第1章 屈辱の出会い 2


「ヒルベウス様。これから遠乗りですか?」


 別荘で飼っている馬の手綱を引いて馬小屋へ入ろうとしていたヒルベウスは、声をかけられて振り返った。

 荷車に乗ったタレスが顔をほころばせている。タレスは別荘付きの奴隷の一人の中年の男だ。


 ヒルベウスは陽気にわずかに汗ばんだ黒い髪をかき上げながら、苦笑してかぶりを振った。


「いや、逆だ。馬の調子が今一つでな。用は済んだから、無理をさせたくなくて戻ってきた」


 馬の首を軽く叩くと、馬が甘えるように鼻面を寄せてくる。

 馬は好きだ。馬の黒い目を覗き込むと、微かに笑う自分の顔が映っている。


「そうですか。でしたら、わたしが診てみましょう。今日は五月にしてはずいぶん暖かい。汲み置きの水が傷んでいたのかもしれません。わたしも港で腹痛に襲われまして……」


「大丈夫なのか?」

 心配して問うと、タレスは笑顔でかぶりを振った。


「それが、幸運にも親切な旅人に出会いまして」


 タレスはオスティア港で腹痛で苦しんでいた時に、親切な若い娘に薬をもらったこと、薬の礼にそばまで荷車に乗せてきたこと、別荘の泉の水を汲む許可を与えたことなどを、手短に説明した。


「そばまで来たのなら、屋敷まで連れてくればよかっただろう? そうすれば、ちゃんとした礼をしたものを」


「申し訳ございません。フルウィア様達がいらっしゃいますので、ヒルベウス様のお手を煩わせてはと思い……」


 身を縮ませて謝るタレスに、ヒルベウスは苦笑した。


「勘違いするな。責めているわけではない。お前が何ともなくて何よりだ」


「ありがとうございます」

 深々と頭を下げたタレスは、次いで慌てて懐から小さな包みを取り出した。


「申し遅れました。ご注文のお品が港に届いておりました」

「そうか。お前をつかわした甲斐があったな」


 受け取って、絹の包みを開く。中に入っていたのは三粒の大粒の真珠だった。インド産の真珠は品質が良く、ローマの貴婦人達に珍重される。エジプト経由で運ばれ、オスティア港に荷揚げされたものだ。


「これほど見事な品であれば、フルウィア様もお喜びになるでしょう。ヒルベウス様、馬でしたら後はわたしが」


「頼む」

 手綱をタレスに渡し、ヒルベウスは別荘に足を向けた。


 この別荘はヒルベウスの父親のものだが、今はヒルベウスと婚約者のフルウィア、友人のマルキウスが滞在している。


 身を飾ることに余念がない美貌のフルウィアは、きっと真珠の贈り物を喜ぶだろう。首飾りにするか、指輪や耳飾りにするかは、ローマに戻ってから決めればよい。

 軍団暮らしが性に合い、典雅なものや女性の喜ぶ物にはとんと縁がなかったが、全くの武骨者というのも妻となる女性に失礼だ。


 フルウィアの喜ぶ顔を想像しながら歩いていたヒルベウスは、屋敷のフルウィアの部屋の前で足を止めた。


 部屋の中から、フルウィアとマルキウスの声が聞こえる。


「いいのかい? ヒルベウスがいない隙にこんなことをしてさ」


「あら、今さら怖気おじけづいたの?」


「まさか。こんな美人に誘われて、断る男がいるもんか。でもいいのかい? てっきり君はヒルベウスに惚れていると思ってたけど」


「やめてよ! あんな堅物でつまらない男! 金払いがいい点しか取り柄がないんだから! 弟のタティウスの方がまだ魅力的よ」


 動かねばと理性が叫んでいるのに、メデューサににらまれて石像になったように体が動かない。マルキウスのからかうような声が、嫌でも耳に流れ込んでくる。


「目の前で他の男を褒められるのはしゃくだな。僕とタティウスなら、どちらが君の目にかなうんだい?」


「もちろんあなたに決まってるじゃないの。だからこうして、ほら……ね」


 部屋の中から、ヒルベウスが聞いた覚えのないフルウィアの甘く濡れた声が洩れてくる。


 無意識に腰にいたグラディウスの柄を握り締める。

 今ここできびすを返して何も知らなかったことにすれば、今まで通りの関係が続くだろう。美しい婚約者と、気の置けない友人。


 だが、偽の関係など真っ平御免だ。


 深く息を吸い込み、奥歯を噛み締める。扉をノックし、一拍置いてから開ける。


「きゃっ!」

 フルウィアが悲鳴を上げて、あらわになった肌を慌てて隠す。


「ヒ、ヒルベウス……。遠乗りに行ったはずじゃ……。ち、違うんだこれは……」


「弁解は不要だ」


 狼狽うろたえるマルキウスに放った声は、自分でも驚くほど冷ややかだった。


「馬の調子が悪くて戻ってきたが、お邪魔だったようだな。すぐに立ち去るから、君達も用が済んだら出て行ってくれ」


 返事も聞かずに踵を返す。フルウィア達の声が追いかけてくるが、聞いてなどいなかった。今はただ、一刻も早く不快な場所から立ち去りたい。


 足取りも荒く馬小屋へ向かう。


「ヒルベウス様? どうなさったので?」


 くしで馬の毛並みを整えていたタレスがいぶかしげに首をかしげる。


「用ができた。ローマへ戻る」


 タレスを見もせず告げて、馬を引き出す。戸惑うタレスを無視して鞍にまたがると、無言のまま、馬を進める。


 走らせてすぐ、女の悲鳴が耳に飛び込んできた。


 一瞬、フルウィアかと思ったが、違う。

 街道へと続く小道の脇の茂みが、不自然に揺れている。


「嫌っ! やめてっ!」


 悲痛な声に引き寄せられるように視線が動き――、襲われている娘の姿を目にした瞬間、体中の血液が沸騰した。


 馬のまま駆け寄ると、グラディウスを鞘ごとベルトから引き抜き、娘に覆いかぶさっている男の首の後ろに振り下ろす。男はうめき声一つ上げず昏倒した。


 突然の助けに、何が起こったかわからぬと言いたげな表情で、男の体の下から、乱れた服の胸元を押さえて、二十歳くらいの娘がい出してくる。


 娘の鼻筋の通った美貌は、フルウィアを連想させた。清冽な印象の分、娘に軍配を上げる者もいるかもしれない。


 フルウィアに似ていると思った瞬間、勝手に口が動いていた。


「図太い売女だ。ここは私有地だ。商売はよそでやってもらおう」


 告げた瞬間、後悔が刃のように心を貫く。八つ当たり以外の何物でもない。断罪すべき相手は、別にいるのだから。


 娘の表情が凍りつくのを見て、後悔がさらに深まる。

 ヒルベウスがとりなしの言葉を口にするより早く。


「助けていただいたことは感謝します。ですが、私は娼婦ではありません!」

 激しい口調で娘が言い返す。


 毅然きぜんおもてを上げ、真っ直ぐヒルベウスを睨み返す眼差まなざしの強さに、思わず見惚みほれた。


 恐怖と怒りで血の気が引いた美貌の中で、濃い栗色の瞳が、炎を宿しているかのようだ。


「土に汚れたその格好で、まだ処女神ディアナに仕えられるとでもいうのか?」


「必要とあれば」

 ヒルベウスを見つめる娘の眼差しは揺るがない。いっそ清々しいほどだ。


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