第13章 きみを取り戻すためならば


「どこへ行く⁉」


 モイアから事情を聞き、自らのあやまちを知ったヒルベウスは、椅子を倒して立ち上がった途端、隣に座るタティウスに腕を掴まれた。


「どこに行く、だと……っ⁉」


 胸の中で荒れ狂う感情を抑えもせずにタティウスを睨みつける。

 自分の胸の中にある感情が怒りであることだけは分かる。だが、それが何に対しての怒りかまでは、わからない。


「決まっている! クォーデン族の元へだ!」

 振り払おうとするが、タティウスの手は離れない。


「放せといっているだろう! 今頃、彼女は蛮族どもに囲まれてどれほど……っ」


 口にしただけで胸が張り裂けそうになる。レティシアがどんな目に遭っているか想像しただけで、気が狂いそうだ。


「レティシアに髪の毛一筋でも傷をつけてみろ。クォーデン族を根絶やしにしてやる……っ」


 レティシアがさらわれたのは己のせいだというのに、どうしてじっとしていられるだろう。


 ヒルベウスが下劣な誤解をしなければ、レティシアが攫われる事態は起こらなかった。自分を責めてレティシアが戻ってくるのなら、今すぐ心臓をえぐり出して神々に捧げたっていい。


「ヒルベウス。ひとまずは座ってエポナ殿の話を聞け。軍を動かすにしろ、情報がなければ、いたずらに兵を疲弊ひへいさせるだけだ。それでは、助けられる者も助けられん」


 寝台に上半身を起こしたネウィウスが静かに口を開く。今、総督の私室にはネウィウスとヒルベウス、タティウス、エポナの四人しかいない。


「しかし……っ」

 抗弁しようとしたヒルベウスに、ネウィウスが威厳に満ちた声で告げる。


「これは父親としてではない。総督として言っている」


「っ! わかりました。……タティウス、放してくれ」

 自分が倒した椅子を引き起こし、腰かける。抑えきれぬ激情を封じようと握りしめた拳が、力の入れ過ぎで白く染まる。


「すまんな、エポナ殿。お騒がせした」

「いえ……っ」

 ネウィウスに穏やかに謝られ、ゲルマン人にしては小柄な少女は、恐縮して身を縮めてかぶりを振る。


 エポナの話を聞く内に、ヒルベウスの胸が憎悪で塗りつぶされていく。


 クォーデン族のやり口は卑劣ひれつとしか言いようがない。年若い娘を誘拐した上に、その罪をローマになすりつけるなど、吐き気を催すほど醜悪しゅうあくだ。そんな策を考える者どもに囚われたレティシアは、今頃、どれほどの恐怖を味わっているだろう。


「至急、マルコマンニ族に使者を出す必要があるな。エポナ殿を攫ったのはローマではないと、誤解を解かねばならん。エポナ殿、お父上への書状を書いていただけるかな?」


「もちろんです!」

 エポナが頷く。次いでネウィウスはヒルベウスに視線を向けた。先ほどの言葉とは裏腹に、眼差しには息子の心情をおもんぱかる色がある。


「お前は軍団基地へ行って出撃の準備を整えるといい。エポナ殿の話からすると、クォーデン族の宿営地はダヌビウス河からさほど離れていないらしい。レティシアの居場所もおそらくそこだろう。……大人しく夜明けを待てと言われても、できるものではあるまい? 一人で町を飛び出すくらいなら、軍を率いてクォーデン族を急襲するがいい」


「かしこまりました! 必ず彼女を助けます!」


「父上……いえ、総督! 俺も一緒に出撃させてください! 決して足手まといにはなりませんから!」


 ヒルベウスに次いで声を上げたのはタティウスだ。強い決意に瞳が輝いている。


「レティシアが攫われた責任の一端は俺にもある! ぜひ俺にも償う機会を与えていただきたい!」


 同じ軍団基地勤めとはいえ、タティウスは新兵の訓練が主で、今回の反乱で出撃した経験は一度もない。だが、ヒルベウスは力強く頷く。


「タティウスも同行させます。レティシアの顔を知っている者は、一人でも多い方がいい」


「そうか」

 頷いたネウィウスはどことなく嬉しそうだ。気持ちはわからなくもない。兄弟がいがみ合わずにネウィウスの前に顔をそろえているのは、フラウディアの葬儀以来、初めてだ。


「私もご一緒させていただけませんか? 戦力にはなれずとも、宿営地を特定するのに、少しはお役に立てるかもしれません」

 おずおずと申し出たのはエポナだ。


「無我夢中で逃げたので、はっきりとした道筋は覚えておりませんが……。近くを通れば、思い出すこともあるかもしれません。馬には乗れますので、その点はお気遣いいただかなくとも大丈夫です」


「それはいけません! 万が一にでも、あなたが再びクォーデン族の手に落ちれば、マルコマンニ族との衝突は必至です! そんな危険は冒せません」


 気難しい顔で反対したのはタティウスだ。もっともな言い分に、しかしエポナはきっぱりとかぶりを振った。


「タティウス様のおっしゃることは重々承知しております。ですが、身をていして庇ってくださったレティシア様の帰りを座して待つだけというのは、どうしてもできません。それに……」


 エポナはゆっくりとネウィウス達三人の顔を見回す。

「名高いローマ軍に守っていただけるなら、危険な目に遭うこともありませんでしょう?」


「はは、エポナ殿の言う通りだ」

 ややあって、ネウィウスが小さく笑みを見せる。


「そこまで信用いただいては、応えないわけにいくまい。二人とも、エポナ殿を守りきれるな?」

 信頼に満ちた声に、兄弟そろって頷く。


「もちろんです。エポナ殿を決して奪われたりしません」

 椅子から立ち上がったヒルベウスはタティウスを振り返る。


「わたしはすぐに軍団基地へ行き、出撃の準備を整える。夜明けには出撃するつもりだ。タティウス、お前はエポナ殿についていてくれないか? さすがに、少し休息が必要だろう。出撃準備が済んだら迎えを寄越すから、それまで官邸を頼む」


「ああ、わかった」

 表情を引き締めてタティウスが頷く。

 ヒルベウスは身を翻して部屋を出た。


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