第2章 きみを引きとめるためならば 6


「何なの、この娘⁉ こんなに手を血で汚して……けがらわしい!」


 呆気にとられていたセビリアが、我に返って再び癇癪かんしゃくを爆発させる。


「そういえば、ゼルシアの相手はギリシア人の医者だったな。君は……」

 エンニウスの視線を受けて、レティシアが頷く。


「はい。男子に恵まれなかった父は、私を後継者として医術を授けてくれました」


 医者の多くはギリシア人だが、女医はほとんどいない。エンニウスはゆっくりと頷いた。


「そうか。先ほどの血を恐れない態度は見事だった。きっと良い弟子だったのだな」


「ありがとうございます! エンニウス様のお言葉に、父も冥府で喜んでいることでしょう」


 よほど嬉しかったのか、レティシアは瞳を潤ませて深々と頭を下げる。うっすらと染まった頬は咲いたばかりの野ばらのようだ。


「エンニウス! まさかこの気味が悪い娘を迎え入れる気じゃないでしょうね⁉ 私は嫌よ! こんな得体のしれない厄介者!」


 セビリアの言葉に、レティシアが見えない刃で斬りつけられたように唇を噛んだ。血に汚れた両手を隠すように握りしめる。


「奥様。お目汚しをして申し訳ありませんでした。わたくしはただ、母が亡くなったことをお伝えしたかっただけです」


 レティシアは血の気の引いた顔を毅然きぜんと上げると、真っ直ぐにセビリアを見た。


「ケルウス家にご迷惑をおかけする気は、毛頭ございません。もうお会いすることもないでしょう。失礼します」


 レティシアはきっぱり言い切ると、もう一度頭を下げ、身を翻そうとした。ヒルベウスは咄嗟とっさに腕を掴んで引き留める。


 急に腕を引かれ、よろめいたレティシアの体を抱きとめる。


「っ!? 放してください! ヒルベウス様が汚れます!」


 レティシアが腕の中でもがくが、放すつもりはない。

 ヒルベウスはレティシアを抱きしめたまま、セビリアを振り返った。


「厄介者という言葉は訂正していただきましょう、伯母上。彼女の価値をわかっていないのは、あなただけのようだ」


 一息吸い込み、きっぱりと宣言する。


「わたしは、彼女と結婚します」


「なっ!?」


 ヒルベウス以外の全員が、驚愕に息を飲む。一番早く立ち直ったのはセビリアだった。


「何を寝ぼけたことを言っているの!? あなたにはフルウィアという婚約者がいるでしょう!?」


 フルウィアの名を聞いた瞬間、心にどす黒い怒りが湧き上がる。


 凶暴な感情を隠さず、ヒルベウスはありったけのさげすみを視線に込めて嫌悪する伯母を見下した。


「フルウィアには婚約破棄を言い渡しました。誰の種ともわからぬ子に、ロクスティウス家を継がせる気はありませんのでね」


「なっ……」

 言葉に詰まったセビリアに、容赦なく侮蔑の言葉を続ける。


「ふしだらなところは伯母上似ですかね。どうせなら、隠し上手なところも似ていれば、首尾よくロクスティウス家の嫁になれたでしょうに」


 セビリアが元老院議員の若い子弟と火遊びをしていることは、噂にうといヒルベウスでさえ知っている。知らぬは亭主ばかりなりだ。

 手酷い侮蔑にセビリアの唇が震える。


「もしたった一度、間違いを犯したとしても、フルウィアは両親ともに元老院議員階級の立派な娘よ! そのフルウィアを捨てて役立たずの貧乏人を選ぶなんて、正気の沙汰じゃないわ!」


「たった一度でも取り返しのつかない過ちはあるんですよ、伯母上。フルウィアと違い、レティシアは処女神ディアナに仕えることだってできる身だ。田舎育ちなら、馬鹿げた火遊びだって知らないでしょう。貞操観念もちゃんとある。ロクスティウス家の子どもを産むにはうってつけだ。それに、ケルウス家の血を引いているなら、この結婚で両家の結びつきは更に強くなるというもの。そうでしょう、伯父上?」


 突然、話を振られたエンニウスは、「ああ……」と曖昧あいまいに頷く。それが更にセビリアの癇癪かんしゃくに火をつけた。


「私は婚約破棄なんて認めないわ! そんな血に汚れた娘を選ぶなんて、狂人よ!」


 言葉の刃が突き刺さったように、腕の中のレティシアが大きく震える。


 そこでようやく、ヒルベウスはレティシアが唇を噛み締めて震えているのに気がついた。


 考えれば、男に襲われてまだ数時間しか経っていないのだ。急に抱き寄せられて嫌悪感を抱いて当然だ。

 抱きしめていた腕をほどく。次の瞬間。


 バチン!


 ありったけの力で左頬を平手打ちされて、頭が真っ白になる。驚いて見下ろした先に立っていたのはレティシアだ。


 ヒルベウスの心を掴んだ目――怒りに燃えて煌めく栗色の瞳が、真っ直ぐにこちらを射抜く。


「私はあなたとは結婚しません! そもそも、私の未来をどうしてあなたが決められるんですか!」


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