第2章 きみを引きとめるためならば 4
レティシアを侍女に任せたヒルベウスは、自室に戻って自分もトゥニカを着替えた。
レティシアの身支度を待つ間に雑務をこなす。
ロクスティウス家の主人は父親であるネウィウスだが、父は今、総督としてノリクム属州に赴任しているため、ヒルベウスが代理を務めている。
「ヒルベウス様、こちらです」
ヒルベウスと同じ年の奴隷のオイノスが、テーブルの上に小山のように積まれたパピルスの巻物や書字板を示す。
乳母の息子、つまり乳兄弟であるオイノスは、ヒルベウスが最も信頼する部下だ。
「たった二日、別荘に行っていただけで溜まったものだな」
書類仕事より、体を動かす方がヒルベウスの性に合う。オイノスの前なので、思わず愚痴をこぼすと、オイノスは表情も変えずに急ぎの書類から順に差し出してきた。
仕分けしてあった私信や宴への招待に返事をしたためたヒルベウスは、次の雑多な書類へとりかかる。
各地に散らばる荘園から送られてきた報告書に目を通し、必要とあれば指示の手紙を書く。
十代後半から二十代前半にかけて、ローマ軍団の
「……オイノス。言いたいことがあるのなら、はっきり言え。お前らしくもない」
急ぎの書類を片づけたところで、ヒルベウスは乳兄弟を睨んだ。先ほどから、物言いたげな眼差しをちらちらと送ってくるのが、やけに
「おや。わたくしはヒルベウス様から言い訳をなさりたいのかと思いまして、口をつぐんでいたのですが」
次の書簡を渡しながら、オイノスがいけしゃあしゃあと言う。
「わたしは言い訳が必要な行為などしていない。親類を保護するのは、次期当主として当然だろう」
「花嫁のように抱き上げて玄関をくぐるのも、ですか?」
やんわりと
「あれは逃げようとするから、不可抗力だ」
オイノスが小さく溜息を吐く。
「奴隷達が口さがなく噂しております。普段は決して羽目を外されない分、悪目立ちするのでしょう。どうぞご自重なさってください」
フルウィアの件を思い出し、かっ、と腹の中に灼熱の炎が燃え立つ。しかし、口に出したのは別の言葉だった。
「彼女はあくまで庇護するべきいとこであり、客人だ。彼女の名誉が傷つけられないよう、奴隷達の言動には気をつけてくれ」
「わかりました。ヒルベウス様は酔っておられた、とでも言っておきましょう」
言外に「あなたが抱き上げたからでしょう?」と言いたげなオイノスに、ヒルベウスは不満げに鼻を鳴らした。
「最近、小憎らしくなったぞ、お前」
「ネウィウス様がご不在の間、ご意見できるのはわたくしだけかと思いまして」
「余計なお世話だ」
「わたくしもこれ以上、余計な世話を焼かずにいられることを希望します」
この家の中で歯に
時に軽口を叩きながら、雑務を片づけていると、ケルウス家に都合を問い合わせるために遣わした奴隷が帰ってきた。エウロスという名のまだ二十歳前の若い奴隷で、目端が利くので使いの用に適している。
「夕方には
「そうか。では、今日中に行った方がいいな。レティシアの準備ができたら伝えてくれ」
「はい」
退出するエウロスを見送り、オイノスを振り返る。
「そういえば、
「サビーナ様は、本日はカミルス家の饗宴に招かれておりますので、お支度をなさっております。タティウス様は体育場で汗を流すとおしゃってお出かけに。まもなく帰ってらっしゃる頃かと存じますが」
「お二人に何か御用でも?」と視線で問うオイノスに、
「確認しただけだ」
と素っ気なく答える。返事を予想していたのか、オイノスは無言で書類整理に戻った。
ヒルベウスの実の母親は、彼を生んだ後、体を悪くし、一年も経たずに亡くなっている。サビーナは母の死後、父が新たに迎えた後妻だ。翌年生まれたタティウスは、異母弟になる。
サビーナ、タティウスとヒルベウスの間は冷え切っている。
サビーナにしてみれば、自分が生んだ息子を次期当主に据えるには、ヒルベウスが邪魔なのだから、仕方がない。三歳年下のタティウスも、異母兄への対抗心を隠そうともしない。
タティウスが出かけているのは好都合だった。奴の性格だ。レティシアを見ればつっかかってきたに違いない。
「レティシア様の支度が整ったそうです」
エウロスがとんぼ返りに帰ってきて、ヒルベウスは驚いた。
母親やフルウィアなど、ヒルベウスが知る女性は、すぐ近くへ出かけるだけでも、支度にもっと時間がかかるものだと思っていたのだが。
アトリウムに出ると、身支度を整えたレティシアが侍女と共に待っていた。レティシアが着ているのは、先ほどと同じ、地味な生成りのストラだ。
「その服でよいのか?」
念のため尋ねると、逆に不安そうな目で見上げられた。
「一張羅のストラなのですが、どこか変でしょうか? 身分が高い方の風習には
「いや、おかしいところはない」
慌てて答えながら、ヒルベウスは自分の思い込みを反省した。
てっきり、旅で汚れてもよいよう地味なストラを着ていると思っていたのだ。
レティシアの姿に変な点は一つもない。地味な服装でも清楚な美貌は損なわれていない。このままローマの街を歩けば、よからぬ思いを抱いた男達が山と寄ってくるだろう。
だが、ケルウス家の人々は、生成りのストラを纏ったレティシアを見て、何と思うだろうか。高価な絹や麻のストラはおろか、染めた布さえ買えぬ貧乏人だと
ヒルベウスは自分の気の利かなさに歯噛みした。絹のストラの一枚でも用意しておけばよかった。
だが、今後、レティシアがケルウス家に迎えられたとして、資産があるように見せかけるのがよいこととは思えない。正直が一番だろうと自分を納得させる。
「どこも変ではないから安心するといい。ケルウス家に向かおう。母君の兄夫婦……伯父と伯母が待っている」
「こんなに早くお会いできるなんて、嬉しいです。ありがとうございます」
レティシアが深々と頭を下げる。隠しきれない喜びを目の当たりにして、胸に苦い気持ちが湧き上がる。
「叔父上は悪い方ではないが……。心しておいたほうがいいかもしれないな」
きょとんとヒルベウスを見上げたレティシアは、訳がわからぬと言いたげな表情でこくりと頷いた。
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