には、優しい光が宿っている。


「あいつが自分から求婚するとはな。しかも、一度は断られて」

 ネウィウスは楽しげに喉を鳴らす。これほど嬉しそうな様子は初めて見た。


「あの、本当に反対なさらないのですか? 私は、何の後ろ盾もない平民の娘です。セビリア様には狂気の沙汰だと言われました。サビーナ様は反対なさいませんでしたが……」


 サビーナがヒルベウスの求婚を知った時の言葉が甦る。

 サビーナが反対しなかった理由は明らかだ。ヒルベウスがレティシアと結婚すれば、その分、タティウスが跡目争いで有利になる。


「反対してほしいのか?」

 冗談か本気か判断しかねる堅苦しい顔で問われて、レティシアは勢いよくかぶりを振った。


「滅相もありません。ただ、きっと反対されるものと思っていましたので……」

「ヒルベウスが自分の意志で君を選んだのだ。反対はせんよ」

 ネウィウスは疲れたように吐息すると、背中に重ねておかれた枕に力無くもたれた。


「ずっと側にいてやれたわけではないし、妻への負い目から、跡取りすら決められぬ情けない父親だが……。これでも、人の親を二十年以上やっておる。どの決断が子どもの一生を左右するかどうか、見抜く分別はあるつもりだ」


 どうやらヒルベウスは、毒殺未遂の件を、父に伝えていないらしい。


 もしネウィウスが知れば、サビーナの立場はなくなる。だが、限りなくサビーナが怪しいものの、エウロスは生死不明、明確な証拠がない状態では、悪事の立証は難しい。言いがかりだと言われれば、反論のしようがない。


 ネウィウスが妻に抱いているという「負い目」も気になるが、レティシアにはそれより知りたい事柄がある。

 聞くならば今しかないと、思い切って口を開く。


「ネウィウス様。一つ、お教えいただきたいことがあります」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る