第17章 もしも願いが叶うなら 1


「傷をお見せください!」


 ようやく口をはさすきを得て、レティシアはヒルベウスの左手を取った。傷ついて血がしたたっている。


 レティシアは短剣で、ストラの裾を切り裂いて即席の包帯を作った。帯から軟膏なんこう入れを取り出し、手当てに取りかかる。出血は多いが、けんなどはそこねていないようで、僅かに安心する。


 戦闘の音はここまで聞こえないが、ローマ軍に合流するまで本当に安心はできない。


 ヒルベウスはされるがままになっている。傷薬を塗り、包帯を巻く内に緊張が緩み、思わず言葉がこぼれ出る。


「素手で刃を掴まれるなんて……無茶をし過ぎです」


 言った途端、息を詰まるほど強く抱きしめられる。


「わたし以上の無茶をした者が、何を言う」

 不機嫌極まりない声に、思わずうつむく。と。


「何だこれはっ⁉」


 激しい怒声に弾かれたように顔を上げた。

 ぐいっ、とヒルベウスがレティシアの肩を持って引きがす。黒い瞳に憤怒ふんぬの炎が燃えている。


 二度と姿を見せるなと言われていたのに、怪我をさせるほどの迷惑をかけたのだから、激怒されて当然だ。


「二度と会わないというお約束でしたのに、申し訳ありません」


 申し訳なさに、身をひるがして逃げようとした。

 が、すぐに腕を掴まれ、強く引かれる。たたらを踏んだところを、再び抱き締められた。


「逃げないでくれ。先ほどの謝罪で許してもらえぬのは当然だ。わたしはそれほど酷い仕打ちをしたのだからな」


「え……?」

 ヒルベウスが何を言いたのかわからない。


 首をかしげたレティシアに、ヒルベウスが溜息をつく。

 レティシアの髪に顔を埋めたヒルベウスが、苦い声を出した。


「……なぜ、わたしが婚約を破棄したか、理由を話してなかったな」

「は、はい……」


 突然の話題の転換に、戸惑いながら頷く。

 ヒルベウスの声は、今まで聞いたことがないほど、苦い。


「不貞を働かれたんだ。友人と我が家の別荘で。……君に会った日のことだ」


 低い声に自嘲じちょうの響きが混じる。我が身など取るに足りないと言いたげに、ヒルベウスは吐き捨てる。


「……わたしなりに大切にしていたつもりだったが、フルウィアはそうは思わなかったらしい。金しか取り柄のないつまらない男だと、浮気相手にあざけっていた」


「そんな……なんて酷いことを」

 ほとんど吐息だけで呟く。同時に、得心した。


 なぜ、出会った日にヒルベウスが怒りもあらわに、服の乱れたレティシアをさげすんだのか。

 隠れてタティウスと会ったレティシアにあれほど激昂げっこうしたのか。


 レティシアはヒルベウスの心の傷を手酷くえぐってしまったのだ。


 本当なら、ヒルベウスはこんな告白など、決してしたくなかっただろう。

 誇り高いヒルベウスは、無様な姿を他人に見せるのを、決してよしとしない。これほど辛い告白をさせてしまった自分が憎い。


 顔を上げたヒルベウスが、レティシアの目を見つめる。


「タティウスと一緒にいたのを誤解した、愚かなわたしを許してほしい。君をあんなに傷つけたんだ。一度や二度、謝った程度で許してもらえるとは思っていない。何度でも――」


「待ってください! 許さないなんて……。謝らなければいけないのは私の方です。私が黙って勝手をしたせいで……」


 慌てて答えながら、助けてもらった礼をまだ言っていないと気づく。


「助けていただいて、本当にありがとうございます。私こそ、ヒルベウス様に謝らなければ。お怪我をさせてしまうなんて……。お怒りも当然です」


「わたしを、許してくれるのか?」


 ヒルベウスが呆然と呟く。

 黒い瞳を見上げ、レティシアはきっぱりと頷いた。


「もちろんです。許さない理由がどこにあるのですか? その……ヒルベウス様の方が、怒ってらっしゃるのでは?」


 先ほどヒルベウスが見せた怒りは、苛烈かれつこの上なかった。

 怒る理由に心当たりがあり過ぎて、一体どれが原因かわからない。


 ヒルベウスはなぜか気まずそうに視線をらせた。


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