第2章 きみを引きとめるためならば 2
「すごい、これが『
栗色の瞳を輝かせて呟くレティシアを、ヒルベウスは微笑ましい気持ちで振り返った。
優しげな美貌が、口を開くと途端に生気に満ちた人好きする表情になる。好奇心に煌めく栗色の瞳は、どんな宝石もかなわない
「道の両側にこんなに高い建物がたくさん……。この建物は何ですか?」
不思議そうなレティシアに苦笑して答える。
「
「えっ、こんな高くて立派な建物がインスラですか? ギリシアでは、大きな町でもせいぜい三階建てで……。やっぱり首都はすごいんですね」
レティシアは細い首が折れそうになるほど頭上を見上げて感心している。
首都のインスラは七階建てが基本だ。限られた面積で人口増に対応する為に、自然と上へ上へと伸びていった。
「聞いた話では、景色は壮観だが上階の暮らしは大変らしい。部屋に上がるだけでも大変だし、冬は寒風が入り込んで凍えそうに寒いそうだ」
ドムスと呼ばれる広い屋敷に暮らすヒルベウスは、もちろんインスラ暮らしの経験などない。聞きかじっただけの話だが、レティシアは感心して頷く。
「見た目ほど、優雅な生活ではないんですね」
首が疲れたのか、見上げるのをやめたレティシアは、次は興味深そうに街路を見回す。
いつものことだが、街路は人でごった返していた。
水瓶や
街路の両側には近隣で採れた野菜を売る屋台や、揚げ菓子や陶器を売る露店などが並び、商店も露台を道にまで出しているので、混雑に拍車をかけている。
「あの、今日は何かの祭日ですか?」
問われたヒルベウスは、一瞬、意味がわからなかった。遅れて気づき、思わず吹き出す。
「違う。今日は祭りでも、競技大会が開かれているわけでもない。首都では、これが普段の姿だ」
「えっ⁉」
信じられないと言いたげに、もう一度周囲を見回したレティシアが、恥ずかしげに頬を染めて
「すみません。何も知らなくて……」
「知らないことを正直に言うのは、恥でも何でもない。知っていると嘘をつく方が愚かな行いだ」
頬を染めて俯くレティシアは朝露に濡れた可憐な花のようだ。
守ってやらねばとごく自然に考え、自分の心に
縁者なのだから守る義務があるのだと、自分自身に言い聞かせる。生き馬の目を抜くローマで暮らすというのに、こうも世間知らずでは、早晩、困った事態に陥るのは火を見るよりも明らかだ。
質素な身なりでもレティシアの美貌は人目を引くのか、道行く男達がちらちらと視線を向けては通り過ぎていく。中には劣情を隠そうともしない輩もいた。
先ほどは、
似ているというなら、フルウィアではなく……。
ヒルベウスは心の中で苦い思いを噛み締める。
怒りに任せて、心無い言葉で手ひどく傷つけてしまった。レティシアの激昂ぶりを見れば、その傷がどれほど深いかは一目瞭然だ。彼女に非は全くないというのに。
自分がひどくみっともなく思える。
今こうして親切にしているのは、罪悪感からだ。
「レティシア……」
謝ろうと口を開きかけたヒルベウスは、一人の若い男が人込みを縫って寄ってくるのに気がついた。
「お嬢さん。その格好は旅人だろう? 今夜の宿は決まってるのかい? よかったら――」
親切ごかしに肩に回そうとした手を、ぴしゃりと払い落す。
「触るな。わたしの連れだ」
戸惑っているレティシアの肩に手をかけ、引き寄せる。小柄で
「気をつけた方がいい。世慣れない若い女と見ると、親切面で寄ってくる輩がいるが、大抵は盗っ人か
襲われた時のことを思い出したのか、レティシアの顔が強張る。ヒルベウスは安心させようとできるだけ優しい声を出した。
「大丈夫だ。わたしがそばにいる限り、悪い奴を近づけさせない」
俯きがちのレティシアの表情はよく見えない。少しためらってから、ヒルベウスは荷物を抱えていない方の左手をとった。
オスティア門で荷物を持とうと申し出たが、大切な物が入っているから自分で持ちたいと断られたのだ。
人ごみに慣れていないのなら、手を引いてやった方が歩きやすいだろう。それに、男の連れがいるとわかれば、変な輩も寄ってくるまい。
「あ、あの……」
戸惑いがちに声をかけてくるのは、無視する。ヒルベウスとて、女性の手を引いて歩くなど、数年ぶりなのだ。
手の中にすっぽり収まる
「エクィリヌス丘は中央広場の先だ。中央広場はもっとすごい人出だ。スリなどに気をつけろよ」
「は、はい」
忠告すると、レティシアが几帳面に返事をして、荷物をしっかり抱え直す姿が目に入った。
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