第2章 きみを引きとめるためならば 3


 酔いそうなほどの人込みを抜けてエクィリヌス丘に登ると、レティシアはようやく人心地ついた気持ちになった。


 ヒルベウスの説明によると、エクィリヌス丘は元老院議員の屋敷が多く、あまり市民が来ないため、昼間でも人が少ないのだという。


 人込みがましになっても、繋いだままの手は離れない。

 左手が熱を持ったかのようだ。


 一歩前を行くヒルベウスの横顔を盗み見る。寡黙な表情からは、何を考えているのか全く読み取れない。


 ただ、気を遣ってくれていることは、繋いだ手の優しさと、元老院議事堂クリア・ユリアやウェスタ神殿など、有名な建物の前を通るたび、わざわざどんな建物か説明してくれる態度から知れた。


「長い距離を歩かせてすまなかったな。ようやく着いた」


 ヒルベウスが足を止めたのは、建ち並ぶ屋敷の中でも、ひときわ立派な屋敷の一つだった。重厚そうな扉には飾りびょうが打たれ、磨かれてぴかぴか光っている。


「ここがケルウス家ですか?」


 だとしたら、母はなんという立派な家の出だったのだろう。故郷の村での生活との落差に気圧されていると、ヒルベウスはあっさりかぶりを振った。


「いや、違う」

 訳がわからず小首を傾げると、ヒルベウスがなだめるように説明する。


「早くケルウス家に行きたい気持ちはわかるが、物事には順序というものがある。まずは落ち着いて旅の汚れを落としたらどうだ?」


 言われて、自分が人の家を訪ねられる格好をしていないのを思い出す。一応着替えたが、ちゃんと土の汚れを落とせていないし、乱れた髪も簡単に結ったきりだ。


 歩いている途中、ちらちらと視線を送る者や、にやにや笑う男達がいたが、自分のみすぼらしい格好のせいだったのだと、ようやく得心がいった。


 同時に、こんなみすぼらしい自分を連れていて、ヒルベウスまで嘲笑の的になったのではないかと思うと、申し訳なさに消え入りたい気持ちになる。


「すみません……」

 申し訳なさと恥ずかしさに唇を噛んでうつむくと、ヒルベウスのいたわる声が降ってきた。


「謝る必要はない。その姿は、君のせいではないだろう?」


「ですが……。ヒルベウス様にいらぬ恥をかかせたのでは?」


 おずおずとヒルベウスを見上げた目に飛び込んできたのは、氷のような冷笑だった。


「はっ! 恥か。わたしにそんな気遣いは不要だ」

 歪んだ笑みにかける言葉を失って、再び唇を噛む。


「あ、あの。では、こちらのお屋敷は……?」

 ひるみそうになる心を押し隠して尋ねると、簡潔な返事が返ってきた。


「わたしが暮らしている屋敷だ」


 答える声も表情も、いつもの淡々としたものでひとまず安心する。

 だが、レティシアを自分の屋敷へ連れてきた意図がわからない。黙っているとヒルベウスの声が続いた。


「お世辞にも居心地のよい家とはいえないが、旅の垢を落とすくらいはできる」


「そんなっ、駄目です」

 慌ててヒルベウスの手から左手を引き抜き、ぶんぶんと首を横に振る。


「これまでさんざんご迷惑をかけているのに、これ以上、かけられません!」


 エクィリヌス丘の場所はわかったし、人に尋ねればケルウス家の場所もわかるだろう。宿は自分で探せばいい。


 身をひるがして立ち去ろうとして、腕を掴まれる。


「宿の当てもないのに、どこにいくつもりだ?」

 呆れ声に、必死で抗弁する。


「宿は自分で探します! これ以上、ご迷惑をかけるわけにはいきません」


 掴まれた腕が熱い。ヒルベウスはいつもレティシアの調子を狂わせる。


 これ以上そばにいては、自分が自分でなくなってしまいそうな恐ろしい予感に囚われて、腕を振り払おうとした。が、それより早く。


「強情だな。だが、わたしには縁者である君を守る責務がある」


 言葉と同時に、力強い腕にひょいと横抱きにされる。


「お、下ろしてください!」

「下ろしたら、逃げるだろう?」

「そ、それは……」


 レティシアを横抱きにしたまま、ヒルベウスは器用にノッカーを鳴らす。扉の小窓を開けた門番の奴隷が驚いた声を上げた。


「ヒルベウス様!? 別荘に行かれたのでは……?」

「急用で戻ってきたんだ。開けてくれ」

「はい、ただいま」

 重厚な扉が開かれる。


「お願いですから下ろしてください! 逃げませんから!」


 扉をくぐる寸前で、もう一度懇願する。男性が女性を横抱きにして玄関をくぐるのは、結婚で新郎が新婦を我が家に招き入れる時の風習だ。


 懇願をヒルベウスはすげなく退ける。


「このまま入った方が早い」


 レティシアはいたたまれなさに唇を噛んでうつむく。視界の端で、門番があんぐりと口を開けて二人を見送る顔が見え、頬がさらに熱くなる。


 ヒルベウスは慣れた足取りで白と黒のモザイク模様の短い廊下を通ると、玄関広間アトリウムへと入っていった。


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