第1章 屈辱の出会い 3


 レティシアは激情のままに、馬に乗った青年を睨みつけた。


 年は二十代半ばだろうか。端正な顔立ちに、房飾りのついた上等なトゥニカを着ている。


「売女」と侮蔑も露わに罵られた言葉を思い出すと、体の芯が怒りでける。

 青年にしてみれば、別荘の敷地に入り込んで事に及ぼうとしていた二人は、この上ない不調法者だろう。しかし、だからといって初対面の青年に事情も知らぬまま侮蔑されるいわれはない。


 鞍上あんじょうで冷ややかにレティシアを見つめる青年は、軍神マルスの化身のようだ。怒りに我を忘れていなければ、とうの昔に気圧けおされて、視線を逸らせてうつむいていただろう。


 どれほどの間、黙って睨み合っていたのか。もしかしたら、ほんの短い間だったかもしれない。


 足元で上がった呻き声に、我に返る。地面に転がる荷物を拾い上げ、飛びすさってデミクレスから離れる。


 デミクレスがまだ目を覚まさないのを見て、ほっと安堵の息を吐き、荷物からパパッラストールを取り出し、手早く体に巻きつける。服の胸元はデミクレスが力任せに掴んだせいで破れていた。着替えられるまで、応急処置で耐えるしかない。


 パッラを巻きつけながら、デミクレスの様子をうかがう。気を失っているだけで、命に別状はなさそうだ。普段なら、気絶している者を放っておいたりしないが、デミクレスの面倒を見る気には、さすがになれない。

 のしかかられた時の恐怖を思い出すと、今にも叫び出したくなる。しっかり噛み締めていないと、奥歯が鳴りだしそうだ。


 とにかく、デミクレスが目を覚ます前に少しでも距離を稼がなくては。いくら彼が執念深くても、首都ローマに入ってしまえば、見つけられないに違いない。


「敷地内でお騒がせして申し訳ありませんでした」

 レティシアは青年に一礼し、足早に立ち去ろうとした。馬の脇を通り過ぎようとし――、


「きゃ⁉」


 突然、馬上から伸びてきた力強い腕に抱き上げられて、悲鳴が飛び出す。次の瞬間には、荷物ごと青年の前に横座りになっていた。


「なっ⁉ 下ろしてください!」

 抗議の声を無視して、青年は手綱を操り、馬を進ませる。


「下ろしてと言っているでしょう! この……人攫ひとさらい!」

 襲われた時の恐怖が甦り、落馬しても構わないとばかりに暴れる。


「大人しくしろ」

 力強い左腕が体に回され、たくましい胸板に抱き寄せられる。呆れを含んだ声が降ってきた。


「早くあの男から離れたいのだろう? 徒歩で追いつかれたいのなら下ろすが」


 どうやら青年なりの気遣いらしい。先ほど侮蔑の言葉を投げつけた時との落差に驚いて、咄嗟とっさに返事ができないでいると、新たな問いが降ってきた。


「勘違いして失礼な言葉を投げつけた詫びだ。追いつけない距離まで連れて行ってやる。その大荷物からすると、旅の途中だろう。行き先はローマとオスティアのどちらだ?」


「ロ、ローマです」

 素直に答えると、青年が笑んだ気配を感じた。


「そうか、好都合だ。わたしもちょうど戻るところだからな。市内に入るオスティア門まで乗せていこう」

 返事も待たずに青年は馬を進める。


「あ、あの……」

 ついさっき襲われたばかりで見知らぬ男の馬に乗るなど、不用心この上ない。


 だが、青年の申し出を断るのなら、裂けた服を隠し、デミクレスが追いかけてくる恐怖に耐えながら、徒歩で街道を行くしかない。そんな思いを味わうくらいなら、青年を選んだ方が、まだましに思える。


 レティシアは巧みに馬を操る青年をちらりと見上げた。軍神マルスを連想させる精悍な顔立ち。少し癖のある短い髪はよく手入れされていて、瞳と同じ黒だ。


 この青年が女性の弱みにつけこんで襲うような卑劣な人物には、どうしても見えない。裕福で見目の良いこの青年なら、黙っていても女性から寄ってくるに違いない。

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