第2章 きみを引きとめるためならば 5


 屋敷と同じ丘に建つケルウス家までは、少しの距離だった。

「やあ、よく来てくれた。急にどうしたのだ?」


 ケルウス家の主人である伯父のエンニウスが応接間タブラリウムへ入ってきたヒルベウスをわざわざ立って出迎えてくれる。エンニウスはヒルベウスの母ユリーシアと、レティシアの母ゼルシアの兄にあたる。


「我が家を訪ねてくれて嬉しいよ」

 エンニウスは親しげにヒルベウスの肩を叩く。が、伯父と甥とはいえ、それほど親しいわけではない。エンニウスが親しげに振る舞うのには理由がある。


 七年前、エンニウスは詐欺師同然の海運業者の口車に乗せられて多額の出資をした事業が大失敗し、体面を保つのが難しいほど経済的に追い詰められた。


 亡き妻の実家が困窮しているのを見過ごせないと援助を申し出たのが、ヒルベウスの父、ネウィウスである。七年経った今でも援助はまだ続いている。豊かな暮らしを続けられるのはネウィウスの好意あってこそ、そしてネウィウスの跡を継ぐのは長子のヒルベウスだと考えているからこそ、二十歳も年下の甥に親しげに振る舞うのだ。


「急ぎでお伝えしたい事柄がありまして。急な訪問で申し訳ありません」

 ヒルベウスは目上への礼節を守って頭を下げた。


「そうよ。今日は大切なお客様を招いた饗宴があるっていうのに、急に押しかけて。準備が間に合わなかったら、どう責任を取るつもり?」


 背もたれのある椅子に腰かけ、さも迷惑そうに言い放ったのは、エンニウスの妻・セビリアだ。ヒルベウスは酷薄な笑みを口元に浮かべる。


「それは失礼いたしました。伯母上はお顔に色々と塗る必要がおありですから、支度に時間がかかることを、すっかり失念しておりました」

「なっ⁉」

 暴言に目をいたセビリアが文句を言い返すより早く。


「しかしご安心を。わたしがお伝えしたいことがあるのは、伯父上にですから」

 言外に席を外せと伝えると、セビリアはこれ見よがしに背筋を伸ばして椅子に座り直した。


「わたくしはこの家の女主人よ。主人が知ることは、わたくしも知っておくべきでしょう?」


 何が女主人だ。女主人と名乗るなら、自分の家の経済状態くらい把握したらどうだ。

 思わず口から出そうになった悪態をかろうじて飲み込む。


 ケルウス家が困窮から抜け出せない最大の原因は、セビリアの金遣いの荒さだ。セビリアは自分が贅沢ぜいたくをしている金がどこから出ていると思っているのか。


「ところで、用というのは何かね?」

 伯父の声にヒルベウスは我に返った。セビリアといがみ合っている場合ではない。

 一歩横へ退くと、背後に立つレティシアを伯父の前に引き出す。


「伯父上。彼女の顔立ちに覚えはありませんか?」

「覚え……?」

 いぶかしげに呟き、レティシアを見つめたエンニウスの目が、すぐに驚愕に見開かれる。


「ユリーシア……いやゼルシアか! ゼルシアの若い頃に生き写しだ!」

「そうです。彼女はゼルシアの娘、レティシアです」


「初めまして、伯父様。お会いできて嬉しいです」

 レティシアは花が咲くような笑顔を伯父に向けると、深々と礼をした。しかし。


「ゼルシアの娘ですって⁉ エンニウス、だまされないで! 詐欺師に決まってるわ!」

 椅子から立ち上がり、険しい声を上げたのはセビリアだ。


「伯母上、失礼な物言いはやめていただこう。彼女はちゃんと、身を証明する品も持っている」

 ヒルベウスが促すと、レティシアは帯の間からお守りと指輪を取り出して伯父に差し出した。

 手に取ったエンニウスの口から、感極まった声が洩れる。


「これは確かにゼルシアの……!」

「母が、家を出る時に持って出たそうです」

 レティシアの言葉に、エンニウスは大きく頷く。

「そうだ。確かにゼルシアと一緒にお守りも消えていた……。お守りと指輪といい、瓜二つの顔立ちといい、やはり君は……」


「騙されないで! 品物なんて、いくらでも作れるわ! その娘のみすぼらしい格好を見てごらんなさい! 我が家の財産を狙う詐欺師に決まっているわ!」


「違います、奥様。私は決して……」

 傷ついた表情でかぶりを振るレティシアに、セビリアは興奮した様子で指を突きつける。

「財産狙いでないなら、どうして行方不明になって二十年も経ってから現れたの⁉」


