第17章 もしも願いが叶うなら 2


「わたしが怒っていたのは君にではない。これにだ」


 指し示されたのは、左の首元。

 言われて初めて、そこにゲルキンにつけられた歯形があるのを思い出す。


「これは、ゲルキンに俺の物の印だとまれて……」


「俺の物だと⁉ まさか、本当に――」

 一瞬で激昂げっこうしたヒルベウスを必死になだめる。


「違います! 噛まれただけで何もされていません!」


「くそっ、地の果てまでも追いかけて行って、とどめを刺してやる……っ」


 恐ろしい形相ぎょうそうで不穏この上ない言葉を呟いたヒルベウスが、レティシアの目を真っ直ぐ見つめる。


「本当か?」

「本当です!」


 頷いた途端、歯形のあとに口づけされる。


「ヒ、ヒルベウス様⁉」


忌々いまいましい。君の肌にふれていいのは、わたしだけだ」

 まるで、そうすれば歯形が消えるとでも言いたげに、ヒルベウスは何度も何度も口づける。


「あ、あの、歯形なんて数日で消え――」


 突然、顔を上げたヒルベウスに唇をふさがれる。


「他の男につけられた傷など、一刻たりとも我慢できるか」


「あ、あの?」

 ヒルベウスの行動の意味がわからない。ぽかんと見上げると、ヒルベウスが狼狽うろたえた声を出した。


「すまん、許しも得ずに口づけを……」


「え……?」

 口づけの意味を考える前に、混乱と緊張が緩んだせいで、涙が勝手にこぼれだす。


「すまん! 泣くほど嫌だったか? お願いだ、泣かないでくれ。君に泣かれると、胸がつぶれそうになる」

 ヒルベウスの指先が、壊れ物を扱うように、優しく涙をぬぐう。


「違うんです。これは、緊張が緩んで……」

 優しい手に混乱が更に深まる。


「だって、私、二度とヒルベウス様に会えないはず……」


「レティシア」


「は、はいっ」

 思いがけず強い声で名前を呼ばれ、背筋が伸びる。


 ヒルベウスの黒い瞳が真っ直ぐレティシアを見つめている。涙をぬぐっていた手が、そっと頬に添えられる。


「もし……。もし、まだ取り返しがつくのなら、もう一度、求婚させてもらえないか?」


 これほど頼りなげに不安に揺れるヒルベウスの声を、初めて聞いた。


 口を開こうとして、頬に触れる手が震えているのに気づく。

 レティシアはヒルベウスの手に自らの手を添え、見つめ返した。


 おびえはある。心の奥では、母の呪いの言葉がまだ渦巻いている。未来の自分が、狂い死にした母と同じ道を歩まないとは限らない。


 だが、今、心にき上がる感情を信じたい。


さらわれた時……もし一つだけ願いが叶うなら、もう一度だけでいいから、ヒルベウス様にお逢いしたいと……。それだけを、願っていました」


「っ!」

 声にならぬ声で名前を呼ばれ、強く抱きしめられる。


 下りてきた唇を、面輪おもわを上げて受け入れる。


「愛している。レティシア」


 額に、閉じたまぶたに、唇に。口づけが雨のように降ってくる。


 初めて真正面から告げられた愛の言葉に、嬉しさのあまり気を失いそうになりながら、レティシアは熱い口づけを受け止めた。


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