第2章 きみを引きとめるためならば 1


「あの、ヒルベウス様、どちらへ……?」

 貸し馬屋へ馬を返した後、すぐに門をくぐると思っていたレティシアは、別の方向へ進んでいくヒルベウスの後を追いながら、戸惑った声を上げた。


「まずは、その格好をどうにかしたいだろう?」

 ヒルベウスが立ち止まったのは、いくつもの臥輿レクティカが軒先に並べられた貸し臥輿屋の前だった。店の前には、臥輿の他に、担ぎ役の人足がたむろしている。


 臥輿とは人が寝そべって乗れるほどの屋根付きの大きな輿こしで、四方に幕が張られている。


「しっかり幕を閉めるんだぞ。不埒者ふらちものが現れないように見張っておくから、安心して着替えるといい」

「え……」

 訳がわからぬレティシアを、天幕に荷物ごと押し込めながらヒルベウスが言う。


 ぴっちりと幕が閉められてから、ようやくヒルベウスの真意に気づく。ヒルベウスは着替え場所を提供する為に、臥輿を借りることにしたらしい。


 ローマの町中は、馬や馬車の通行は禁止されている。荷車でさえ、公共資材を運ぶ以外は、夜中でなければ出入りを許されない。


 となれば、歩く以外に移動手段はないのだが、貴人や金持ちの中には、庶民や奴隷に混じって人混みを歩くのを嫌がる者も多い。

 彼らが好んで使うのが臥輿レクティカだ。臥輿なら、奴隷に担がせて自分は寝そべっていれば、目的地に着ける。景色を楽しみたければ、幕を開ければいいし、静けさを好むなら、幕を閉じてしまえば中の様子は外からはうかがえない。


 レティシアが押し込まれた臥輿は、二人は優に乗れる立派なものだ。もちろん、入ったのは初めてだ。そもそも、故郷の村では、臥輿を持てるほどの金持ちなどいなかった。


 臥輿の天井はそれほど高くないが、着替えに不自由はない。ヒルベウスを待たせてはと、慌てて荷物からストラを引っ張り出した。


 この後、母の生家に行くことを考え、一番良いストラを選ぶ。生地は生成りだが、裾に青の糸で手ずから花模様の刺繍ししゅうをほどこした一張羅だ。

 裂かれた服は、畳んで荷物にしまう。つくろうかどうかは、宿に落ち着いてから考えることにした。


「すみません。お待たせしました」

 腕や髪についていた土を払い、手早く着替えたレティシアは、幕を開けて臥輿から出た。


「早かったな」

 幕の前で、門番よろしく人足達を睥睨へいげいしていたヒルベウスが驚いた顔で振り向く。宣言通り見張ってくれたらしい。

 姿勢よく背筋を伸ばした立ち姿は、見惚れるほど立派だ。


「出てくる必要はない。中から声をかければよかったものを」

「?」

 ヒルベウスの言葉の意味がわからず、小首を傾げた。


「これからローマ市内をほとんど縦断するからな」

 貸し臥輿屋の店主に銀貨を払いながら、ヒルベウスが言う。


「ああ、ヒルベウス様が乗られるんですね。どうぞ。私は後ろをついていかせていただきます」

 幕の前から一歩退くと、ヒルベウスは訳がわからないと言いたげに眉を寄せた。


「わたしは臥輿は好まない。乗るのは君だ」

「えっ、臥輿なんて結構です! ちゃんと自分の足で歩きます!」

 思いがけない言葉に、とんでもないとかぶりを振る。


「健康な足があるのに臥輿に乗るなんて贅沢ぜいたく、できません!」

 憤然と言い切ると、


「……君がそう言うのなら、まあいい」

 とヒルベウスは不承不承、頷いた。


「では、こちらだ」

 背を向け、歩き出すヒルベウスをレティシアは荷物を抱えて追いかけた。

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