第16章 最期にあなたを一目だけでも 3


 レティシアが大きく叫んで身をよじった時、縛っていた布がようやく解ける。


 レティシアは無我夢中で帯から短剣を抜き放つと、後ろ手にグウェンが乗る馬に突き立てた。

 馬が前足を跳ね上げる。グウェンが体勢を崩した。


 レティシアの喉にグウェンの刃が迫る。


「レティシア!」


 咄嗟とっさに立ち上がったヒルベウスが素手の左で刃を掴む。

 同時に、右手のグラディウスがグウェンの無防備な脇腹を貫いていた。


 レティシアを背にかばったヒルベウスが、そのまま身をひねりゲルキンに刃を振り下ろす。

 だが、ゲルキンは身軽に後ろに跳び、刃をかわした。


 刺された馬が狂ったように森の中へ走り去り、投げ出されたグウェンの体が地面に落ちて、血だまりを作る。


 すべてが、またたきほどの間の出来事だった。


 荒い息を吐くヒルベウスがゲルキンをにらみつける。


「忠実な部下は一足先に冥府へ旅立ったぞ。望むなら、後を追わせてやる」


 ヒルベウスの左のてのひらからは血がしたたり、鎧もあちこちに傷がついている。しかし、闘志はおとろえていないようだ。


 対するゲルキンは無傷だ。ゲルキンはグウェンの死体を興味を引かれた様子もなく一瞥いちべつすると、「そうだなあ」と暢気のんきに呟く。


「俺が冥府まで追いかけたら、グウェンは怒り狂うだろうさ。俺に斬りかかればよかったものを、よほどその娘を守りたかったらしいな? せっかく拾った命だ。有意義に使わせてもらおう。まだ反乱を収める気はないからな」


 不敵な笑みを浮かべると、ゲルキンは止める間もなくひらりと馬に乗り、走り出す。


 方向はローマ軍とクォーデン族が戦う前線だ。追おうにも馬を失ったヒルベウスに手立てはない。


「マルコマンニ族の族長のご子息、マルティクス殿とお見受けします。先ほどは、ご助力ありがとうございました」


 ヒルベウスがゲルキンの背を見送っていたマルティクスに頭を下げる。振り向いたマルティクスは苦い表情でかぶりを振った。


「いや。正面からゲルキンに対抗できず、申し訳ない。礼など言わないでほしい」


「マルコマンニ族の立場は承知しています。にもかかわらず、マルティクス殿がゲルキンを防いでくれたおかげで、命拾いしました。感謝してもしきれません」


 ヒルベウスがマルティクスを見上げて告げる。


「エポナ殿は御無事です。近くに来ています。もちろん軍の後方の安全な場所で、丁重にお守りしています」


「何⁉ エポナが⁉」

 マルティクスの顔に喜色が浮かぶ。


「兄上の姿を見られれば、エポナ殿も安心なさるでしょう。これを」

 ヒルベウスは指にはめていた指輪を抜くと、マルティクスへ放り投げる。


「身分証代わりです。わたし、ガイウス・ロクスティウス・ヒルベウスの名を出せば、エポナ殿の元まで案内がつくでしょう。わたし達ならご心配なく。まもなく、ローマ軍が追いついてくるでしょうから」


「感謝する、ヒルベウス殿」

 指輪を受け取ったマルティクスがためらいを見せるが、今は妹の無事の確認を優先することにしたらしい。


「後ほど、またお会いしましょう」

 と告げて走り去る。


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