第1章 屈辱の出会い 4
「さっきの男は知り合いか?」
青年の問いにレティシアは我に返った。吐息と共に頷く。
「はい。故郷の村長の息子で、デミクレスという名です。彼も首都に用があって、一緒に旅をしてきたんです」
「狼が子羊を連れていたわけか。よく今まで無事だったものだ。同行者なら、もっとふさわしい相手がいるだろう? 父親や男兄弟とか」
責める響きを感じ取って、思わず青年を見上げる。
「いたら、あんな奴と旅なんてしません! 兄弟はいませんし……両親は二人とも、一月前に冥府へ旅立ちました」
語気強く言ったつもりが、最後は
医術の師でもあった敬愛する父は、一か月前の雨の日、往診の帰りに乗合馬車ごと谷底に転落して死亡した。父を心から愛していた母も後を追うように……。
固く目を閉じて、レティシアは恐ろしい光景を闇の奥へ封じ込めようとした。
青年の声が気遣わしげな響きを帯びる。
「ローマに出て、何か当てはあるのか?」
「母の生家があります」
レティシアの母は、父と結婚する為に駆け落ち同然に家を飛び出したため、一度も会ったことのない、他人同然の親類だが。
深い事情まで話す気はない。もし親類を頼ることができなくても、レティシアには父から教えられた医術がある。自分一人を養うくらい何とかなるだろう。
故郷の村でも食べていけたが、どうしても留まる気にはなれなかった。
レティシアは周囲を見回した。首都とオスティア港の間は、市内を流れるティベリス川と、街道の双方で結ばれている。街道を行く荷車の数は驚くほど多い。
荷車だけではない。徒歩の旅人や馬や
遠くに目を向ければ、街道に沿って流れるティベリス川にも多くの船が行き交っている。
混み合う街道を青年は巧みな手綱さばきで縫うように進んでいく。風を切って進むのは、爽快この上ない。
もしあのまま襲われていたら、どんな思いで街道の景色を見ていただろうかと思うと、改めて無口な青年に感謝の気持ちが湧く。と、レティシアは自分が名乗っていないことにようやく気づいた。
青年を見上げると、
厄介者の立場を考えると
「あの、先ほどは助けていただいて本当にありがとうございました。私はレティシア・テオフラテスと申します。その……お名前を
何やら考えに沈んでいたのか、青年は我に返ったようにレティシアを見下ろした。
人を逸らさぬ黒い瞳に、思わず心臓が跳ねる。
「ヒルベウス……。ガイウス・ロクスティウス・ヒルベウスだ」
「ヒルベウス様……」
低い声で告げられた名を、口の中で転がす。オスティア門で別れれば、もう二度と会う機会はないだろうと思いながら。
おそらく彼は支配階級である元老院議員階級だ。一介の市民とは住む世界が違う。
ローマの身分制は
奴隷であっても、主人に解放されて解放奴隷となることもできる。また、資産によっては上の階級になれるなど、階級間の流動性は高い。
だが、平民でしかないレティシアが、後日礼を言いに行っても、門前払いを食らうのが落ちだ。
軽やかに進む馬は荷車をどんどん追い越していく。ほどなく、眼前に市内に続くオスティア門が見えてくる。
ローマは七つの丘から成る都市だ。離れた場所からでも、何十万人もが暮らす首都の偉容は一目で知れた。
丘の上には数多くの神殿や屋敷が立ち並び、神殿の大理石の屋根が五月の陽光を反射して
初めて見るローマの偉容に見惚れていると、ヒルベウスの問いが降ってきた。
「一つ聞くが、なぜ我が家の敷地にいたんだ?」
「それは……」
レティシアはタレスを助けた経緯や、水を汲ませてもらおうとしたことを手短に説明した。
「タレスが言っていた親切な旅人は君か!」
驚いて声を上げたヒルベウスが、考え深げな声を出す。
もしかして、別れた後、またタレスの調子が悪くなったのだろうか。不安に思っていると、再び問われた。
「テオフラテス嬢。これまで首都に来たことは?」
「レティシアで構いません。首都は初めてです。そもそも、故郷から出たこと自体、初めてで……」
田舎の村しか知らない自分が
「立ち入ったことを聞くが、母君の生家はどこにあるんだ?」
「母の話では、エクィリヌス丘に住まいがあるケルウス家だと……。祖父の名はグエナウス・ケルウス・ホルティウスというそうです。母が家を出てから二十年近いので、まだご存命かはわかりませんが……」
「ケルウス家だと⁉ 君の母君は元老院議員階級だったのか⁉」
今度こそヒルベウスは度肝を抜かれたようだった。まじまじと見つめられ、レティシアは居心地悪く
「し、知りません! 両親とも、母の身の上については、
レティシアは不安を隠せずヒルベウスを見上げた。
「失礼ですが、
死んだ母は、確かに美しく気品があった。田舎の村の生活に、何年経っても馴染んでいなかったのも確かだ。
しかし、まさか元老院議員階級出身とは。
「何か、母君の身の証となる物は持っているのか?」
帯の間から、革紐に通したお守りと指輪を取り出してヒルベウスに見せる。
「どちらも母の物です。このお守りは、母が子どもの頃のものだとか」
ローマ市民の子どもは、首からお守りを下げる風習がある。お守りは成人の儀式を迎えた時に、家の中にある
「気に入っていたので、家を出る時に持って出たのだと言っていました」
「見ても構わないか?」
「もちろんです」
馬の速度を緩めたヒルベウスに、お守りと指輪を差し出す。ヒルベウスが交互に手に取って観察した。
お守りは丸いメダル型で、表には
「お守りは銀製だな。細工の見事さといい、とても平民の子が持つ代物ではない。それに印章指輪に刻まれた
返されたお守りと指輪を、再び帯にしまい込む。襲われた時に落としていなくて、本当によかった。
「これらの品は、母君の身分を示す立派な証拠になる。グエナウス・ケルウス・ホルティウスは、わたしの母方の祖父だ」
ヒルベウスが静かな声で告げる。
「え?」
戸惑うレティシアを無視して、ヒルベウスが問いかける。
「母君からユリーシアという姉について聞いたことは?」
「何度か聞いた記憶があります。家族の中でただ一人、父との結婚を応援してくれたのだとか」
「ユリーシアは母だ。どうやら、わたし達はいとこ同士らしい」
レティシアはヒルベウスの言葉にぽかんと口を開けた。予想だにしない事態に、頭がついていかない。
混乱している内に、オスティア門に着く。市内への馬の乗り入れは禁止されているため、貸し馬屋や荷車置き場で門はごった返している。
「タレスが世話になったのなら、主人として礼をしなくてはと思っていたが……」
貸し馬屋の一つに馬を進めながら話すヒルベウスの言葉を、呆然と聞く。
「君がいとこなら話は別だ。困っている縁者を放っておくなど、信義に反する。ケルウス家まで案内しよう」
ヒルベウスが機敏に馬から下りる。続こうとしたレティシアは、それより早く腰に手を回され、ふわりと抱き下ろされた。下りざま、低い声が
「ようこそローマへ、いとこ殿」
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