「それは……」

 レティシアが俯いて絞り出した声は、わずかに震えていた。


「母が亡くなりましたので、身内の方にお知らせしなくてはと……」

「そうか、ゼルシアが……。昔から体が弱かったからな……」

 俯いたレティシアを見つめながら呟いたエンニウスが、ふと気づいたように尋ねる。

「ゼルシアの駆け落ち相……あ、いや。父君はどうされたのだ?」


 レティシアは悲しみをこらえるように唇を噛んだ。少しの間の後、ゆっくりとかぶりを振る。


「父も、亡くなりました。馬車の事故に遭いまして……」

「そうか……。両親そろって事故に遭うとは気の毒に……」

「お優しい言葉、ありがとうございます」

 レティシアは強張る顔に無理に微笑を浮かべて、もう一度頭を下げた。


 レティシアの横顔を見ていたヒルベウスは気づく。頭を下げた瞬間、レティシアが小さく安堵の吐息を洩らしたのを。

 思わず、伯父達をうかがうが、二人に気づいた様子はない。


 見間違いだったのだろうか。両親が事故死した話題で安堵の表情を見せるなんておかしい。それとも、伯父の人の良さを知って安心したのか。


「一人で来たということは、兄弟はいないのかい? 気の毒に……」

「エンニウス、しっかりしてちょうだい! 同情を引く手口にあっさりひっかかるなんて、人がいいにもほどがあるわ!」

 怒鳴られ、エンニウスはおろおろと妻を振り返る。


「しかしセビリア。この子の言っていることは筋が通っているし、持ってきた品も本物らしいが……」


「馬鹿ね! もっともらしい嘘を哀れっぽい顔で吐くのが詐欺師じゃないの! よしんば、この娘が本物のめいだとしても、私はいらないわ、こんな娘! 何の役にも立たないじゃない! 片づけるにしたって持参金が必要だし、厄介者以外の何物でもないわ!」


「奥様、お飲み物を……」

 盆にガラスの器を載せて運んできた若い女奴隷の腕が、興奮してレティシアを指さしたセビリアの手に運悪くぶつかる。

 女奴隷が慌てて器を押さえようとするも、ぴしゃっ、とはねた液体が、セビリアのストラの裾を濡らす。


「お、奥様、申し訳――」

 顔面を蒼白にした女奴隷が謝るより早く。


「今夜の饗宴の為にあつらえたストラに、なんてことを!」

 怒り狂ったセビリアが女奴隷を平手打ちにする。


 よろめいた女奴隷は、自分の身より高価な器を守ろうとした。盆の上でぶつかった器が澄んだ音を立てる。女奴隷の無防備な側頭部が椅子の背もたれについた青銅製の飾りにぶつかった。


「あっ……」

 固い音がし、側頭部から血があふれる。


「も、申し訳ありません! 申し訳ありません!」

 流れる血にも構わず、女奴隷は盆を下ろして床に平伏しようとする。


「無理に動かないで!」


 誰よりも早く動いたのはレティシアだった。強い声で言い、女奴隷に駆け寄る。

「ゆっくりでいいから、私の膝に頭をのせて。傷口を見るから」

 有無を言わせぬ口調で言い、女奴隷の手を引く。


「あ、あの……」

「いいから見せて!」

 一張羅と言っていたストラが血で汚れるのも構わず、女奴隷を引き寄せ、ふところから出した布で血をぬぐう。傷口を調べたレティシアは、ほっと安堵の息をついた。


「よかった。出血のわりに傷は浅いみたい。気分は悪くない?」

「は、はい。大丈夫です……」

 困惑もここに極まれりという表情で、女奴隷が頷く。レティシアは帯の間から合わせ貝の軟膏なんこう入れを取り出した。


「傷薬を塗っておくわ。できたら、薬に重ねて蜂蜜も塗っておくといいのだけれど……」

 軟膏が出てきただけでも驚きだが、さすがに蜂蜜は出てこないらしい。レティシアはヒルベウスの存在を初めて思い出したように顔を上げた。


 請うような視線に、思わず吹き出しそうになるのをこらえる。


 変わった娘だ。自分のことはかたくなに遠慮するくせに、傷を負った奴隷の為ならヒルベウスを頼る気になるのか。何にせよ、頼られて嫌な気にはならない。

 ヒルベウスは軽く咳払いして女奴隷を見た。


「少し喉の調子が悪いようだ。蜂蜜を何匙か頼む」

 レティシアの手を借り、もらった布で傷口を押さえながら立ち上がった女奴隷が、逃げるように部屋を出ていく。


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