第12章 炎の髪を持つ青年 5


「その様子だと、面白い情報を握ってそうだな」

 にやりと笑うゲルキンの言葉など、ろくに耳に入っていなかった。


『汚らわしい娼婦め! 二度と姿を見せるな!』


 レティシアを振り返りもせず去っていったヒルベウスの言葉がよみがえる。


「人質の様子が……!」

 マルティクスの声がする。だが、はっきりと聞き取れない。


 吐き気がする。突然、足元が泥沼に変わったように、立っていられない。

 口元を押さえてよろめいた体を、力強い腕に支えられる。


「放し……」

 振り払いたいのに、体に力が入らない。


「急にどうした? 仮病じゃなさそうだが……。グウェンが馬鹿力で殴りつけたせいか?」


「大事な人質です。死ぬほどの力は入れていません」

 グウェンが心外この上ないという口調で答える。


「この様子じゃ、今日はこれ以上、尋問しても無駄だな」

 舌打ちが聞こえると同時に、ふわりと体が宙に浮く。かと思うと、天幕のすみにあった藁布団わらぶとんの上に横たえられた。


「この様子では逃げられんだろうが、ちゃんと見張りをつけておけよ」

「もちろんです」

 冷ややかなグウェンの声。


 うっすらとまぶたを開けたレティシアは、突然、乱暴な手に胸ぐらを掴まれた。無理矢理、上半身を引き起こされる。ぼやけた視界に、グウェンのいかめしい顔が大写しになる。


「ゲルキン様。若い女だからと、あなたは甘すぎます。こいつは医者です。病人のふりなどお手のものでしょう。だまされないでください。この娘は必ず……情報を持っているはずです」


 激昂げっこうのあまり、マルティクスの前でうっかりエポナの名前を出しかけたのだろう。グウェンがたくみに言い換える。


「ずいぶんこの娘にご執心じゃないか。だが、お前にはしなければならないことが山積みだろう? そんなにこの娘が気になるというのなら、一晩中、俺が……」

 寝藁ねわらががさりと鳴る。


「ゲルキン様! するべきことが山積みなのはあなたでしょう! マルティクス殿のお相手や、他の部族との調整など……おふざけはおやめください!」


 レティシアの隣にもぐり込もうとしたゲルキンを、グウェンが力任せに引っ張り出す。


「この娘は信頼できる者に見張らせます! あなたはマルティクス殿をクォーデン族の主だった方々に紹介し、今後のことを話し合ってください! そのようにおふざけが過ぎては、軽んじられますぞ!」


「やれやれ、お前はほんとに堅物だな」


「ゲルキン様のように悪ふざけが過ぎるよりは、よほどましです。……申し訳ございませんマルティクス殿。お見苦しいものを」


「いいえ。クォーデン族のゲルキン殿といえば、ゲルマンに名高い戦士とうかがっております。この豪放磊落ごうほうらいらくさがゲルキン殿の強さの秘訣ひけつなのでしょう」


 人を食ったゲルキンの言動に、生真面目そうなマルティクスが堅苦しく返す。


「はははっ、マルボドゥウス殿はよいご子息を持たれたな。こられよ、マルティクス殿。クォーデン族の長老達を紹介しよう」


 親しげにマルティクスの肩を抱き、顎をしゃくってグウェンを促したゲルキンが天幕を出て行こうとする。と、出入り口の布をめくろうとしたところで、ゲルキンが楽しげに振り返った。


「レティシアと言ったか。今日はこれで捨て置いてやる。後で水と食べ物を持ってこさせるから、間違っても逃げようなんて思うなよ? 休んだら、明日こそは面白い話を聞かせてくれ」


 ゲルキンは一方的に告げると背を向ける。グウェン達も後に続いた。


 出入り口の布が捲れ、さらわれてから初めて外の景色が見えたが、木々が生い茂る森の中の宿営地ということしかわからない。


 出入り口にいた見張りのゲルマン人が、三人をうやうやしく見送る。


 ばさりと布が落ち、視界が閉ざされる。天幕の中に一人残され、レティシアは深く息を吐き出した。


 まだ頭がくらくらしている。極度に緊張していたところにヒルベウスのことを思い出して、貧血になってしまったのだろう。


 唇を噛み締めて目を固く閉じ、襲ってくる嫌な記憶と恐怖を、闇の中に閉じ込める。


 自分がどうなるのか、全く想像がつかない。今だって、気を抜けば歯を鳴らして泣き震えそうだ。


 だが、怯えて無為むいに時を過ごすわけにはいかない。なんとしてもエポナの件をマルティクスに伝えなければ。


 エポナは無事に官邸に着いただろうかと、祈るように思う。


 ゲルキン達の様子を見る限り、捕まってはいないようだ。ならばきっと、無事に官邸に着いているはず。少なくとも、ローマ側には真実が伝わっているだろう。マルコマンニ族の参戦を気にしていたヒルベウスの役に、ほんの少しでも立てていたらいいのだが。


「ヒルベウス様……」


 視界に焼きついているのは、侮蔑の言葉を吐き捨てるヒルベウスの姿だ。それがひどく哀しい。


 涙があふれる。

 声にならぬ囁きで、レティシアはもう一度だけ、愛しい人の名を呼んだ。

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